え⁈オレのラブレターが、有形文化財に⁈

阿村 顕

えっ⁈ オレのラブレターが有形文化財に⁈

「あっ、ヤバい」

 そう思ったのが先だったか、階段から足を滑らせたのが先だったか。もしかしたら思ったのではなく、咄嗟に呟いたのかもしれない。

 正直、どれでもいい。いや、どうでもいい。

 束の間無重力状態の中、「今日は朝からついてなかったな」なんて呑気な考えが頭を巡る。人間もうどうしようもない時ほど、冷静になれるらしい。人生で今、初めて知った。まあ、残念ながら俺の人生はここで終わるようだけれど。

 ああこんなことなら――。

 今日は朝からついてなかった。

 月曜日が祝日だったためスマホのアラームを切っていたのだが、すっかりそのことを忘れたまま火曜日の朝を迎えてしまった。加えて深夜まで作業していたせいで寝不足という最強コンボ。寝坊は当然の帰路だった。

 一度の声掛けでは起き上がれず、一階と二階を繋ぐ階段に母の怒号が響き渡る。そのあまりの破壊力にびっくりして飛び起き、ベッドから転げ落ちる。叫ぶように返事をした俺の気分は、寝起きから地に落ちてしまっていたのだった。

 ドタドタ鳴らす足音が不機嫌さを、勝手に外へと伝えてしまう。

 急いでいる時はどうしてもすべての動作が雑になる。顔を叩きつける様に水で洗い、母の小言をBGMに急いで朝食をかき込む。歯ブラシを噛むように歯を磨いて口をゆすぐ。生地が伸びる勢いで学ランに手足を入れて、そのままかけてあるリュックをひったくった。

「…ってきます」

 そう言いながらノールックで足を無理やりスニーカーにねじ込む。

「ぶちっ」

 鈍い、音がした。まさか…。

 恐る恐る足元を見ると靴ひもが切れている。

 っはぁー、ロスタイム。最悪。

 投げつけるように玄関の端へ寄せ、偶々近くにあった他のスニーカーに足を突っ込む。

「ってきますっっ」

 キレ気味な大声を張り上げ、乱暴にドアと叩きつける。後ろから聞こえていた母の怒鳴り声はガチャンという音と共に、外の世界から遮断された。

 ヤバい。このままだと確実に遅刻する!

 一秒でも早く、早く―。親指の腹に力を込めて、地面を蹴る。

 っ…⁈

 違和感は、すぐにやってきた。

 なんだか、しっくりこない。

 スニーカーの中で足が遊んでしまっている。走るたびカポカポと前後に揺られ、これではとてもじゃないが好タイムは望めない。もしかして、俺の足のサイズより数センチ大きい? 点と点が繋がり、思考がスパークした。

 あー、やってしまった…。

 足元を見るとやっぱり。兄のものを間違って履いてきてしまっている。

 今日帰ったら百二十パーセント怒られる。だるぅ。

 あの几帳面野郎のスニーカーを半ば踏んづけながら強引に足をねじ込んだから、きっと、いや絶対、厭味ったらしく「ここが痛んだ」「そこに傷がついた」とねちねち責め立ててくるだろう。うざぁ。

 ポケットからスマホを取り出して電源ボタンを押す。ディスプレイには、いつもの電車が出発する二分前の時刻が浮かび上がった。

 はい、遅刻確定。あーもう、やーめたっ。

 なんだか焦って苛立っているのが、馬鹿らしくなった。もう、どうでもいい。

 ズボンのポケットに手を突っ込んで、空を見上げる。俺の気分とはまるで対照的な雲一つない高い青空が、そこには広がっていた。先ほどまでは気づかなかった柔らかい風が一歩、また一歩と踏み出すごとに頬を撫でる。

 気づかなかった、いや、気づけなかった。焦りによって狭まった視界では、どうやらこの心地よい秋容すら見逃してしまっていたらしい。

 急かされるのは、やはり嫌いだ。ゆとりが無いと豊かな人生は送れない。

 それはきっとすべてのことに通じる。今さっきの出来事だけでなく、学業についても部活動についてもそうだ。

 テスト二週間前から勉強を始める奴と一夜漬けの奴とでは、テスト中のゆとりが違う。

 一年の時からサボらず努力して居残り練習する奴と引退が見えてきた三年の数ヶ月がむしゃらになる奴とでは、試合中の視野が違う。

 もし結果が同じであろうが、俺は絶対前者を全うできる人間でありたい。正しいとされる人間像だからではなく、ドキドキハラハラという感情が御免なのだ。

 あの心臓がキュウッとなる感覚、得体のしれないものに急き立てられるあの緊張感は、母の怒号よりも勘弁してほしい。そんな小心者であるゆえの行動が結果として正しい人間と周りから評価されるのは、一挙両得といった感じだ。

 恋愛だってそう。俺は、ゆとりが欲しいだけなのだ。

 そう、だから俺が彼女に告白できなくてもしょうがない。彼女への態度にゆとりができるまで、つまり彼女に慣れるまで、もっと言うと彼女と面と向かって話しても緊張しなくなるまでは、この状況が続くのはしょうがないことなのだ。

 それなのになんだ。なんなんだ! 「早く告白しないと誰かに取られるよ」だの「意気地のない男は嫌われる」だの「いつまで片思い続ける気なんだよ」だの。周りがうるさすぎる。

 大体彼女はものじゃないんだから取られるなんて表現失礼だろ。それに俺と話す時笑ってくれるから、まあ実際は笑っているっていうより笑われているが正しいかもだけど、多分、その、嫌われてないし…。というか告白のタイミングは、俺の勝手だし…。

 そんな反論を飲み込み、からかってくる奴らをじっとりとした目で見つめる。ムキになって反応なんか、してやんない。調子に乗って、更に冷やかしてくる奴らの姿が目に浮かぶ。

 話の通じない奴らと会話を成立させようと努力するのは、時間の無駄。そんなことをするくらいなら、壁と会話する方がまだマシだ。

 そもそもなんで皆、俺が三波のこと好きなの、知ってるんだよ! 

 あぁ、三波のこと考えてしまった。よくない、よくないな。一度考えると以降の思考の大半を彼女に持っていかれる。よくない。

 とにかく! ゆとりがない状態で行動すると、変なこと口走って失言が絶えないし、空回りでかっこ悪い行動ばっかりとってしまう…。焦るのは絶対に良くない。だから、周りの意見に流されて一刻も早く告白した方がよいのではと深夜に猛烈な不安感に襲われて書いたこのラブレターは即刻捨てるべきなのだ。

 間違っても今日、彼女の下駄箱に入れようなんて思わない方がいい。今朝の寝坊はこのラブレターの作成で寝不足のせいでもあるし、こんなもの―。

 俺はリュックの前ポケットを撫でた。

 手紙で告白なんて随分と古臭いのは自覚している。でも、俺なりに一応理由はあるんだ。直接顔見て告白は考えただけで心臓が飛び出そうっていうか、吐き出しそうなんだよ!

 小心者で悪かったな!

