二 幸せ

二 幸せ

 ぷしゅう、何処か気の抜けるような音を立て開いたドア。急いでリュックを抱え直すと次の瞬間にはダムが決壊するようにそこから人が流れ出した。俺も後ろから押されるように電車から出て、若干感じる背中の痛みに耐えながらエスカレーターに乗る。改札を抜けて階段を下り、それから徒歩で大学まで向かう。十分程度で着くことだろう。同じ方向に向かって歩く人たちは大方同じ大学に通う生徒だと思う。あくまで憶測だけど。

 大学まで向かうまでのその短い距離の間に、ひとつだけある幼稚園、園児の楽しげな声がイヤホン越しでもまるで隣にいるかのように聞こえてくる。つまりそれほどまでに彼らの声が大きく元気であるということ。元気なのは良いことだ。園内を走り回る園児をなんとなく目で追っていると、その奥の入り口から新たに登園してくる親子の姿が見えた。スーツ姿の母親とまんまるな赤い頬の男の子。制服に着られている感じが否めない。彼は大きな声で先生たちに挨拶をすると、荷物を持つ母親を他所に友人たちのところへ走って行ってしまった。母親は恥ずかしそうに先生に頭を下げると、荷物を預けて子どもに一言声を掛け小走りで去っていった。

 そういえば、どうして幼稚園や保育園の送り迎えにやって来るのは母親が多いのだろう。いくら時代が変わったとはいえ日本に根付いた育児イコール母親の役割みたいな考えの根底が覆るわけではないだろう。事実、日本の育児に対する制度は他国に比べ劣っている部分が多いし、俺のバイト先の店長は最近子供が生まれたばかりだが、

「子育ても家事も手伝ってるんだよ。」

というなんとも言えない台詞が聞かれた。当然その場も気まずい空気が広がっていた。当の本人は凄いだろ、とでも言いたそうに鼻を膨らませていたが何も誇れるところはない。自信ありげなところ、申し訳ないが。

 そもそもの話だ。

 家事や育児を手伝う、とは一体どの立場からものを言っているんだと問いたい。母親は自分のお腹を痛めて、まさしく命がけの出産を行う。下手すると死んでしまうかもしれない。普通に生まれてくる、なんてことは当たり前でなく奇跡なのだ。その痛みも辛さも経験出来ないくせして、何を上から目線で「手伝う」だなんて言っているのか。そもそも育児というのは両親揃ってするものであり、手伝うという単語が出てくる時点で日本特有の価値観が表れていると思う。俺には結婚どころか彼女ができる気配すらないが、それでも店長のような旦那にはなりたくないといい反面教師として学ばせてもらった。

 あと、育児といえば。つい最近テレビで、母親が生まれたばかりの子どもに手を掛け殺してしまうというニュースが大々的に報道されていた。仕事と育児とで板挟みになり、そこで泣いて主張する子どもの声に耐えられなくなり首を絞めて殺害。子どもは生後二か月であったという。このニュースが報道された直後、世は母親を責めた。生後二か月の子供の首を絞めるだなんて、なんて非道な母親なんだ、最低、等々の言葉がその日のうちのSNSには並んだ。朝からそれらの言葉たちを見た俺はふと考えたのだ。世間の何の事情も知らぬ他人たちは母親を責め立てる。しかし、その母親の状況は、感情は、どうだったのだろう。母親には頼れる人がいたのか、旦那や家庭の環境はどうだったのか、精神的に追い詰められていなかったのか。俺は、世に放たれる情報だけで母親の全てを知った気になっているのではないのだろうか。だからといって、母親が悪くないと全面的にそちらの肩を持つわけではない。しかし俺の知らない事情があったとして、そこに誰かしら介入できていたら最悪の事態は防げていたかもしれない。

 では少々広大なテーマではあるが、そのために何ができるのか。先にも話したが、まずは日本の根底に根付いた育児イコール母親の役割という考えを改めることから始めなければいけないのだと思う。今の日本を動かすにおいて、その絶大な決定権を持っている政治家たちの上にいるのは頭のお堅い人たちばかり。そしてそういう人たちはこぞって家事育児を奥さんに任せ、自分は仕事だけをしてきた人ばかりなのだろう。偏見でしかないけれど。これもまた日本特有ではあるが、年功序列、年齢の高い人やキャリアを積んだ人間の意見が大きくなるような風潮がある。彼らの意見が例え今現在世間に求められているニーズと違っていたとしても、少しずれていたとしても。声が大きい人間の意見は通りやすく、まさしくその通りになっている。世間を見て、育児を経験して、そういった己の意見を強くする土台をしっかりと持っている人が発言しても結局はその大きな声にかき消されているように感じる。そこをまず、変えないといけないのだ。声の大きなそういう人たちの声ばかりを通していては、そりゃあ国民のヘイトが溜まることにも頷ける。そういうことに、声の大きい彼らがまず、気づかないと。その一歩がないとここはいつまで経っても変われないのだと、俺はそう思う。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

毒吐く、 森野 梅 @morino__ume

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