耳の調子が悪い。


 まるで湯船に顔まで浸かったかのように、周囲の雑踏はどれもぼやけて聞こえる。


 その癖心臓の音はどこまでも大きくて、水面に大きな岩が落ちるように、脈動が脳裏で弾ける。

 


 どくん。



 緊張、しているのだろうか。


 頭を下に向け、僕の体を見下ろす。よく見ると手先は震え、耳を澄ませてみれば誰かが息を切らすような音が微かに聞こえる。


 体はサウナから上がったばかりみたいに火照っている。腕から汗が流れ落ち、地面に小さなシミを作る。



 どくん。

 


 今から僕がやろうとしていることに、どうやら僕はかなりの緊迫感を持ち得ているようだった。


 けれど、少なくとも今考えている僕の脳みそは、これまでにないくらい生き生きしていて。


 言うなれば、武者震いというやつだろうか。


 これまでの念願の成就。『目標』の達成。


 それを前に、僕と僕の体は、これまでにないほど興奮している。

 


 どくん。どくん。



 音を知覚するより先に、見慣れた電車が目の前を通過するのを目が捉える。


 心なしか電車のスピードが速く感じる。僕が焦っているだけか。


 共にやってきた強い風が僕の全身を叩き付ける。妙に心地よい。


 いつか同じ場所で、祥太と電車に乗ったあの日のことが頭によぎる。


 電車は段々とスピードを緩め、そして僕の目の前に一つの扉がやってきた。



 どくん。どくん。



 ポケットに手を突っ込む。


 硬くて冷たい感触。小ぶりだけどやけに存在感のあるそれは、僕の心の火種に着実に油を注いでくれる。


 唾を飲み込み、電車へ足をかける。



 どくん。どくん。どくん。



 先程取った連絡によれば、彼はいつも通り先頭車両に乗り込んでいるらしい。

「塾帰りの電車は気持ちいいぜ」という、間の抜けたメッセージを思い出す。


 周囲を見回す。


 高身長……切れ目……茶髪……。

 


 いた。



 どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。



 彼のもとへ足を踏み出す。


 一歩、また一歩。


 体が重い。足がふらつく。


 視界はまるで霧の中にいるかのように靄にかかっている。



 途中で何かにぶつかる。


 人の声のようなものが聞こえる。


 けれど、気にしない。



 違和感。



 どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。



 気にしない。



 周囲の人が、景色が、どんどん僕に追い抜かされていく。


 いつの間にか、走っていた。


 一瞬と永い時間をかけ、祥太の前にやってくる。


 彼の顔を見上げる。


 何も知らない祥太は、明らかな疑問符を顔に浮かべている。


 知らなくて、いい。


 君はただ、僕の背中を押してくれただけだから。


 ポケットに手を突っ込み、サバイバルナイフを取り出す。


 銀色の刃が煌めく。


 彼の顔を見る。


 恐怖。混乱。


今の僕にはそれさえも愛おしかった。


これで、ようやく、終わる。



違和感。



 どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。



 気にしない。



 違和感。



 どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。



 気にしない!



「祥太あああああああああ」



 ナイフの柄を強く握る。


 ごり、という鈍い音。


 掌に伝わる肉をえぐる感覚。



 どくん。



 全てが静止する。


 何も聞こえない。


 目に見える景色は停止し、誰もが驚きの顔を浮かべて立ち尽くす。


 手を生暖かい何かが伝う。


 目を向ける。


 血だ。


 

 血だ。


 どす黒い誰かの血液が、僕の肌を一面に染めていた。



「きゃあああああああああああ」



 悲鳴が電車内に響き渡る。


 時間が、動き出す。


 声の方へ顔を向ける。


 二十代くらいの女性。腰が抜けてしまったのか地面にへたり込んでいる。


 けれど、僕は気に留めない。なぜならやるべきことを成し遂げたからだ。


 祥太に制裁を加える。死んだ親の罪は子が背負うべきだ。


 角川太輔の時は僕の判断が遅かった。


 だから、逃げられた。


 今度は逃げられないように、一番手っ取り早い方法を取った。


 緩慢な動作で床に倒れた祥太からナイフを引き抜く。


 傷口から血が、まるで漫画みたいに噴き出す。





 と。




 

 誰だ?