 メールでというのは流石に味気ないし、本気であると伝わらない様な気がする。手紙ならまだ緊張せずに素直な気持ちが書けそうだし、そのうえ手書きだったら俺の真剣さに彼女が胸打たれる可能性も、無きにしも非ず…。

 いや、三波はそんな純粋な女性ではないんだけれども。手紙という古風な媒体での告白を鼻で笑った後に、俺の文章に対するちょっとした嫌味をいうタイプだろうけれども。

 …。なんか考えたら告白するの、嫌になってきたな。何だ、その性悪女。どこがいいんだろう…。

 あー。やめやめ。それにこんな気持ちのいい天気に学校へ行くなんて、馬鹿げている。そうだそうだ。こんな日は学校をサボって海に行った方がいい、そうに違いない。

 現実逃避のために駅のホームに向かいながら、できもしないサボりの計画を立て続ける。映画や小説のようにもの寂しい海を眺め、一人たそがれる―。

 天井によってすっかり隠された高い空を思い浮かべながら、色々な思考を巡らせる。ゆとりの無い思考が突然、足元へと集中する。悲しいほどに学びの無い男である。

 ホームに繋がる階段の丁度真ん中あたり。サイズの合わないスニーカー。靴の中で滑る足。踏み外す階段。

 そして、宙に放り出された俺。

 スローモーションになった心地よい世界。

 「あ、これ死ぬやつ」なんて冷静に思考していると急に眩い光に包まれた、気がした。これが走馬灯ってやつなのだろうか。

「こんなことなら、告白、すればよかったなぁ」

 ぽつり。

 置いていった。未練。

 痛っ…。くない。

 いつまで待っても頭や背中に受けると予測していた痛みはやってこない。

 いつも通り生活音が、耳を通り抜ける。行きかう人の足音。話し声。駅構内のアナウンス。それらが混ざり合って、ガヤガヤと耳をすり抜けていく。だけ。

 俺が階段から落ちたことなんてまるでなかったかのように、朝が続いている。

 あれ、は、夢? だったのか?

 顔を上げると瞼の裏が赤くなった。眩しさで更に力強く瞼を閉じる。

 …ん? なんだか、おかしい―。

 思考がだんだん追いついてくる。俯いたままゆっくり目を開ける。

 階段。踊り場。階段。ホーム。光に目が慣れてきた。

 天井。が、鏡張り。先ほど感じた眩しさはこれか。

 横を通った人が、不思議そうな顔でこちらを見ている。その視線が気になって、見つめる。目以外は見えない、手足まで覆われている全身黒ずくめの服。ダボついていて体格すらはっきりしない。見たことのない不思議な装いだ。身長的に男性、だと思う。

 視線が、合った。

 男性は気まずそうに俯き、階段へ一歩踏み出す。

 次の瞬間、階段にしか見えなかったそれが自動で動き出し、瞬く間にホームへと男性を運んだのである。

 俺は驚いて立ち上がり、あたりを見回した。

 床や階段は自動で動き、誰一人として歩いている人はいない。あのポログラムは、多分駅員? か? 同じものがいくつもいて、男性か女性かも分からない無機質な造形をしている。

 理解が、追い付かない。少しでも楽になりたくて壁にもたれかかる。すると目の前にホログラムが浮かび上がった。

「何カ、オ困リデショウカ?」

 突然のことに俺の蚤ほどしかない心臓はドクリと飛び跳ね、急かすようにドクドクと音を立てる。

 左手で壁を押し、左足の小指球と右足の母指球で交互に強く床を蹴る。体制を崩して中腰になっても構わず大きく左足を踏み出し、そのままスビートに乗って走り出した。

「ビーー。ピーー。ビーー。ビーー」

 警告音が駅構内に鳴り響く。

「走ッテハ、イケマセン。直チニ、止マッテ、クダサイ。走ッテハ、イケマセン。直チニ、止マッテ、クダサイ」

 後ろを振り向くとけたたましいサイレンと共に、先ほどまでホログラムとして投影されていた無機質な駅員の実物が追いかけてくる。如何やらロボットだったらしい。

 どうなっているんだ⁈ 夢なら醒めてくれ! いや待てよ、もしかしてこれあれか? 今はやりの「転生」ってやつ―⁈ 

 だとしたら、死亡後に神のお告げ的なこともなかったし、チート技も教えてもらってないんだけど⁈ というか生前そこまで落ちこぼれじゃなかったと思ってた…。ショック…。

 いや、もしかしたら悪役令嬢ものの可能性も―。ないか。どう考えても中世貴族の世界観ではないな、この世界。

「止マリナサイ。止マリナサイ。止マリナサイ。ビーー。ビーー。ビーー」

 音がもうすぐそこまで来ている。駄目だ。これ以上、早く走れない。大ピンチだぞ、俺。何だかんだでチート技出てくれよ。頼む。

 あー。もうダメ。ハァ。ハァ。もう。ハァ。無理。ハァ。ハァハァ。わき腹痛くて死にそう。ハァハァ。ハァ。もう。走れない。あー。もうどうでもいいや。ハァ。ハァ。ハァ。ハァ。

 その場に立ち止まり、膝に手をついて肩で呼吸をする。ハァ、ハァ。天文部にしては、ハァ。良く走った方だと我ながら感心する。まぁ、誰からの称賛の言葉も用意されてはいない。ハァ。だろうが。

 もう「煮るなり焼くなり好きにしろ」と自棄になりながら背中を丸め、身体を強張らせる。こんな時でも身体は小心者であることを忘れていない。律儀なやつである。


 ――っ。…?

 あ、れっ?


 なにも、起こらない―。

 どういうことだ? 

 恐る恐る振り返るとそこには、無機質なロボットがただ止まっていた。

「駅構内ハ、走ラナイデ、クダサイ。事故ガ、発生スル、危険性ガ、アリ、マス」

 そう言い放つと何処かへと消えてしまった。

 何が何だかさっぱりだ。あー、頭が痛い。階段から落ちてから今まで分からない事しか起きていないせいで、脳みそがはじけ飛びそうだった。

 ホームのベンチに腰かけて流れゆく人々を見ていると、分かることがあった。

 まず、俺が不思議な装いだと感じた全身黒ずくめは如何やらこちらの世界ではスタンダードらしい。見た限り、二人に一人はこの格好をしている。背丈以外、判別不可能なその装いは個人情報保護の観点から言うと、非常に優れていると感じた。

 その次に多い装いが白い服だ。黒い装いよりは俺が知っている服装に近い。体操服の長袖長ズボン。男女でデザインの違いはない。顔はマスクのようなもので顔半分を覆っている。色は勿論白である。そして、その恰好をしている人たちは俺と同い年くらいか、それより下。つまり「子供」と呼ばれる人達だった。

 この人間観察を通して分かった事実が一つある。学ラン姿の俺は非常に目立つということだ。

 黒と白以外にも摩訶不思議な服を着ている人はちらほら見かけるが、残念ながら学ランには似ても似つかない。先ほどから通りがかる人々が全員、俺を盗み見ているくらいに目立っている。完全に不審者扱いだ。

