ガタンゴトンと、無機質なリズムが床から伝わってくる。


 額に滲み出た汗を拭いながら、僕は顔を天井のクーラーに向ける。ゴォーンと大きなうねり声を上げて顔に吹き付ける風は、僕らの火照った体を急激に冷やしていく。


「もう夏本番、って感じだな」


 二人で車窓に目をやる。一面に広がった青い稲穂と空に浮かぶ雲のまだら模様が、勢いよく僕らの視界をかすめていく。

 僕と祥太を乗せた電車は七月の炎天下の中を軽快に駆けていた。


「文化祭も終わって、来週からは夏休みだしね」


 僕の言葉に、祥太は頭を抱え込む。

「そう文化祭……!束の間の安息、最後の晩餐……あの日々が懐かしい……」

「まだ一週間しか経ってないけど」

「あの時間は高校一番の思い出だな。劇も無事に終わって、青春してたなあ」


 毎年この月に行われる文化祭。三年生は劇をやるのが通例で、僕のクラスでは某有名ディズニー作品を発表した。


「椿木ちゃんもせっかくなら出てほしかったけどな。ヒロイン役、絶対似合うもん」

「そうだね」

「否定しないのな」

「そりゃ、顔は整ってるし。――他意はないけど」


 結局あの後も紗英が学校に来ることは一度たりともなかった。彼女の家を訪れたのもその時きりだ。


 心なしか明るくなった茶髪をかき上げ、祥太がこちらに顔を向ける。

「『夏は受験の天王山』」

「うわ」


 思わず声が出る。


「うわってなんだよ」

「いや、その言葉、もう聞き飽きたなって」

「まあね」


 文化祭が終わってからというもの、毎日のように学校で聞く言葉だ。担任だけでなく、どの科目の先生も毎回口にするから質が悪い。


「夏休みの使い方がかなり大事だっていうのは、僕ら受験生が一番よく分かってるんだから、そんなに何度も繰り返さなくてもいいのに」

「その通りだよ、全く。――まあでも、康生も実際それに感化されたわけじゃない?」

「そう言われるとぐうの音も出ないけど」


 祥太には塾を探している、と伝えてあった。家の方面には全くないから電車で行ける場所を検討中、と。帰り道がかち合うのは想定済みだったので、事前に考えておいた。


「どうせなら俺と同じ塾にしようよ。教師陣と俺が丁寧に康生の受験勉強を指導するぞ」


 金銭面に余裕があるにもかかわらず、意外にも祥太は塾への入会を決意したらしかった。先月から、わざわざ家とは反対方向の電車に乗って通っていると、自慢げに語っていたのを聞いた気がする。


「祥太は教わる側でしょ。それに親しい人と同じ所だと集中できない」


 仮に本当に塾に通うとして、もし祥太と同じところに行こうものなら、あと数回ある定期試験の勉強リソースが、全て彼への授業で飛んでしまいそうだ。


 言い返す言葉が見つからなかったのか、押し黙る祥太から目を離し、僕はドア上部に取り付けられた電光掲示板を見つめる。

 降りる駅の名前を探す。――ちょうど次の駅か。


「と、ところでここは一つ、電車ビギナーの康生くんのために、高校の通学を全て電車に費やしている私から役立つ豆知識をお教えして進ぜよう」


 名誉挽回なのか何なのか、多少上ずった声で祥太がそう言うのが聞こえる。


「何それ」

「まずその一。今乗ってる十六時発のこの電車は少し特殊なんだ。いつも来るのは六両編成なんだけどこの時間だけ四両なんだ」

「へえ」

「だからいつもの電車はここより少し先で停車するんだけど――って聞いてる?」

「ふむふむ」


 掲示板から視線を離さず応える。


 単調な女性の声が次の駅への到着を伝え始めた。

 電車が徐々に減速し、体に慣性が働くのを感じる。


「……そしてその二。案外先頭車両は空いている。だから俺はいつも一番前に乗り込むわけだ。そしてその三――」

「ありがとう。続きはまた後で聞くよ」


 祥太のうんちくを遮り、僕は足元に置いていたリュックに手をかける。


「あれ、ここで降りるの?」

「うん」


 努めて平然とした面持ちで、僕は祥太に応える。


「今日見学する予定の塾、ここが最寄りなんだ」

「そう?この駅、近くは住宅街だけしかなかった気が」


 彼の言葉を無視してドアの前に足を進める。


 大きく息を吐いて、扉が勢いよく開く。


 挨拶を交わすことなく、僕は電車を後にした。




 磨り硝子の扉を開け中に入る。


 十畳ほどの洋室。真ん中にはローテーブル、向かい合わせに一対のソファが置かれており、その奥には大きなデスクが鎮座している。左右の壁は書架が覆いつくしており、部屋の窓には――本の日焼け防止か、はたまた情報漏洩対策か――全てブラインドが引かれていた。