 悪寒が走る。


 目の前にいる「祥太」の顔を覗き込む。


 長身に切れ長の目、茶髪。体の特徴は間違いなく合致している。


 何度も目をこする。


 でも違う。彼は違う。


 祥太じゃ、ない。

 


 どくん。



どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。



 心臓がうるさい。


 けどそれとは裏腹に、どんどん血の気が引いていくのを感じる。


 思い出した。あの時祥太が言っていた。これは「いつもの」電車なんだ。ホームに止まったのはもっと先で。あの時ならあの場所で乗るのが正解だったけど「いつも」は違う。今日の僕はこのことで頭がいっぱいだったから気が付かなかったんだ。夢中になっていて、よく確認もせずに見ず知らずの人間を差した。くそ。二度手間だ。じゃあここは先頭車両じゃない。二両先?今から行くか。でもどうやって?他の人たちパニックを起こして先頭車両の方に逃げてる。通れっこない。でもやらなきゃ。終わらせなきゃ。


 終わらせなきゃ、ならない。このままじゃ、終われない。やっと僕にもできた目標。それが中途半端なところで無くなっちゃう。それは嫌だ。ここまで来たのに、ここまで来たのに。悔しい。嫌だ。


 大きな振動が体に加わる。電車が急停止したのだと脳が理解する。誰かが非常用の通報機を押したのだろうか。


 慣性に体を呑まれ、僕はそのまま床に投げ飛ばされる。

 


 ぐさり。

 


 何かを突き刺す感触。

 

 さっきも感じたこの感触。


 ふと、自分が右手にナイフを手にしていたことに気が付く。


 右手に目を向ける。


 真っ赤に染まった掌。


 その先には。


 人の肉に深々と突き刺さったナイフが握られていた。



「ぐあああああああああああああ」



 喉が抉れるような悲鳴にたじろぐ。


 一瞬遅れて、目の前にいるのが先程腰が抜けて座り込んでいた女性だと気づく。

 スカートから覗く透き通るような太ももに、サバイバルナイフが深々とめり込んでいた。


 あわてて、彼女からナイフを引き抜く。


 肉片と共に、どす黒い血液があたりに飛び散る。


 さっきよりも一際大きな喘ぎ声が車内にこだまする。


 僕は後ずさる。一歩、一歩と。


 違う、違うんだ。これは過失だ。別にあなたを傷つけるつもりはなかったんだ。僕はただ祥太を殺せればよかったんだ。無関係の人を巻き込むなんて、想像も、してなかったのに――

 


 違う。



 何かが違う。



 ふと頭によぎった疑念に、僕は首を傾げる。


 電車の中ではけたたましいサイレンの音が鳴り続け、乗客を僕から遠ざけようとするアナウンスがまくし立てられている。


 