 オシャレって分かんねーなと元の世界でも思ってはいた。しかし、もう己の理解できる範疇すら超えた洋服たちをこうして眺めていると、「オシャレもスタンダードも定義づけしているのはそのコミュニティ内の生物の偏見に過ぎないんだな」などとどうでもいいことを考える。自身の見解を更新するのは大事だが、絶対に今ではないと自分でも分かる。

 テスト前に無性に部屋の掃除をしたくなる時もこんな感じだよなとベンチに腰を掛けながら、ぼんやりホームを見つめた。

「ガツンッ」

 突然の衝撃音に思わず振り向く。

 そこには白い服を着たガタイの良い男性が立っていた。

 こつんっ。俺の足に何か当たった。足の下に目をやると空き缶がカラカラと音を立てて転がっている。

 拾い上げると同時に

「ビーー。ビーー。ビーー。ビーー」

とあのけたたましい警戒音が近づいてくる。

「ゴミ箱ニ、ゴミヲ、投ゲ捨テテハ、イケマセン。ゴミ箱ニ、ゴミヲ、投ゲ捨テテハ、イケマセン」

 ロボット達に取り囲まれた。なんで? もう意味が分からない。泣きそうだ。なんで、俺⁈ パニックで頭が真っ白になる。本当に、朝から、ついてない。

 ああ、今朝のアラームさえ忘れなければこんなことには―。

 ああ、深夜ラブレターなんて書かなければ―。

 

 頭上からぬっと白くて長いものが伸びてきた。

 もしかして、神のご加護⁈ それとも俺のチート機能がやっと開花した⁈

 そんなことを考えている内にそれは顔の前を通過して、俺の手から空き缶をごく普通につかみ取っていった。振り返ると先ほどの男性がゴミ箱に向かって歩いていくところであった。

「ガタンッ」

 その音と同時に無機質なロボットは

「ゴミ箱ニ、ゴミヲ、投ゲ捨テナイデ、クダサイ。事故ガ、発生スル、危険性ガ、アリ、マス」

と言い放つと何処かへと消えてしまった。本当に何なんだ、あいつら。

「悪かった」

 影が俺を、覆う。

 顔を上げるとそこには、背の高い男が立っていた。逆光で顔がよく見えない。

 そのまま立ち去ろうとする彼の白い服の裾を掴む。俺にしては大胆な行動。藁にでも、縋りたかった。

「待って、待ってくれ!」

 振り向いた彼と視線が、かち合う。

「かい…、ど、う⁈」

 今日は驚いてばかりだ。口をパクパクさせたままにしては、中々上手く発音できた方だと思う。なんと目の前にいる筋肉質で高身長、黒髪短髪でつり目の少年は、俺のクラスメイト「海棠空」と瓜二つだったのである。

 彼は訝しげな眼差しを向けながら

「…。知り合い? だったか?」

と質問してきた。如何やら、海棠で間違いなかったみたいだ。

「俺だよ、俺! クラスメイトの樹岡! 樹岡陸!」

 海棠は顎に手を当ててうんうん唸り、折れてしまうのではないかというほど首をひねった。そればかりか眉間の皴の深さが更に増すばかりだ。クラスメイトに覚えられていないなんて、かなりショックだ…。しかも海棠…。

 確かに教室でもあんまり話さないし、放課後も弓道場にすっ飛んでいく彼と天文部の俺とでは接点が少ない。でも、それでも海棠はあの時、クラスで唯一信じてくれた。

 あの時…、助けてくれたあの時から、友情とはまた違う特別な関係性が生まれたと思ったのはどうやら俺だけだったようだ。

 救済者側はいちいち救った人間の事を覚えていない。呼吸を無意識に行うように。瞬きを無意識に行うように。彼にとってはごく当たり前の行動一つだったのだろう。

「すまん」

 短く一言。バッサリ斬り捨てられてしまった。

 再び立ち去ろうとする彼の服の裾を、更に強く握りしめる。

「待ってくれ! 俺、本当に今何が何だかって感じで、混乱してて…。頼れる奴、お前しかいないんだ。海棠、この通りだ。助けてくれっ」

 我ながら胡散臭い説明をしていると思った。頭を下げても拭いきれない怪しさである。こんな滑稽な男の言うことを聞いてくれる訳―。

「…分かった」

「――。っへぇ⁈」

 びっくりしすぎて舌を噛んだ。まさかこんな胡散臭い話を了承してくれるなんて。鉄の味が口の中に広がっていく。嬉しさのあまり鼻の奥がツンとした。鼻声にならないように呼吸と整えてから、再び海棠に向き直る。

「…いいのか? 本当に?」

「内容にもよるが、俺にできることであれば」

「自分でいうのもなんだけど、俺、かなり怪しくない? 本当にいいの?」

 海棠の真っ直ぐな瞳が俺を、捉えた。

「嘘、ついてないだろ、お前」

 あの時と一緒だ。

「本当に困っている人の目だ。じいちゃんに言われてんだ。本当に困っている人を無償の愛で助ける人間になれって」

 目頭が熱い。鼻根を親指と人差し指で摘まんでも、止まらない。全く、止まらない。ありがとうとごめんを交互に呟きながら、俺はしばらく頬を伝う涙をぬぐい続けた。

「つまり、俺は百年後の世界にタイムスリップしたってこと⁈」

「話を聞く限り、そうだと思う」

 俺の横で呑気にペットボトルを開けながらカイは相槌を打つ。今彼が持っている俺にはペットボトルにしか見えない代物も紙で出来ているため、正確にはペーパーボトルというらしい。半透明のその容器は、プラスチックにしか見えない。

 話してみるとカイは海棠と瓜二つの見た目をしているが、俺の知っている海棠とは全くの別人であった。本当に俺の事は知らないようだった。

 カイの話によると俺が着ている学ランは「歴史の教科書でよく見る奴」だそうだ。黒ずくめの装いは社会人が会社や式典などかしこまった場所へ行くときに着用する、俺の認識でいう所のスーツの役割を担う洋服のようだ。如何やら今日が平日であるため、この服装の人を多く見かけたらしい。

 そしてカイが着ている白い服は制服。制服は未来でも残っているのかと少し感動してしまった。俺の時代にはない素材なのだろう。近くで見るとツルツルとしているが通気性は抜群らしい。汚れが付着しても水で洗い流すといとも簡単に落ちるため、この真っ白さを維持できるようだ。動きやすさも兼ね備えているらしく、運動服に着替えたりせずそのまま、体躯の授業も行うそうだ。

 どちらも着用は義務で会社や学校ごと、性別での違いはない。学生に至っては小中高一律全く同じデザインをしているとカイは教えてくれた。俺が思い描いていたぴちぴちタイツの未来人は、如何やら存在しないようだ。

 ゴクゴク喉を鳴らしながら、隣で水を飲んでいる彼を横目で見る。先ほど缶ジュースを飲んでいたとは思えない飲みっぷりだ。清涼飲料水のCMのオファーがくるのではないかというほどい勢いがある。

 それにしても動じない。駅であった歴史の教科書でしか見ない格好の男に「俺、過去からタイムスリップしてきたんだ」なんて言われても、「ああそうですか」とすぐに納得して、こんなにも爽やかに水を飲めるものなのだろうか。

