五
夏休みに入った。
去年まであんなに楽しみだった長期休暇も、今年は文字通り地獄と化す。
クラスメイトの多くはその事実に気づいているようで、夏休み前最後の学校の日、みんなが顔に浮かべていた絶望の表情を今でも覚えている。
勿論それは僕にとっても例外ではなく、ここのところは毎日自分の部屋で勉強三昧。塾に通っていないので、一日中外出しない日もしばしばあった。もっとも、これと言ってすることもなく、暇があれば勉強をしていたのは夏休み前と大差ないのだけど。
けれど、今日僕は久しぶりに家を出、外へと繰り出していた。しかも、電車を乗り継ぎ、大都会東京へと。
渋谷駅で降り、人の波に揉まれながらやっとの思いで改札を出る。真夏の太陽と人混みの熱ですっかり汗をかいていた。自販機で水を買い、一気に飲み干す。
東京に来るのはいつぶりだろうか。高校に入ってからは特に行った記憶もないので、三年以上は来ていない気がする。本来であれば大学受験の時にそのブランクを上書きするはずだっただろうが、紗英の事もあるので仕方がない。
都会の空気は不味いとよく言うが、田舎住みの僕からしてみるとあながち迷信でもないように感じる。地面はどこもかしこもコンクリートで、日光の照りつけが熱くて眩しい。今住んでいる場所が特段好きという訳でもないが、少なくともこっちで一人暮らしするよりかはましな気がした。
ハチ公前広場を横切り、そのまま道なりに進む。数分歩いたところで左に折れる。雑居ビルの立ち並ぶ比較的人通りの少ない一本道。そこを真っすぐ進み、十字路に差し掛かる手前で僕は足を止める。
右手にそびえる、何の変哲もない雑居ビル。結城さんの資料によればここの三階が例のスターエッグらしい。
添付されている画像とも照らし合わせて確認する。……間違いない。ここに紗英を汚した犯人がいる。
エレベーターは無いようだったので、急勾配の階段を一歩ずつ昇る。階段には、壁にも踊り場にもスターエッグの所在を裏付ける看板や広告といったものは一切見受けられなかった。不信感を募らせながら足を進める。
多少息を乱しながら三階に到達した。目の前には、いかにもな自動ドアがある。「テナント募集中」の張り紙もされていないので、恐らくここが件の事務所だろう。
大きく深呼吸し、意を決してドアへ向かう。年代物なのだろうか、緩慢な動きでドアが両側に開く。
「いらっしゃいませー」
覇気のない声が耳をかすめる。エントランス――と呼んでいいのかもわからないその空間は、殆ど物が置かれておらず、受付代わりの長机と椅子、そこに座りスマホを見つめる女性と、全く場違いの派手なシクラメンが存在しているだけだった。
「すいません――えっと」
受付にいる女性に話しかけようと近づいた僕は、彼女が大変華美な服装に身を包んでいることに気づく。肩を大きくさらけ出したワインレッドのドレス。サイズにゆとりはなく、彼女のボディラインがくっきりと強調されている。思わずまじまじと見てしまう。
「どうかされましたか?」
こちらの視線に気づく様子もなく、女性は先程と同じテンションで応える。
「失礼ですが、角川太輔さんはいらっしゃいますか」
彼女の額に目線を固定して僕は言う。
結城さんから調査結果を報告されてから、この情報をどう使うかずっと考えていた。法に抵触するつもりはない。ただ、紗英がこれ以上不幸になってほしくないと思っていた。最終的に、角川太輔が紗英に枕営業を迫ったのを認めること、紗英との関係を金輪際断ち切ること、紗英との間で上手く示談を成功させることの三つにまとまった。
「あ、所長のお客さんですね」
女性は飄々とそう答えると、目線を左に移した。僕も彼女の目を追う。
そこには、先程の自動ドアとは打って変わった重厚な扉があった。大きなレバーが下を向いて閉じている。見たところ防音仕様のものだろうか。微かに奥から音が漏れている。パーティーでもやっているのだろうか。
