プシュー、と大きな音を立てて扉が開く。


 座り慣れた席の定位置でその音を聞くと、僕は半ば反射的に立ち上がりバスのステップを下る。


 どこにでもありそうな小さな住宅街。その片隅に、僕がいつも使う停留所はあった。


 ふと思うところがあって、周囲を見渡す。


 停留所を少し先に進むと三叉路がある。左へ曲がると僕の家もある住宅街に入り、先程のバスが走っていった正面の道は、数分進むと比較的大きな都市部に出る。

 そしてそこを手前に大きく右折した先は一面の田園地帯。紗英の家もこっちの方向だ。


 いつも通りの変わらない景色。


 だからこそ、今僕が胸に抱えている手紙の重みが、かえって特別異質に感じられる。




 道すがら、僕は今朝起きたことを振り返っていた。


 祥太のあの発言の後、最終的に僕が手紙を届ける役割を担うこととなった。

 ――まあ、もともとそのつもりではあったのだけど、「家が近い」ではなく「幼馴染だ」という的を射ない彼の発言は、大なり小なり変な噂を生み出したようだった。木村君が椿木さんの事虐めていたらしいよ、って、どこから尾ひれがついたんだか。


 そういえば、結局一限の古典は事なきを得た。というか、時間割変更があったらしく、そもそも古典の授業はなかった。朝、担任の話を聞かないでいたのは少しまずかったかもしれない。


 田園地帯を抜け、突き当りを左に曲がる。ここまで来てようやく住居がちらほら見えてきた。

 木陰に身を潜めて歩みを進める。五月も末になると日陰の存在がありがたい。


 祥太の言う通り、僕と紗英は幼馴染だ。家がそれなりに近いこともあり、幼いころはよくお互いの家に遊びに行っていた気がする。このあたりの道も毎日のように歩いていた。小・中・高と奇跡的に同じ学校に通い、僕にとっては唯一の女友達だ。


 ただ高校に入ってからは――バス停が互いの家のちょうど真ん中にあるのもあって――交流はめっきり減った。


『私、俳優になるんだ』


 会うたびに紗英が話していた言葉を思い返す。


 考えてみると紗英と初めて会った頃にはもう、その夢を口にしていたような気がする。十年以上も同じ夢を追い続けられる紗英の事は、ずっと前から羨望の対象でもあった。


 高校に入ってからはオーディションを受けたりレッスンを受けたりとより精力的に活動していたようだった。最近学校に来られていないのも、きっとその当たりが原因だろう。ひょっとしたらドラマの主役に抜擢されて……なんてこともあるかもしれない。

 

チクッ

 

 右手に微かな痛みが走ったのは、額に微かに浮かんだ脂をハンカチで拭いながら歩いていたそんな時だった。


 痛みの正体に薄々気づきながら、僕は指先に視線を向ける。


 右手人差し指の第一関節当たり。そこに小さな切り傷が出来ていた。傷は浅いが少量の血が滲み出ている。きっと近くの笹の葉なんかで切ったのだろう。田舎ではよくあることだ。


 周囲を見渡す。――人の気配は感じられない。一瞬逡巡してから、僕はその指を口に含む。


 血の味が口に広がる。傷口を舌で何度か舐る。唾が微かに沁みる。


 いつからそうし始めたのかは覚えていないが、傷口を舐めるのは僕の癖だ。意外にも唾液には抗菌作用があるらしいので、個人的には結構合理的な行動だと思っている。無論、人前で堂々とやりはしないが。


 そう言えば、紗英と遊んでいた時にもこういう事があった気がする。状況が状況なだけに、柄にもなく懐古趣味に走ってしまう。


 あれは、確か小学校に上がった頃だったか。いや、上がる前だったかもしれない。当時は異性がどうとか恋愛がどうとかは全く気にも入らなくて、毎日のように紗英と野山を駆け回っていた。


 それこそ、ここみたいな草木の茂った道だった気がする。いつものように二人で駆け回っていた折、突然紗英が泣き始めたんだ。


 紗英は別に泣き虫の女の子という訳でもなかったから、幼い僕は酷く動揺して、あたふたしながら彼女に涙の訳を尋ねた。すると彼女は鼻水をすすりながら自身の指を僕に見せつけてきた。