 俺だったら泡を拭いて倒れてしまいそうなシチュエーションだ。未来人には「動じない心」というのが初期設定で搭載される使用になったのだろうか。…いや、そういえば海棠も動じなかったな。もしかして、人相に動じなさの秘密があるのかもしれない。

 彼の事は海棠改めカイと呼ぶこととなった。話しているうちに「俺、樹丘の言う海棠じゃないな。下の名前、空ではないし」「俺の事はカイって呼んで」という流れになり、流されやすい俺は二つ返事で了承した。

「まずは服、着替えた方がいい」

 ペーパーボトルから口を離したカイは、俺の頭のてっぺんからつま先までを凝視してから言い放った。

「目立ちすぎる」

 確かにタイムスリップしてから、今までの人生でなかったくらいに人様の視線を感じる。まあ、俺だってもし町中にちょんまげ・袴姿の侍風の男が町にいたら確実に目で追ってしまうから、しょうがないと思う。

「家にもう一着、替えの制服がある。取ってくるからここにいてくれ」

「いやいや、大丈夫。そこまでしてもらうのは流石に申し訳ないというか」

 勿論本心である。が、それよりもなによりも、強い感情がカイを引き留める。

 もう一人になりたくなかった。

 カイなら本当に戻ってきてくれるのだろう。それは分かっている。しかし残念なことにこの時代に詳しく、そしてこんな俺にも親切な彼を手放す勇気は持ち合わせていなかった。

 幸福を体験してしまった後では、以前は許容範囲だった不幸にすら耐えられなくなってしまう。過去の自分とは違う人間に組み替えられてしまうのだ。もう一人で駅をうろうろしていた時の自分には戻れない。戻りたくない。

 「幸せ」を知ると同時に、先ほどまでの自分が「不幸」だったことに気付く。なんて皮肉なものだろう。

「すまん。素朴な疑問なんだけど、制服って買える? どこかの学校に所属していないと購入できないとかいう決まりがあったり…。あっ、もしかして支給制?」

「年齢証明書をみせると購入できるぞ」

 そういうとカイはおもむろに自分の胸ポケットを触った。「デンッ」という音とともに目の前にホログラムが浮かび上がった。顔・氏名・生年月日、備考欄に「学生」「保険有」と記載されている。

「これが年齢証明書。生まれた時に病院で埋め込まれる。自分の指紋で開くようになっていて、職種や資格、保険情報なんかが備考欄に記載されていく仕組みだ。行政機関にある専用の機械があればもっと多くの内容が確認できるようになっている」

「…年齢証明書ってこの時代の人なら皆持っているってことだよな」

「? ああ、そうだ」

「それ持ってない奴って、どうなる? 捕まったりするのか⁈」

「付いているのが当たり前だから、考えたこともなかったな。犯罪グループの組合員が摘出手術に失敗して死亡したニュースは見たことがあるんだが…。初めから付いてないとなると、どうなんだろうな。まぁ、日常生活において見せないといけない場面はそうそうないと思う。大丈夫だろ」

 本当に、大丈夫だろうか? 不安に苛まれる。俺の足元のコンクリートだけ亀裂が入って崩れてしまったのではないだろうか。ぐらぐらと不安定で足が震える。

 なんとか冷静を装い、質問を投げかける。

「なぁカイ、何かいいアルバイト知らない? 年齢証明書が無くても雇ってくれるところ。ぶっちゃけ金が貰えるなら、何でもいい!」

 制服を買うにも、これからの生活の上でもお金は絶対必要だ。戸籍も住民票もなければ、身分を証明できるものすらない。元の時代に帰る手立てもない。こんな俺には職を選ぶ権利すらないだろう。

 カイは顎に手を当てて、俺を、というか学ランを、見た。

「要は金が手に入ればいいんだよな」

「まぁ、そうだけど…」

「それ、売ってもいいものか?」

「へぇっ⁈」

「歴史の授業で今陸が着ている学ランが出てきた時、古い洋服をコレクションするマニアの間で、高値で取引されているって話、先生がしてた。それ売ったら、金になるんじゃないか?」

「ありがとうございました~」

 自動ドアが開くと店員のご機嫌な挨拶と共にカイが颯爽と現れた。手には大きな荷物を抱えている。

「これ、制服。あとこれ、返す」

 包みを開けると真っ白な制服がつやつやと輝いている。生地を手の甲で撫でると見た目に反してサラサラで、ポリエステルみたいな触り心地だ。

 制服の肌触りを確かめた後、ずいっとカイが左手を差し出す。手には透明なカードが握られていた。それを受け取る、カイに促されるまま親指で二回タップすると、数字が浮かび上がった。指紋登録制のカードが財布の役割を担っているなんて、すごく近未来っぽい。まぁ、本当に近未来なのだが。

 お札や硬貨の話をカイに尋ねたら、歴史の教科書でしか見たことが無いと言われた。俺の当たり前はこの時代だと、大体歴史の教科書に載っているようだ。

 八つ並んだ数字に目を落とす。高校生である俺を不安にさせるには十分すぎるほどの大金だった。物価上がっているだろうから、この金額には俺たちの時代ほどの価値はないのかもしれない。それでも、突然の大金にたじろいでしまう。

 学ランを売りに行くと店主は俺を見て、というか俺の着ている学ランを見て驚愕していた。なんでも年代物の学ランにしては非常に状態がいいらしい。目をキラキラさせながら早口で学ランについて熱く語ってくれたのだが、半分以上理解できなかった。

 要約するとこの時代学ランは新しく作るのが禁止されている代物で、そのため高値がつきやすいということだと、思う。多分…。

 店主のテンションに半ば押され気味になりながらも、なんとか「売りたい」と申し出ると彼は泣いて喜び、代わりの服まで用意してくれた。何度も何度もお礼を言うテンションが頂点に達しおかしくなっている店主に渡されたカードには、目を疑う様な金額がチャージされていたのだった。