 目の前で横たわる女性。


 彼女の足からとくとくと血が流れる。


 まるで栓が馬鹿になった蛇口のように、とめどなく血はあふれ出していく。


 血潮。


 流れる血液のことをそう言うらしい。


 まさしくその言葉通りだと場違いながら思った。


 彼女の足元を埋める大量の血。それはまるで川のように流れ、じわじわと広がっていく。


 上流から下流へと川がどんどんと広がっていくかのように。


 そして川の水はいつしか海へと流れだす。


 全ての命の源。


 僕らの体を流れる血だってそうだ。それがなければ僕は今こうして立っていることすらできない。


 命の源。血潮。


 美しい。


 頭をよぎる一粒の感慨。


 命の赤に塗れた彼女を、僕は不思議とそう感じていた。



 いつの間にか周囲の喧騒は聞こえなくなっていた。


 僕は女性の前にかがむ。


 先程まで泣き喚いていた彼女。体力が尽きたのか、今では声も出さず虚空を見つめている。


 彼女の足に目を向ける。


 透き通るような色白の肌。多量の血液を失ってその輝きはさっきより幾分か増している。


 無意識に、彼女のふくらはぎに触れる。彼女が微かに反応する。


 シルクのようにきめ細かな触り心地。柔らかな弾力を感じながら指を上へとなぞる。


 太もものあたりで、指が生温かい液体に触れる。


 そこより先は一転して、おびただしい量の血液が彼女の肌を染め上げている。


 純白と深紅。


 二色のコントラストが眩しいほどに煌めく。


 そして、そこを僕の指が交じり合っていく。


 ぴちゃぴちゃ。


 音を立てて、自分の指に血を塗りたくる。


 ぴちゃぴちゃ。


 彼女に、染め上げられる。


 真っ赤に覆われた僕の人差し指。


 ああ。


 なんて綺麗なんだ。


 恐る恐る、指を顔に近づける。


 鼻につく、ツンとした匂い。


 あの日の記憶が蘇る。


 それは口にくわえた瞬間、一気に拡散していく。


 少ししょっぱい鉄の味。紛れもない血液の味。


 口の中で何度も転がす。


 味覚を、嗅覚を、幾度となく掻き回していく。


 体中の血液が沸騰する。下腹部が急速に熱くなっていく。


 気づいたときには、僕の股間は破裂しそうなほどに膨れ上がっていた。


 ふと。


 背中に誰かの視線を感じる。


 幼子のように指をしゃぶりながら、僕は後ろに顔を向ける。


 

 紗英だ。



 一紙纏わぬ姿で、紗英が僕を見下ろしていた。


「あ、ああ」


 変な声を出しながら僕は体を後ろに引きずる。


 足が上手く動かない。僕も腰が抜けてしまったのか。


 彼女の裸体は、まるでバケツを被ったかのように血に塗れている。


 赤く濡れた顔から覗く、黒く潤んだ双眸。


 ああ。なんて悲しそうな顔を浮かべているんだ。


 分かっていた。目の前にいる紗英はきっと僕の妄想の産物で、僕はもうとっくにおかしくなっていることを。


 でも僕はそれを認めたくなくて、この歪な、歪な思いを、角川太輔への復讐だと自己暗示したんだ。


 だけど、僕の計画はこんなにも上手く行かなくて。目の前に広がる血潮はこんなにも蠱惑的で。


 もう、認めるしかないじゃないか。


 あの日。紗英から「汚されちゃった」と話を聞かされた時。


 僕は、彼女が初めてを奪われた日の事を考えていた。


 いつ、どこで。誰と。どんなことをしたのだろう。


 相手はどんな男だっただろう。いい歳をしたおじさんかもしれない。


 嫌がる彼女を、無理やりホテルにでも連れ込んだのだろうか。


 彼女の唇を、息を吸う暇もないほど舐め回して。


 彼女の無防備な首に、傷ができるほど咬みついたかもしれない。


 男のペニスが彼女の中に入っていく時はどうだっただろう。


 痛かったのだろうか。あるいは存外気持ち良かったのだろうか。


 処女膜が破れて血が、血が出たかもしれない。


 そう、血。


 秘部から流れる血。その意味合いに酷く興奮した。


 僕の前では、紗英がいまだ自身の悲痛な思いを吐露している。


 それを見ながら、僕は想像した。


 彼女の血の色を。


 彼女の血の匂いを。


 彼女の血の味を。


 ふと、紗英が不安そうに僕の顔を覗いてきたんだ。


 その見るからに痛々しい、歪んだ表情に。


 僕はどうしようもなく、恋に落ちてしまったんだ。




 体に加わる強い衝撃。


 少しして、僕は自分が何者かに取り押さえられたことに気づく。


 僕を取り囲む、紺色の服に身を包んだ男たち。


 おそらく警察の人間であろう彼らは僕をうつ伏せに押さえつけると、どこからか取り出した手錠を僕の腕にかける。


 人を、殺した。


 自分の犯した罪の事実は、未だに希薄だった。


 このまま僕は現行犯逮捕され、刑務所行きだろうか。


 でも、まだやり残したことがある。


 僕は何とか可動域の少ない頭を必死に動かし、周囲の状況を確認する。


 多量の血にまみれた床。僕を取り囲む警察官。その周囲に蔓延る野次馬たち。


 その中から、僕は彼を見つけ出す。


「祥太」


 彼がこちらに目を向ける。


 明らかな困惑と恐怖の表情。顔は生気を失ったように青ざめ、唇が小刻みに震えている。


 今度は見間違いじゃない。彼こそが正真正銘の祥太だ。


 口角が自然と上がる。彼への殺意は、いつの間にか無くなっていた。


「祥太、伝えたいことがあるんだ」


 必死に口を動かし、言葉を紡ぐ。


 彼にだけは、伝えたかった。


 顔面に強い衝撃が加わる。どうやら顔を押さえつけられたようだ。


もうこれ以上、何かする意志はないんだけどな。首が閉まる。息が苦しい。


 喉がひゅーひゅーと音を立てる。痛みに耐え、かろうじて声を発する。


「祥太。僕さ」



 好きな人が出来たんだ。

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