 一筋の切り傷。か細い彼女の指から血が溢れ出していた。


 もう十年近く前の事になるので、そこでどのような会話があって、僕がどのような大義を持って行動を起こしたのかはあまり覚えていない。ただ一つ確かなのは、僕が今日みたいに彼女の指の血を舐った、ということだ。


 彼女の真っ赤な血。彼女を生かしている命の源。


 それが僕の口に吸い込まれていく。


 僕の中に溶け込んでいく。


 紗英と、僕が、一つに交わる。



 真横を一台の車が通りすぎる。ガソリンの濃い匂いと喧しいエンジン音が、僕の思考を遮る。

 いつの間にか足を止めていたみたいだ。僕は再び歩き始める。


 そう考えてみると、僕が傷口を舐めるようになったのもその時あたりからだった気がする。何かきっかけでもあったのだろうか。


 どうしてか、胸がモヤモヤする。忘れ去られた記憶への渇望だろうか――それとも。


「ちょっと、急ぎますか」


 一人そう零して、僕は歩みを早める。


 胸に抱いたモヤモヤは、いつの間にか消え去っていた。




 ようやく紗英の家に到着した。大した距離は無いはずだが、過去の思い出に浸っていたからか結構な時間がかかってしまった。


 郊外にある二階建ての一軒家。主張し過ぎないホワイトベージュの外壁と黒の屋根が周囲の景色と上手く調和していた。


 門扉を開け中へ入ると、車が一台停められるくらいの小さな庭がある。昔家にお邪魔した時はいつも誰かしらが手入れをしていたようだったが、今では芝生は青気をなくし、そこかしこに雑草や落ち葉が散乱していた。

 手入れする暇もないほど仕事が忙しくなったのだろうか。漠然とした不安を感じながら玄関の方へと向かう。


扉の前で一呼吸し、インターフォンに手を伸ばす。すると中から何やらガタゴトとした音が鳴り始める。

 程なくして鍵を開ける小気味いい音とともに、家の中から一人の女性が出てきた。


「――すみません、どちら様ですか」


肌はカサつき、目元には隠しきれない程の大きな隈ができている。一瞬誰か分からなくなったけれど、大きな二重の瞳と肩の長さに切り揃えられたミディアムヘアは以前会った時から変わっていなかった。


「あの、由里子さんですよね」


「ええそうですけど、あなた――もしかして、康生くん?」


「はい。……その、お久しぶりです」


 そう言うと、紗英の母――由里子さんは困ったような笑みを浮かべる。


「会うのはいつぶりだったかしら。見ないうちに随分と大きくなったようね。今日はどうかしたの?」


 そう問われ、僕は慌てて胸に抱えた手紙の束を差し出す。

「えっと、プリントとか……あと模試の問題、事後受験できるらしいから、持ってきたんですけど」

「あらそうなの。ありがとね」

「あの、由里子さんは――」


 言いかけたところで、彼女はわざとらしく左手を目の前に出し、腕時計を覗き込んだ。


「あらごめんなさい。パートの時間が近いからそろそろ行かないと。せっかくだからお家上がっていって頂戴。紗英も部屋にいるはずだから。鍵は開いているから、帰るときもそのままで大丈夫よ」

「えっと、その」

「じゃあ行かせてもらうわね」


 由里子さんはそう言うと、背中を向けてそそくさと門扉のほうへ歩き出す。


 ――と、不意に足を止め、こちらを振り返った。


「康生くん」


「はい」


「紗英のこと、よろしくね」




 言われた通り、玄関に鍵はかかっていないようだった。


「お邪魔しまーす……」


 誰に言うでもなくひとり呟きながら扉を開ける。


 一軒家のごくごく一般的な玄関。日が出ているからか電気は付いておらず、人の気配はまるで感じられない。


土間の隅には一足のローヒールが置かれている。紗英のものだろうか。


 ローファーを脱いで上がり框に足をかける。昔の記憶が正しければ、紗英の部屋は二階にあるはずだ。


 正面の階段へ歩みを進める。特段おかしな点が見当たる訳でもないが、不思議と家の中の空気が重く感じられた。先程の由里子さんのやつれ具合を思い返す。捉えどころのない不安が胸にじんわりと広がっていく。