 トイレでこの時代の制服に着替えて外に出る。先ほどまでのちらちらこちらを観察する目線が無くなり、漸く世界に溶け込めた気がした。

「カイ、ありがとな」

 待っていてくれたカイに感謝を述べる。感謝したいことばかりでもう何についての感謝かも分からない程だ。

 ふっと口角をあげて頷いた彼の表情は、温かかった。

「似合ってる、制服」

「んああ、本当? ありがとう」

「感謝してばっかだな、陸」

「そりゃそうだろ、カイには感謝してもしきれないよ」

 おもむろにポケットから財布代わりのカードを取りだして、カイの目の前に差し出す。

「これ、半分貰ってくれ。俺の気持ち」

 ポケットに手を突っ込み、猫背になりながら数字が並んだカードをカイが見つめた。暫しの沈黙が訪れる。

 顔を上げたことにより上目遣いとなった彼と視線がかち合う。俺よりも背の高いカイのその表情は新鮮だった。 

 そして困ったように笑ってから、

「…おう。じゃあ、陸が帰る時に貰う。その時まで預かっていてくれ」

と俺の口調の真似をした。

 彼にしては珍しい、おどけた返事だった。

「これから、どうする?」

 首を傾げて俺の顔を覗き込んだカイを一瞥し、空を見上げる。

 これから、どうすればいいのだろう。問題が山積みで、どこから手を付ければいいのやら…。あっ。

「自分の事でいっぱいいっぱいで今まで気付かなかったんだけど、カイって今日もしかしなくても、学校、だったよな…。」

「ああ、気にすんな。陸に出会う前からすでに遅刻確定だったし、サボろうと思ってた」

「カイぃっ、お前いい奴過ぎ。本当、ありがとなぁ」

「だから、感謝しすぎ」

 ふははっ。そう口を開けて笑った彼の表情はとても眩しくて、俺は少しだけ涙がこぼれた。

 それにしてもこのいつ帰れるか分からない状況において、一体何をすべきなのだろうか。分からない。

 とりあえず少しでも安心感を得るために、この時代での拠点は確保しておきたいところだ。しかし、身分証明書が無い俺に住居を貸してくれる業者などないだろう。

「うーん。取り敢えず俺の家に行ってみたい。もしかしたら俺の子孫が住んでいるかもしれないし。事情を話したら、泊めてくれるかも。ダメもとだけど、一応確認はしておきたい」

「分かった。住所は?」

「えっと、○○県△△市…」

 カイはおもむろに袖に着けてあるピンバッチのようなものの上に親指を置いた。突如出現したホログラムの画面を慣れた手つきでスワイプする。表示された画面へ早速住所を打ち込む。

「何それ⁈」

「何って…。ケータイだけど」

 アトメートルフォン。通称アトホ。ピンバッチのような形状は布に着けて持ち運びを便利にする狙いがあるらしい。親指をおくのは指紋認証のため。当然ガラケーやスマホは教科書に載っているそうだ。

「はぁー、凄い時代になったもんだな」

「陸、じいちゃんみたいなこと言ってる」

「俺、カイのじいちゃんより年上だからな。なんたって百年後から来てるんだから」

 なんて軽口を叩きながら、検索画面を覗き込む。

「えっ⁈ なんで⁈」

 思わず驚嘆の声が漏れる。

「俺、ここ小学生の時、遠足で行ったことある」

 俺の家だぞ⁈ カイの発言にも驚きを隠せない。

 俺は画面に表示された情報に思わず目を疑ってしまった。

「俺の家が、遺跡ぃ⁈」

 『樹丘家跡地遺跡』

 白を基調とした四角い建物には、鉄でできたであろうでかでかとした文字がくっつけられている。建物の目の前の広い敷地には丸や三角、四角のような形状の不思議な乗り物が止まっている。

 おそらくこの時代の車だろう。町中を走っているのも見かけたため、十中八九そうだと思う。教科書のくだりにももう飽きてきたから、カイにはもう質問するのをやめておいた。

 さしずめ、この広い敷地は駐車場といったところか。それなりに駐車場スペースが埋まっていることからも推測できるように人気も中々あるようだ。

 目の前の壁に突っ込んでいくカイの行動にビビりながらもついて行く。壁に身体が埋まって変な気分になる。そこを抜けると白を基調とした良く言えば清潔感のある(悪く言う必要もないのだが、まあ、なんだその、はっきり言えば、酷く殺風景な)部屋が現れた。

 後ろを振り返ると、先ほど入っていた場所は壁に戻っている。

「なぁ、カイ。ここって何で有名なの?」

 しーんと静まり返った部屋に気後れして、つい小声になってしまう。

 黒目を天井に向けた彼は少しの間唸ってから

「確か…。俺が生まれる少し前に手紙? が発掘されたらしい。紙自体貴重なものだし、更に一般人の手書きのものってなると中々見つからないみたいで…。ああ、そうだ。見つかっても内容がしっかりと分かるものはここで見つかるまでなかったんだ」

 ゾクッ。急に背中を何かが通りぬけるような感覚がした。

 受付の機械に財布代わりのカードをタッチすると展示室への扉が開かれ「中にお入りください」と無機質な機械音が鳴り響く。

「ほらここに書いてある」

 そういって俺より一歩先を歩くカイが指を差す。

 展示室に入ってから、気温が下がってしまったのだろうが。全身の震えが止まらない。顎の関節が外れてしまったかのように不安定で、上と下の歯がガタガタと音を立てている。

 経路案内通りに足を運びながら、説明文を一つ一つ丁寧に黙読する。

 まずは、樹丘家の歴史。俺も知らないような先祖が載った家系図やこの地域で起こった事件等あることない事記載されていた。そして、これは俺の家に関係あるのかというような見たことが無い柄の多分百円ショップで購入したであろう茶碗や箸、取り皿等のボロボロになった日用品の数々が並べられてあった。「俺が今まで見学した博物館や美術館の説明文や代物といったものも案外こんなものだったのかもな」なんて考えながら歩き出す。が、妙に足取りが重い。両足に鉛が埋め込まれてしまったのではと疑ってしまうほどだ。

 そして、先ほどカイが説明してくれたような内容が書かれている展示スペースまでようやくやってきた。俺の進み具合があまりにも遅いため、早々に姿が見えなくなっていたカイがガラス張りのショーケースの前で立ち止まっている。

 ショーケースの隣にも何か書いてあり、カイのほかにも数名がショーケースを覗き込んでいる。

『こちらはこの場所が樹丘家跡地遺跡となるきっかけとなった出土品です。手紙とは、紙に用事などを記して、人に送る文書のことです。昔の人は紙に鉛筆やシャープペンシル(黒鉛を細い棒状にしたもの)で文字をしたため、他人に想いを伝えました。

 平成から令和にかけての公文書・私文書共に紙ベースで残っている手紙はなく、すべてデータとしてスキャンされてしまっている点からもかなり貴重な文書であることが分かるかと思います。

 一般人のプライベートな手紙となると発見されても内容が判別できるものはなく、この時代の手紙という文化は謎に包まれたままでした。しかし、今から約二十年前、突如として現れたこの一通の手紙により状況は大きく変化したのです。

 樹丘氏が想い人に向けての愛を綴った所謂恋文と呼ばれる内容のこの手紙はニュースで取り上げるとその文章の独創性から世間を魅了し、瞬く間に話題となりました。今では樹丘氏の恋文を解説した書籍はベストセラーとなり、映画化した作品はアカデミー作品賞にもノミネートされるなど世界中の誰もが知っている手紙となったのです。また現在、その作品性の高さから高校の現代文の教科書にも記載されており、多くの世代に愛される名作の一つとして広く知れ渡っております。

 この手紙の発見者である伊藤芳美さん(当時十一歳)は「学校帰りに空き地で見つけた紙切れが、まさかこんなことになるとは思っていなかった。発見したことを誇りに思う」とコメントを残しています。』

『以下、樹丘氏の手紙の文章となります。原本と照らし合わせながらお楽しみください。

 三波へ これから書く内容を君に面と向かった話す勇気が今の俺にはまだないから、手紙にして君に伝えようと思う。三波。いや愛華、君の瞳は―』

「うわああああああああ」

 俺は思わず絶叫した。顔を両手で覆って、その文章を視界に入れないように必死で走る。横腹の痛さなんて全く気にならない。きっとこの時が俺の人生の自己ベスト記録の走りだったに違いない。とにかく無我夢中で、走って、走って。走った。