 書架に並べられた背表紙を眺める。『民事訴訟の仕組み完全図解』、『失踪者家族が出来ること』、『「不倫」という病』――どれも難しそうなものばかりだ。


 読書を諦めソファに腰かける。革張りの座面と沈むような座り心地から、この所有者の収入層が想像できる。


 彼が来るまでは少し時間がかかるらしかった。手持無沙汰だ。それとなく目を閉じてみる。

 ――紗英の顔がちらつく。あれ以来、何度も彼女の語っていたことを反芻していた。


 端的に言うと、彼女は俳優としての仕事を得るため、体を売ってしまったようだった。それも、半ば無理やりといった形で。


 四か月ほど前、その日もオーディションのため東京へと出ていた彼女は、そこで人生初のスカウトに出会った。


 一般の認知は皆無だが、業界ではそこそこ名の知れた中堅芸能事務所。紗英も何度か耳にしていたこともあったそうで、母親との反発も当時生じていたことから二つ返事で入所を快諾したという。


 しかし蓋を開けてみれば、そこは枕営業を主軸とした悪徳事務所。彼女も流れに呑まれ、得体のしれない「顧客」と関係を持ち今に至るという。


 ――この世界から抜けることは出来ないの。仕事を失うのが、怖いから。


 そう彼女は語っていた。一度その沼に足を踏み込んでしまえば、自力で抜け出すのは不可能。仮に戻れたにしても大きなペナルティを追うようだった。現在も、一・二週に一度、仕事を得るため営業へ赴いているらしい。


 詳細を聞こうとすると、彼女は押し黙ってしまった。これ以上その時のことを話すのは彼女にとって辛いもののようだった。もしかしたら、その事務所に何か弱みを握られているのかもしれない。


 彼女は助けを求めている。僕の行動原理は、それだけで充分だった。


「だけど」


 無意識に零れた三文字が部屋に響く。


 この気持ちの正体は何なのだろうか。彼女を思うたび、彼女の悲哀に満ちた顔を思い出す度に胸にあふれるこのモヤモヤは。


 今はまだわからない。わからなくてもいいと思った。


 少なくとも、彼女を助けたい――その思いだけはきっと、確かなはずだから。


「大変お待たせしました――て、君か」


 と、扉を開け壮年の男性が入ってくる。


「ご無沙汰しています」

「いいよいいよ、そんな堅苦しいのは」


 結城吉弘。ネイバー探偵事務所の所長。紗英と再会したあの後、僕はここに彼女の周辺調査を依頼していた。それから今日までの二か月間、電話や対面で進捗状況の確認をするうちに、不思議と親しい間柄となっていた。


「いやいや、それにしても暑いね。私は夏、あんまり得意じゃないなあ」

「クーラー点いてるじゃないですか」

「世間話だよ。こうやって相手の緊張解いてくの」


 小言を呟きながら彼は対面のソファに腰を下ろす。


「それにしても、十八の子供が浮気調査とか――時代も変わったね」

「もう成人ですよ」


 彼には紗英の事情は伏せていた。僕と紗英は将来を誓い合った恋人同士で、近頃彼女が度々東京に赴くようになり、浮気をしていないか疑っている――ということになっている。


「まあ仕事だからね、お金もらってる以上はやることはちゃんとやりましたよ」

「結果、出たんですよね」


 事前の連絡によれば、全体の調査結果がまとまったということだった。


 一通の角二封筒が差し出される。慎重に僕はそれを受け取る。


 一度大きく深呼吸し、意を決して封筒の封を切る。


 中にはいくつかの資料が入っていた。取り出して見てみると、そこには紗英の動向や周囲の関係人物が細かくリストアップされていた。


「先に言っておくと、彼女は東京以外の場所へも頻繁に外出していた。行き先は殆どが地方だったから、今回の君の依頼内容と――私の懐具合を鑑みて、無関係だと判断した。だからその調査結果は、君の彼女さんが東京へ外出した時に焦点を当て、まとめたものになる」


 紗英が地方にも足を運んでいたとは知らなかった。有り得るとすれば、ドラマなんかの撮影だろうか。枕営業の分の対価は、しっかり払われていたということか。


 前置きはここまで、と一言呟き、結城さんは僕に目を向ける。


「結論から言うと、彼女はクロだった」


 結城さんの言葉に耳を傾けながら、僕は再び資料に目を落とす。


「芸能事務所スターエッグ。彼女は東京に行く度、決まってこの場所に出入りしていた。多くの場合九時頃に入り、十二時頃に一度近くのコンビニへと赴くが、最終的には十七時過ぎくらいで帰路に就く」