「多分所長ならそっちに――あ、ちょっと待ってください」
すると、女性はそう言って長机の中に手を突っ込み、何かを探し始めた。取り出されたのはA5サイズ程のスケジュール帳。ぱらぱらとページを捲りながら女性が口を開く。
「えーっと……ああ、今日火曜日ですね。だから、この時間だと所長、病院に行ってますね。ここからすぐ近くの――」
病院。そういえば結城さんの調査でも、週に一度のペースで通院しているとの情報があった。
「あとどのくらいで戻ってくるか、わかりますか?」
「んーと、そうですね」
僕の問いに彼女は首をひねる。
「よくよく考えてみると、火曜日もこの時間にはいつも戻ってきていますね。どこか寄り道でもしてるのかな。それとも、またスカウト?」
半ば自問自答するような形で彼女はそう答える。
仕方ない。僕は彼女に一度出直す旨を伝える。二時間ほど待てば流石に戻ってくるだろうか。東京の喧騒は好きではないが新鮮なので、日ごろの息抜きも兼ねて少しぶらついてみるのもいいかもしれない。
「すいません」
自動ドアへ向かおうとすると、先程の女性が声をかけてきた。
「何度もごめんなさい、念のためお名前をお聞きしてもいいですか」
この後、角川太輔へ一報入れてもらえるらしい。丁寧な対応に感心しつつ、僕は自分の名前を告げる。
「木村康生って言います。えっと、漢字は健康の「康」に――」
唐突に、馴染みのある電子音が部屋一体に響き渡る。
少々お待ちください、と頭を下げ、女性が裏手へ消える。程なくしてガチャ、と受話器を取る音が聞こえる。
「お世話になっております、芸能事務所スターエッグです――はい、間違いないですが――」
彼女が受け答えする声が微かに聞こえる。
嫌な予感がした。
「――角川――ええ、弊社の――そうです、病院へ行ってまだ帰って来てないですが――え、倒、――はい――はい――今すぐ、今すぐ向かいます」
先程より大きな音を立て受話器が置かれる。
がさこそと物をしまうような音がしたと思うと、先程の女性がハンドバッグを携えて姿を表した。
僕の前を素通りし入り口へ走る彼女に僕は声をかける。
「すいません、さっき角川って」
こちらを完全に忘れていた様子の彼女は、一瞬ポカンとした顔を浮かべた後、慌てて言葉を紡いだ。
「えっと……そう所長が……!心臓発作、帰りがけに起こしたって……それで、心肺停止で危ないって――」
視界が、暗転する。
「糖尿病に起因する心筋梗塞」
携帯越しに結城さんの声が響く。
夕日の照らす畦道を歩きながら、僕は彼の次の言葉を待った。
「ただ彼の場合は無痛性心筋梗塞というものらしく、文字通り痛みを伴わない発作だった。痛みがないということは自覚症状がないということになる訳で、角川も気づいた頃には時すでに遅し。発見されたとき、彼は事務所に程近い路上で突っ伏していたらしい。携帯を取り出すような素振りもなかったことから、突如として意識が途切れたのだろう、というのが病院の見解だ」
糖尿病患者にはしばしば起こる症状らしい、と結城さんは最後に付け加える。
「それで発見も遅くなって、心肺停止でぽっくり逝ったと」
「おい少年、言葉に棘があるぞ。そんな物騒な言葉使って、親御さんに聞かれでもしたらどうするんだい」
「大丈夫ですよ」
僕は足を止め、あたりを見回す。
結城さんからの連絡があったのは、ちょうど僕が勉強の息抜きがてら散歩していた時だった。
田舎というのと、突き刺すような西日の暑さも相まって、周囲には一人の姿も見受けられない。
「それにしても、わざわざありがとうございました」
再び歩き始めながら僕は言う。
事務所で角川太輔の危篤を聞いてから、僕は一目散に彼が運ばれたという病院へ向かった。