 急に右肩へ力がかかり、俺のスピートに後れを取った。トップスピードで走っていた身体のバランスがいとも簡単に崩れ、重力が俺をコンクリートへと引き寄せる。

「「うおっ」」

 驚愕がユニゾンする。痛みを予測して勝手に身体が全身を強張らせる。

「おい、大丈夫か⁈」

 痛みの代わりに気遣わしげな声が頭上から降り注いだ。目を開けると触れてしまいそうな距離にあるカイの顔。思わず後退りしようとしたが、がっしりと抱き留められて身動きが取れない。

「突然どうしたんだ? 何かあったのか?」

 真剣な表情で質問を投げかけてくる彼は、どうやらこの状況の異常さに気付いていないようだ。通行人から見たら公衆の面前でキスしてると思われるぞ、お前。

 瞼が重い。カイの声が聞こえるが指一歩動かない。必死に声を掛けてくれているカイがぼやける。

 周りを気にせず人を思いやれるその性格、やっぱり俺の知っている海棠に似ているよ。ああ、海棠は今頃学校なのかな。また学校に行ける日が俺には来るのかな。薄れゆく意識の中、不安げなカイの叫びがどんどん小さくなっていく。

 なんだかとても―、疲れた。

 日の光だけで電灯のついていない廊下。教室の外、壁に打ち付けられたフック。テプラで貼られた番号。『5』にのみかかっているダッフルコート。教室の後ろの戸。ガラガラ。音が廊下に鳴り響く、静かな朝。

 朝の教室が好きだ。俺を急かすものが何一つないから。

 教室の隅。置かれた水槽。泳ぐ金魚。

 この金魚が好きだ。優雅で寧静だから。

 金魚の種類は、確か…、ベタ。ドレスのようなヒレをたなびかせ、泳ぐ姿はさながら中世貴族の舞踏会を連想させる。まぁ俺、舞踏会、見たことないけど。

 いつのことだったか。クラスのとある女子生徒が「家で飼えなくなった」と金魚を教室に連れてきた。教室で動物を飼っているクラスなんてなかったにもかかわらず、クラス担任は飼育することを二つ返事で了承したのだった。

 「動物を飼うことでうんぬん、命の大切さがかんぬん」小学校の教室で生き物を飼育するときのようなことを小難しくして話す先生。窓の外には、飛行機雲。長々と言い訳を述べて貰っておいて申し訳ないのだが、先生が私欲で飼いたがっていることは、皆知っていた。

 俺のクラス担任は生物教師で、動物であればなんでも大好きな人だった。女子生徒はそれを理解して、教室に連れてきたのだ。「先生なら絶対に大丈夫、教室での飼育を認めてくれる」と。

 スキップしながら教室の隅に飛んでいき、鼻歌交じりで水槽の設営をした先生の顔は、俺達生徒には向けたことのない笑顔で飾られている。

 金魚がやってきて最初の数日は、女子達が水槽の前で群れを作り「かわいい」「きれい」と持て囃したものだが、一週間もするとその人気はすっかり影を潜め、教室の隅には誰も近づかなくなった。先生を覗いて。

 金魚についての当番は決めなかったため、餌も水槽掃除も全て先生が引き受けているような状態であったが、まあ、先生は嬉しそうだった。


 ある朝、目覚ましが鳴る数分前に目覚めた。

 トイレと洗面台で家族と出くわすこともなく、座った途端に朝食が運ばれてくる。

 何もかも、タイミングがばっちり。とんとん拍子で準備が終わり、いつもより早い電車に乗りこむ。ガラガラの車両内は広くて、いつものように身を縮める必要も無い。

 昇降口や廊下が息を潜めている。

 人気のない教室。シャー。流水音。普段は全く気にならないのに、耳から離れない水音。

 教室の隅にある金魚の水槽を覗いてみる。

 そこに居たのは、見たことが無い生物だった。

 縁日で見かける金魚すくいの金魚を想像していた俺は、その姿に衝撃を受けた。藍色と黒がマーブル模様を描く胴体。胴体と同じ色に先の方だけ薄水色で囲まれているヒレ。水の中で揺れる美麗な青は、俺の心をつかんで離さない。

 その日を境に俺の高校生活へ金魚の餌やりが追加されるほど、一瞬にしてその美しさに魅了されてしまった。

 毎朝一時間早く、起きる。

 誰もいない教室。水面に触れてしまいそうな高さからパラパラ、水槽に餌を落とす。円のように広がる水紋。パクパクと口を開け、身体を揺らしながら餌を食べる金魚。美麗に揺れるヒレ。

 至福のひとときだった。


 そんな至福の朝に出会ったのが三波愛華だった。

 餌やりの重複を防ぐため、餌をあげた後は必ずノートに記入するルールが、一応あった。まあ、こんな事をするもの好きは俺と担任しかいないので、二人の交換日記みたいになってしまっている。

「ねぇ」

 突然後ろから、凛とした声が俺の鼓膜を揺らした。

「ふぇ⁈」

 間抜けな悲鳴が静かな教室に響き渡る。

 振り向くとそこには、黒髪ボブの少女が立っていた。

 ふさふさのまつ毛で縁取られた大きな瞳。特に目を引く下まつ毛が彼女の蠱惑さを印象付けている。

 上目使いで俺の姿を捉えた彼女の瞳は爛々と輝いている、ような気がした。

「ふふふっ」

 口を押えて嫣然と微笑む彼女。体温が一気に上がっていくのを感じる。顔から火が出そうだ。

「ふふっ。タコみたい。可愛い」

 彼女のいう「可愛い」のニュアンスは「可哀想」に近いと分かっていた。馬鹿にされていると、分かっていた。

 だが、俺は反論することが出来ない。口が思うように動かないし、それどころか声すら上手く出ない。人魚姫になった気分だ。

 そんな俺を見て、ご満悦といった表情の彼女は

「じゃあ、また明日」

と、くるりと身体の向きを変える。

 ぱつんと揃った毛先と長い紺色のスカートが、遠心力によりふわっと広がる。右に左に揺れ動いた後、何事もなかったかのように元の形へと戻っていく。

 空気を含んで揺蕩う様は、水槽を泳ぐ金魚のヒレに似て、とても美しかった。

 あの金魚には名前をつけていたのだろうか。俺には分からない。クラスの女子達は一体、なんと呼んでいたのだろう。

 その日を境に俺の静穏な朝は一変してしまった。

 気配を消して背後から話しかけてくるのは序の口も序の口。

 こともあろうに彼女は気配を消して近づき「ふぅー」と俺の耳に息を吹きかけたのだ。当然俺は耳から熱くなり、それは顔全体へと広がった。

 他にも服が擦れる音がするほどの近距離から餌やりをする俺を見つめられたりもした。ドギマギしてロボットのような動きをする哀れな男を彼女はその大きな瞳で追いかけてくる。

 如何やら彼女は、俺を玩具として気に入ってしまったようだった。

 毎朝人気のない教室に来ては手を変え品を変え、俺をからかう。そして狼狽える男を「うふふっ」と口許を緩め、とても愉しそう眺めるのだった。

 