 資料にはマスクを着け黒のキャップを深々と被った彼女の写真が数枚掲載されていた。


「不倫関係にある可能性の高い人物についても調べは付いている。意外なことに彼女は複数人の男性と関係を持っているようだ」


 こちらに気を使ってだろうか、単調な声で結城さんは話を続ける。


「結構闇が深そうで、大手広告会社の社長に界隈では有名な映画プロデューサー、他事務所の所長など――疑わしい者だけでもかなりの人数が上がる」


 別の資料には浮気相手の候補者が、可能性の高い順にピックアップされていた。僕は一番上の「百パーセント」と追記されている人物の名前を口にする。


「角川、太輔?」

「そう。その人物は間違いなく彼女と不倫関係にある」


 その名前に、僕は愕然とする。「角川」という珍しい苗字。それに、まさか――


「角川太輔。五十五歳。芸能事務所スターエッグの所長。ここ二か月の動向としては、俳優・女優のスカウト、事務所や近隣のホテルでの不倫行為、そして病院への通院の三つに分かれる」


 資料には彼の経歴や二か月間の主な行動スケジュールと共に、それらの動向を裏付ける複数の写真が添付されていた。


「角川の経営するスターエッグは社員数十七人の小さな会社だがそれなりの実績を残している。所属するタレントはどれも大衆の認知度はそこまでだが、映画好き・ドラマ好きからは一定の評価を得ているような人材が数多くいる。それは主に角川の優れた観察眼にあるようで、人材発掘の主軸となるスカウトは殆ど彼自身が出向いて行っているらしい」


一見すると、実力のある中堅企業と夢に溢れた敏腕社長。けれど僕は知っている。この人間が裏でどのようなことをしているかを。


「非常に仕事に熱心な様子が伺えるが、悲しいことに彼の熱心さは性欲の方にも健在なようだ。仕事終わりや昼休憩の時間になるとほぼ毎日、女性との不貞行為を行っている。厄介なのは彼が君の彼女さんの他にも複数の女性と関係を持っている様子が見受けられることだ。また、その不倫場所に別の男性が出入りすることもしばしばあり、これは相当闇の深い場所に、君の婚約者は片足突っ込んでいる可能性が高い」


 写真には、紗英と角川が一緒にホテルへと入る様子や他の女性と密会を行う様子が記録されていた。


「あとこれはそこまで君の彼女さんと関係ないかもしれないが、角川は週に一度のペースで事務所に程近い病院へと通っている。そこの診療科からして恐らく慢性的な疾患、それも結構な病を患っている可能性が高い。糖尿病とか内臓の癌とか、そういった類のようだ」


 結城さんの話を一通り聞き終え、僕は渡された資料をもう一度読み返す。 


 調査結果を見る限り、角川太輔は紗英以外にも複数の女性と関係を持っているらしい。紗英が言っていた通り、彼は他の女性にも枕営業を強いているのだろうか。


 資料の内容から芸能事務所スターエッグや、不倫行為があったとされるホテルの所在地は割れている。あとはこの情報をもとに自分は何をするべきか。


 怒りは、不思議と湧いていなかった。


 極めて冷静に、僕はこの先の未来を思考することが出来ている。


 紗英の――そう、紗英のために。目の前に無数に存在する可能性を、僕は選択せねばならない。


「――少年、いいか?」


 ふと、結城さんの声が耳に入る。目を向けると、結城さんは気まずそうな面持ちでこっちを見ている。どうやら何度も話しかけられていたようだ。


「すいません、考え事を。――ああ、お金の話ですよね」


 僕はバックから茶封筒を取り出す。中には分厚く束ねられた一万円札がぎゅうぎゅうに入っている。


「前金の十万円は既に支払ったので、今日は調査費用と交通費、成功報酬を合わせて合計三十万――であってますよね」

「ああ」


 結城さんに封筒を手渡す。彼は中に手を入れると札束を取り出し枚数を数え始めた。


「――二十八、二十九、三十、と。ちょうど三十万円。頂きました。毎度ありがとうございます」

「こちらこそ、詳細な調査、大変助かりました。結城さんに依頼して本当良かったです」


 失礼します、と一言口にし、席を立つ。


 家に帰って、早く今後の行動計画を立てなければ。勉強時間は――今日は仕方ない、四時間は確保できるだろう。


「探偵業法第七条」


 唐突に、結城さんがそう口にする。


「はい?」

「最後に誓約内容の確認だけしたい。忙しいとは思うが一旦座ってくれないか」


 結城さんに誘導されるがまま、僕はソファに座りなおす。


「探偵業務っていうのは結構デリケートな仕事だ」


 結城さんが真剣な面持ちで語りだす。


「言ってしまえば他人のプライベートを覗き見することで金を稼いでいる。だから、真っ当な職業であることに違いないが、たくさんの誓約事項が存在する。内容は語りだせばキリがないし、前に一度説明しているはずだから問題はないはず。ただ一番大事なこれだけ改めて確認したい。探偵業法第七条。内容は――」