けれど、結局僕が彼と赤の他人であることに変わりはなく、彼がその後どうなったのかを知ることは出来なかった。
その後、一縷の望みをかけ結城さんに事の顛末を説明し今日に至る。
「まさかここまで調べて頂けるなんて。どうお礼したらいいか」
「お金払おう、とでも考えているのなら、悪いけどそれは結構だよ」
「え、でも――」
驚く僕の言葉を遮り、結城さんが優しく語り掛ける。
「今の僕らは探偵結城吉弘と依頼人木村康生ではなく、一個人の結城吉弘と木村康生だ。友人、ではないか。うん、言うなれば知人同士かな。知人のお願いの一つや二つ、快く聞いてあげるくらいには私は寛容なのだよ」
胸に感謝の気持ちが湧いてくる。けれどそれは、あっという間に漠然とした虚無感に吞み込まれてしまった。
「少年」
結城さんの声が聞こえる。
「はい」
「良いのか悪いのかわからないが、これで君が何かをしようとしている、あるいはしようとしていた相手はこの世から消えてしまった訳だ。――これから、どうするんだい」
数秒の間が空く。
僕は口を開く。
「よく、わからないです」
先日まで、紗英を汚した男を断罪するため、何よりも心血を注いで生きてきた。
大金を払い、情報を集め、心を押し殺し、遂にあと一歩のところまできた。
それが、そいつが、呆気なく死んだ。
逃げた。
それ以来、やり場のない強い虚無感が胸に巣食って離れない。
紗英のために出来ることはもうないのか。
紗英の、ために。
その後、結城さんと他愛もない話をしばらくして電話を切った。
「受験勉強頑張れよ」と、最後に彼は、意外にも僕を労う言葉で会話を締めた。
その言葉が、ここ数か月の「非日常」を一気に現実に引き戻すような気がして、なんだかもどかしかった。
歩いてきた道をとぼとぼと戻る。いつの間にか我が家のある住宅街まで戻ってきていた。
さっきまで僕を突き刺してやまなかった太陽の光も、気付けばすっかり鳴りを潜めている。
街灯が次々と目を覚ます。光と陰のコントラストが明確になっていく。気だるい夜の気配がすぐそこまで迫ってきていた。
「康生?」
生ぬるい風が僕の頬を撫でる。
それに応えるように僕は後ろへ振り向く。
馴染みのある声。馴染みのある姿。
けれど久しく顔を合わせていなかった祥太が、そこにはいた。
近くの公園のブランコに二人で腰掛ける。
「今日、塾で模試があってさ」
誰に聞かれるでもなく祥太が話し始める。
「正直に言うと、俺、大コケしちゃって。多分過去最低かも。自己採点はまだしてないんだけど、結果はもう目に見えてるからあんまり気が乗らなくてさ。塾で自習しようにも模試のことばっか頭によぎって集中できないし、家に帰ってもなんだか気まずいしで、ぶらぶらしてた次第であります」
「それで電車とバス乗り継いでここまで来たの?」
そう問いかける僕に、彼はぎこちない笑顔を返す。
彼の言うことは、きっと半分くらい真実なのだろう。塾にも家にも落ち着ける場所がなく、当てもなくぶらついていたのは想像に難くない。
だけどそのもう半分を、彼が誤魔化していることに僕は薄々勘付いていた。
夏休みなのにもかかわらず、祥太は制服に身を包んでいた。
どこに行っていたのかは、何となく分かっていた。
「そっちはどうしたの?」
話を逸らすように祥太が尋ねてくる。
「まあ、僕もそんな感じ」
「椿木ちゃんに振られでもしたか?」
「笑えないな」
「――ごめん」
そこで、会話が止まる。
幾何かの沈黙。ブランコが揺れる金属音が虚しく響く。
「何か、あった?」
そう聞いてきたのは祥太の方からだった。
「どうして?」
「顔見れば分かるよ。目、死んでるし」
「受験勉強疲れかも」
「お前、勉強苦じゃないだろ」
「……まあね」
そこまで顔に出ていたのだろうか。家に帰ってから鏡を見てみようか。
「前からさ、何か怪しかったんだよな」
地面をじっと見つめながら祥太が口を開く。