 雪が解け、鶯が鳴いたと思ったら、もう桜は緑の葉を茂らせている。季節は巡っても、俺の一日はいつも通り。誰もいない教室。今日もまた一番乗りだ。教室の隅に向かって一直線。水槽横に置いてある餌を取り―。

 水面に…、金魚が、金魚が、浮かんで―。

 頭が回らない。えっ? なんで? 理解したくない。これって…。

「ガラガラ」

 クラスメイトの女子と、目が、合う。


 教室内の喧騒はどんどん勢いを増して、俺の心を急き立てる。ああ、嫌だ。この喧騒の中心が自分だなんて…。

「ひどいよ」

 金切り声で叫んだ彼女は多分、金魚を教室に連れてきた女子生徒だ。

「不満があったなら、言えばよかったじゃない」

 このモードの女子は何を言っても止まらない。合唱コンクールの時もそうだった。

「金魚が嫌だからって、殺しちゃうなんて…。信じらんない」

 俺だって信じたくない。もうあの水の中で揺蕩う神秘的な青を見ることができないなんて。

 うっうっと嗚咽交じりに泣く彼女は、ガラス一枚隔てたところにいるように感じる。俺の話なんて最初から聞く気がない。

 横から「ひどい」「謝んなよ」「最低」「可哀想」と口々に合いの手を入れる女子達。群れの外側でニヤニヤと卑しい笑顔を浮かべる男子達。

 ぐにゃぐにゃ動く歪な口。俺に向けられる憎悪で、世界が歪む。水の中にいるみたいに音がぼやける。出しゃばって餌やりなんてするんじゃなかった。思考に後悔が混ざる。

「樹丘は、そんなことしないと思う」

 喧騒の中、ただそれだけが俺の耳へ言葉になって届いた。

 声のした方へと自然に視線が吸い寄せられる。

 首だけ動かして斜め後ろに向ける。詰襟。顔を上げるとそこにはホカホカと湯気をあげた海棠空が立っていた。如何やら朝練終わりのようだ。

「朝練で弓道場に向かう途中、教室で金魚の餌やりしているの、何度か見たことある。それに放課後、先生の代わりに水槽洗っていたのも、俺見た」

 彼は自明の理だろと言わんばかりに、俺を中傷する女子生徒を真っ直ぐ見つめる。

「でも、ほら。金魚の世話が面倒くさくなったから、殺したとか…」

 海棠の態度に気圧されてどもる彼女の意見を不思議そうな顔で聞いた後、彼は顎に手を当てながら首をひねった。

「誰も世話しなくたって先生が喜んでやるのに、わざわざ朝早く来て餌をあげているのに? この金魚のこと、相当好きじゃないと出来ないと思うけど。実際、君だって世話してないだろ?」

「なっ、私はちゃんと気にかけて…。世話だってちゃんと…」

「そう? 俺、見たことない。いつやってるの? 最近餌をあげたのは何日の何時頃?」

 わなわなと肩を震わせる彼女の瞳が潤んでいる。今にも泣きだしそうだ。

「ふふふっ」

 黙りこくる彼女の背後から、あの愉しそうな笑い声が聞こえた。

「わっ」

 短く声を上げた後、軽く背中を押す仕草をした。

「愛華⁈」

 意外な人物の登場に驚く彼女へ、三波は嫌な空気を吹き飛ばすかのように話しかける。

「凄い、賑やかだね。隣クラスまで熱気が伝わってきちゃったよ」

 愉快そうに口角を上げた三波と、視線がかち合う。

「あれ? 樹丘くん? 輪の中心にいるなんて、クラスの人気者だったんだね。そうだよね。毎朝優金魚の餌やりしてくれる優しい人は、皆に好かれて当然だよ。あんな柔らかい表情で金魚と接する人いるんだぁーって。私も凄い好感だったもん」

「え⁈ 愛華、なんでそんなこと知っているの?」

 彼女に聞かれた三波は、俺をチラッと見るといたずらっぽい笑顔を浮かべ

「ふふふっ。だって、毎朝一緒、だもんね」

と俺に目配せをしながら意味深な発言をする。

 三波の爆弾発言に興味が移った女子達は、彼女を囲んで色めき立っている。もう金魚の死への興味は完全に薄れてしまったようだ。

 俺は斜め後ろの海棠に、こそこそと話かける。

「ありがとな」

「俺は自分の知っている事実を述べただけだ。気にすんな。それにしてもあいつ、いつ世話してたんだろうな? 土日とか?」

 あの質問、他意はなかったのか…。

「ふはっ。あははは。そうかもな」

 笑う俺を見て、海棠はきょとんとしている。案外天然なんだな、こいつ。

「でも、海棠が信じてくれて俺、本当に嬉しかった。ありがとう」

「…樹丘は、そんな奴じゃないしな」

「は?」

「自分の当番じゃなくても黒板を消すとか。廊下に落ちているゴミを拾うとか。そういう小さい気遣いができる樹丘がそんなことしないだろ」

 俺にとっては当たり前で気にも留めていない行動を、海棠がそんな風に評価してくれているなんて。喉の奥がつんと痛む。

「本当に、本当に。ありがとな」

「感謝してばっかだな、樹丘」

 そういって、笑う海棠の表情はとても柔らかかった。


 右、良し。左、良し。よし、誰もいないな。

 右手で潰さないように気を付けていたそれを一旦地面に預ける。

 校舎裏の日陰。草木が生い茂る一角。掻き分けて穴を掘る。硬くて中々土に指が入り込んでいかない。爪で表面を削っているだけ。

「ねぇ」

 凛とした声が俺の鼓膜を揺らす。

 その声に共鳴するように、俺の肩がビクリと揺れた。

 顔を上げるとそこには、鼻と鼻とがくっついてしまいそうな距離で嫣然と微笑む三波が居た。

 ち、近い。

 咄嗟に後退る俺。逃がすまいと前のめりになる彼女。気付くと俺は三波に押し倒されるような体制になっていた。あまりの状況に、指一本動かせない。俺の身体は如何やら石になってしまったらしい。