「『探偵業者は、依頼者と探偵業務を行う契約を締結しようとする時は、当該依頼者から、当該探偵業務に係る調査の結果を犯罪行為、違法な差別的取り扱いその他の違法な行為のために用いない旨を示す書面の交付を受けなければならない』」

「その通り。その書類は以前書いてもらったから、契約上私と君の間には何の問題もない――が、これだけは聞いておきたい」


 一呼吸おいて、結城さんは続ける。


「君、何を企んでいる?」


 冷え切ったその言葉に、嫌な汗が出るのを肌で感じる。


 声が震えないように気を付けながら、僕は言葉を紡ぐ。


「どうして、そんなことを?」

「これは、完全に私の直感、というか私情というか」


 打って変わってフランクな口調で、結城さんは話を続ける。


「何というか君には色々と不可解な点が多い。一つは十八の高校生が浮気調査なんかを依頼している点。ただ、これは令和の高校生はこんなものなのかもしれない、という可能性を否定できないけどね。私にしてみれば異質だけれど、今時の高校生は恋人と当たり前のように将来を誓い合うのかもしれない――そのあたりのトレンドに私は疎いから」


 無言を貫く。こちらの反応を見て結城さんはまた口を開く。


「――二つ目はお金の問題だ。今回の調査で君は私に計四十万円も支払っている。勿論必要経費だから、子供だから受け取らない――なんてことはしないが、これに関しては異質と断言せざるを得ないね。四十万もあったら友人と何度も旅行に行けるし学校終わりにマックへ三年間毎日行けるし、君がこの先進学するとして、場所によっては大学一年分の授業料だって賄えるはずだ。そんな大金を君は、浮気調査というやつに費やした。私からみればその使い方は賢いとは言えないし、第一こんな大金、どうやって用意したんだい?」


 言いたくなければ別に良いんだけどね、と一言添えて彼は僕の目を覗き込む。


 確かにその通りだ。四十万円というお金が途方もないことくらい、僕にもわかっている。


「――僕、趣味がないんです」


 そう口にする。結城さんは怪訝な顔をしているが構わず続ける。


「生まれてから今日まで、興味のあるものを何も持ち合わせていないんです。勿論友達に誘われてゲームをしたり、映画を見に行ったり、人との関わり合いの中で様々な経験はしてきました。でも結局、どれもそれっきりで。継続的に『これをしてみたい』って思えるものを見つけられていないんです。高校生にとってのお金って、自身の欲求によって消費されるものなんです。僕には欲求なんてものはなかったからお金は貯まっていくばかりです。幼い頃に貰ったお年玉、最近だと月々のお小遣いなんかも殆ど使っていません。十八年分の貯金ですよ。四十万くらい余裕で貯まります。

 高校も、本当は行かなくても良かったんです。とても行きたいわけでもない、でも行きたくないわけでもない。だから今後の人生を考えて、行った方が良いと両親に言われたから進学したんです。友達もそうです。親しい友人は何人かいる、でもそれが僕が親しくなりたくてなった友人なのかって聞かれたら、僕は困るんです。たまたま話す機会があって、たまたま向こうが僕に親しみを感じてくれたから仲良くなった、それだけの友人。もし、明日友人の一人が死んだら、僕には彼や彼女のために悲しめるかどうかが分からないんです。

 そんな時に、幼馴――恋人が苦しんでいることを知りました。『助けたい』と、思ったんです。生まれて初めて、自分の自由意志で。四十万を投げ打つ理由は、それだけです」


「本当に、それだけかい?」


 結城さんが疑問を呈す。


「君の自身の行動に向ける思いは君の言う、ある種の『生きがい』だけではないのではないかい。君には強い、強い感情を感じるよ。まるで青い炎のように、静かで、けれど熱い感情を。――私には君のそれが何なのか理解しかねるけどね」


 心当たりは、あった。


 僕は、自分が紗英のために動く理由がそれだけでないことを悟っていた。


 この胸にあるモヤモヤは、そうやって理論立って説明できるものじゃない。


 けれど、今は知らなくていい。


「僕――帰りますね」


 おもむろにソファから立ち上がり、扉の方へ向かう。


 今度は呼び止められることはなかった。


「質問の答えですけど、」


 そう言って、結城さんへ顔を向ける。


「僕は、何も企んでなんかいないですよ」


 今のところは、と胸の中で付け加えた。

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