「お前が塾に行くって言い出した時もそうだけどさ、とびきり怪しかったのはあの日だよ。ほら、塾を探しに行くって帰りに電車乗った日。お前が降りた駅ってさ、駅前はそれなりだけど、他は住宅街しかないような場所なんだよ。塾があるなんて聞いたことないし、――まあ個人経営の所ならあるかもしれないけど、少なくとも康生が目指すような大学を指導してくれる大手様は確実にない。そんな駅に何の迷いもなく降りてったもんだから、やけに記憶に残ってて」
祥太が僕の目に視線を向ける。
「なあ、なんか、悩んでたりしないか。――今の俺が言えることでもないかもだけど、人に言うことで肩の荷が下りる、ってこともあると思うんだ。その、さ、俺で良ければだけど、いつでも相談、乗るからさ」
言いたくなければそれでも良い、と祥太は力なく僕に笑いかける。
僕は素直に感心していた。
祥太も、きっと胸の内では自分の事で精一杯だろうに、それでも僕に気をかけてくれた。
そんな彼の慈しみに縋りつきたくなったからだろうか。あるいは彼の壊れそうな笑顔があまりにも気の毒だったからだろうか。
気づけば僕は彼に――よりにもよって一番話してはいけない相手に――胸の内を吐露していた。
「僕、目標が出来たんだ」
何となく彼と目線を合わせるのが怖くて、地面に向かって言葉を投げかける。
「十八年間生きてきて、初めて、自らやってみたいって、自分の全てをかけて成し遂げたいって思えるものに出会えたんだ」
彼の視線を感じる。無言で話を聞く彼にどこか安心感を覚えながら言葉を続ける。
「でも、あともう少しで達成できるって所で、突然その目標は、姿を消してしまった。ゴールへの道のりが遠くなったんじゃなくて、ゴールそのものが破壊されてしまった」
だから、僕は途方に暮れているんだ。この感情を、どこへ向ければいいのか。胸から今にも溢れ出そうな、この得体の知れない歪な感情を、僕は一生抱え込んでいかなければならないのか。
「受験でいうなら、学力云々は別として、志望校が突如経営不振で潰れたってとこか」
祥太が僕の言葉に応える。
「これは想像でしかないから、康生の実際の状況とは違うかもしれないけど――、その目標とやらを追えなくなったのが確定している以上は、それ自体は諦めるしかないのかもしれない。ただ、道っていうのは、妥協すれば他にいくらでもあると俺は思う」
妥協。その言葉の持つマイナスなイメージに僕は首をかしげる。
「妥協って聞くと嫌な感じがするかもしれないけど、俺は別に悪いことじゃないと思ってる。というか、叶えられない夢を永遠に求めている方が問題だ。幻想を抱くのは結構だけど、そのままじゃ踏ん切りの付かない感情もあるんじゃないか。これは無念の敗退でもなければ戦略的撤退でもない。ただの大きな迂回路だ。別に、目標は人生でたった一つじゃないといけない訳でもないし、目標の先に道が続かないとも限らないだろう?今目の前にある目標を達成することは、確かに真の意味ではできないかもしれない。けど、『終わり良ければ全て良し』って言うように、それだけが長い長い人生で大きな枷になるとは限らないんじゃないか」
そう語ると、祥太は自分の発言に照れたのか頭をポリポリ書き始める。
その様子を見つめながら、僕は無意識に口を開いていた。
「その、『妥協』を僕がしたとして」
祥太が手を止める。
「祥太は、僕を肯定してくれるのか」
一瞬間の抜けた顔を浮かべた後、祥太は当たり前のようにこう言った。
「そりゃ勿論。俺たち親友だろ?」
高校三年生にもなるのに、こんな歯痒い言葉を平気で口にした祥太。
そんな彼の笑顔を見て、僕は何を感じたのだろうか。
それは怒りでも、殺意でもなく。
限りなく無垢な、感謝の気持ちだった。
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