 二階へ着くと正面の廊下をまっすぐ進む。突き当りにあるのが紗英の部屋のはずだ。

 ――うん、ここだ。ドアに引っ提げられた「SAE」というルームプレートはいまだ現役らしい。


 一呼吸し、意を決してドアをノックする。


「紗英、久しぶり。康生です。プリント届けに来たんだけど」


 反応なし。声は誰に届くこともなく霧散したようだった。もう一度ドアをノックしてみるも結果は同じだった。


 数秒迷って、思い切ってドアノブに手をかける。ドアは何かに引っかかることなくすんなりと開いた。


「えっ」


 数年ぶりに見た紗英の部屋に僕は絶句する。


 六畳ほどの広さの一室。窓は日中なのにカーテンが掛けられており少々暗い。部屋を入ってすぐ右手には勉強机とワゴンがあるが、その上は大量の書類の束に占領されている。反対側にはベッドが用意されているも、マットレスの上には脱ぎ散らかされた服が数日分放置され、中央の床に敷かれた絨毯と小さな机の周囲には、カップ麺や飲みかけのペットボトルといった大量のごみが散乱していた。


 紗英はこんなにも生活に無頓着な人間だっただろうか。信じがたい光景だが、ドアに掛けられたネームプレートを見るからに、この惨状を作り出したのは他ならぬ彼女に違いないのだろう。


 ごみを踏まないように気を付けながら部屋の中へ歩みを進める。――と、近くにあったキャビネットが目に止まる。


 腰の高さ程のキャビネットの上には沢山の化粧品が並べられていた。手鏡に口紅、香水……これはアイシャドウだろうか。メイクの類いには疎いので詳しく判別できないが、少なくともどれも安くはない代物のようだった。


視線を順繰りに動かす。すると、キャビネットの端に小さな木箱が置かれているのに気付く。周囲に化粧品類が散らかっている中、その箱の近くだけは物が置かれておらず小綺麗になっていた。


不自然に置かれた小さな木箱。一瞬の逡巡の後、蓋に手を伸ばす。


箱の中には、正方形にパックされた小さな個包装がいくつか入っていた。不透明な素材で覆われているため中身はよくわからない。おもむろにそのうちの一つを手に取る。

手に伝わる感覚に僕は驚愕する。円形の物体。微かな弾力。経験のない僕でもわかる、これは――


「コン、ドーム……」

 


 その刹那。


 僕は背後に人の気配を感じる。


 生々しい、艶めかしい、女の気配。


「誰?」


 突如耳に入ったその二文字に僕の体は硬直する。


 一歩、また一歩、その人が自分のもとへ足を踏み出す音を、耳がしかと拾う。


「違う、これは――っ」


 やっとのことで喉と体を動かし僕は後ろへ体を向ける。だが、その時誤って近くにあったゴミに足を取られてしまう。


鈍い音を立てて尻もちを付く。手にしていたコンドームが宙を舞う。部屋の後ろへ飛んで行ったそれを「彼女」は目で追っていた。


 薄手のキャミソール。それを覆う一回り大きいパーカー。黒のショートパンツからは真っ白の太腿を覗かせて、「彼女」は佇んでいた。


「紗、英」


 彼女の名前を口にする。


 二人の視線が交わる。


 途端に、僕は紗英の瞳から目が離せなくなる。


 端正な二重瞼に飾られた、透き通るような黒目。


どこまでも、どこまでも堕ちていくような、魅惑的な黒。


 おもむろに、彼女が体をこちらへ傾ける。


小ぶりな乳房が微かに揺れる。


 汗が首を伝う。


体はとっくに熱を上げていた。


 紗英が口を開く。


潤った唇がぷるりと震えた。



「こーくん?」



 耳にしたのは、僕の名前を呼ぶ幼馴染の甘ったるい声。




 その瞬間、紗英はまるで人形の糸が切れたかのように、こちらに向かって倒れてきた。


とっさに彼女の体を支える。僕の胸元に顔をうずめた彼女は、緩慢な動作で両手を背中へ回してきた。


 すると、彼女の肩が徐々に震え始める。


「こー、くん」


 先程とは打って変わった弱弱しい声で、紗英は言葉を紡いだ。


「私、汚されちゃった」

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