「これっ!」、

 弾んだ声。

 俺に馬乗りになったまま、彼女は首をこてんと傾ける。そして右手に持った何かを彼女の顔の横へ持ってきた。

「はいっ、スコップ」

 そういって彼女は僕の左手にスコップを握らせる。

 感謝の言葉を述べようと慌てて上半身を起こす。

 次の瞬間、俺の右手を両手で包み込む。

「爪、汚くなっちゃったね」

 手が、触れた。柔らかくてすべすべの手。白くて小さな手。

 完全にキャパオーバー。もう感謝どころではない。俺は口をパクパクさせるだけの残念な人形へと成り下がる。

「ふふふっ」

 愉しそうな笑い声。

「金魚、埋めるんでしょ。素手じゃ無理だよ。浅いとすぐ掘り返されちゃう」

 スコップを地面に突き立てる。ザクザク、土が音を奏でる。地面に預けてあったティッシュで包んだ金魚を掴んで、ペリペリ、丁寧にティッシュを剥がす。

 こびりついて、中々取れない。

 徐々に姿を現した金魚からは、水中で泳いでいた時の優雅さは綺麗さっぱり消え失せていた。

 ぐったりとした死骸が、ただそこにあるだけ。

「死って、何もなくなるんだね。身体だけしか残らない」

 傍らにしゃがむ彼女が呟く。柔軟剤の甘い香りが俺の鼻腔をくすぐる。

 その生物を形作る、匂いも、動作も、感情も、すべて命と共に消えてしまう。

「あのさ、三波」

「なあに、樹丘くん」

 視線がかち合う。

 亡骸だけの状態は果たして俺と言えるのだろうか。果たして君と言えるのだろうか。

 俺が俺である今は、後悔しないように生きたい。いつ、消えてしまうか分からないから。

「朝…、かばってくれてありがとう…」

 顔が熱い。身体が火照る。きっと今の自分は耳まで真っ赤なのだろう。…タコみたいに。

「ふふふっ。かわいい」

 口元を抑えて上品に笑う。

「かばってないよ」

 上目遣いで覗き込んでくる。

「ただ、樹丘くんの恥ずかしがる顔が見たかっただけ」

 そういうと三波は優艶に目を細めた。

 かわいい。

 俺の中に生まれた感情に、名前が付く。

 校舎裏を穏やかな風が吹き抜ける。心地の良い青嵐。

 気付いた時にはもう、恋に落ちていた。

「…く。…く」

 ううんっ。あとちょっと。あと五分。

「…りく。りく」

 ううっ。寝返りを打つ。なんだか枕が硬い。

「陸!」

 はっと意識が覚醒して、目を開く。見知らぬ天井。あれ? 俺さっきまで確か校舎裏で…。あれ、三波は?

 勢いよく上半身を起こす。

「大丈夫か?」

「好きだ!」

「は?」

 背後から困惑の声が聞こえる。振り向くとそこには海棠の姿があった。あれ? 三波樹じゃなくて、海棠?

「あれ? 海棠? なんで? 俺、校舎裏で三波と」

「ミナミ?」

 耳馴染みのない音と言わんばかりに復唱する海棠。なんだか様子がおかしい。

「ごめん。混乱して…。あれ俺って、何してたんだっけ? ここ、どこ?」

「陸、展示されている手紙を見てると思ったら、突然大声を上げて猛スピードで走り出して、びっくりした。俺、必死に追いかけて、やっとの想いで追い付いたんだけど…。止まって欲しくて、肩を掴んだら、陸のこと倒しちゃって。咄嗟に受け止めたには受け止めたんだ。けどお前、気失って…。しょうがないから樹丘家跡地遺跡まで運んで、ベンチに寝かせてた」

 あぁーー。思い出した。あの手紙。俺のラブレターが現代文の教科書にて全国配布。あまりの恥ずかしさに顔を手で覆った。なんでこんな目に合わないといけないんだ。

「カイ、本当に迷惑かけてばっかりで…」

「すまん!」

「えっ⁈ なんでカイが謝るんだよ」

 少し指を開いて、隙間からを覗く。肩を落として座るカイの声色は沈んでいた。

「俺が肩掴んだから、陸バランス崩して…。抱き留めたけど、あまりにも勢いがついてたから…。俺のせいだ。本当にごめん」

「いや、カイは一切悪くない。どう考えても、突然奇声を上げて走り出した俺が悪いじゃん。そんな異常な奴を落ち着かせようとしてくれたんだろ? ありがとう。そして、本当にごめんなさい」

 膝に手をつき、深く頭を下げる。もう顔を覆っている場合ではない。

「というか俺重かっただろ。こんなことになるならダイエットしておけばよかった」

 顔を上げ、両手で頬を挟む。小首をかしげて「てへっ」と言ってやった。

「「ふっ、ははははっ」」

 なんだか面白くなって、二人して大声で笑う。よかった。カイが笑ってくれて。

「大丈夫。横向きで抱きかかえることが出来るくらいには軽かった」

 歯を見せて笑うカイ。横向き…?

「なあ、それって両腕を使って背中と膝裏部分を持ち上げるように支えた?」

「なんだよ、その言い方。面白いな。そうだけど」

「お姫様抱っこじゃねーか⁈ えー、いつかはしてみたいと思ってたけど、まさか姫抱きされる側の方を先に経験するとは…。ショック」

「抱き留めた体勢から運びやすい持ち方しただけだぞ? 別にどうでもいいだろ、持ち方なんて」

「持ち方って、カイ。ふふっ、あははは」

 人のこと、物みたいに言いやがって。なんだよ、あー。超楽しい。もしかしたら、海棠ともこんな風に打ち解け合える日が来たのかもしれない。もっと話しかけてみればよかった。

「俺、どのくらい気を失ってた?」

「んー。三十分くらい? 気を失っているっていうか、寝てた」

「え? マジで? 俺、吞気過ぎじゃない?」

「マジ。スース―寝息立てて気持ち良さそうに寝てたと思ったら、急に顔を赤らめて恥ずかしがったり、眉間に皴を寄せて唸ったりしてた。表情がころころ変わって見てて楽しかったな。疲れてたんだろ、朝からいろいろあったし」

 心当たりしかない。というか、そんな表情まで見られていたなんて恥ずかしすぎる。気恥ずかしさを隠すために、おどけながら話を逸らす。

「えー。なになに⁈ 寝顔に魅入っちゃうくらいに俺の事、好きな訳⁈ 魅力的すぎるのも罪だな」

 そういってキメ顔でカイを見つめてやる。

「はははっ。そーかもな。確かに下向くと魅力的な寝顔があるもんだから、ついつい魅入っちまったわ」

 ん? 下を向くと…、いる⁈

「お前また俺の夢を…⁈ もしかして…、俺、カイの膝ですやすやと、寝息を…?」

「そうだけど?」

 だからどうしたと言わんばかりの表情でこちらを見つめるカイ。

「初めての膝枕が…、カイ…⁈ ショックだ…」

 よりにもよって初めてが野郎とか…。どおりで硬いわけだ。介抱しておいてもらってなんていう言い草ということも分かっている、分かっているけど。くそぉ、夢じゃん! 膝枕って男子の憧れじゃん! どうせなら好きな子に、その、み…なみ、にして欲しいわけじゃん⁈

「陸、横抱きの時もそれ言ってたけど、そこまで気にすることか?」

「気にするよ! 当たり前だろ! お前、お姫様抱っこするのにも、膝枕されるのにも憧れてない訳⁈」

「ないな」

 カイはきっぱりと言い切った。そんな…。未来人に継承されなかった文化なのか…⁈

「まあ、そんな些細な行動の中に特別を見出せる人間だから、社会現象を巻き起す恋文が書けるんだろうけど」

「なぜそれを⁈」

「さっき寝言で言ってた」

「嘘だろ…」

「ああ、嘘」

「は?」

 一瞬、時間が止まった気がした。口が半開きのまま閉まらない。きっとカイから見た俺の顔は相当な間抜け面に違いない。

「すまん、鎌かけた。まあ、そうだろうなとは薄々感づいてたけど。ここカイの家と住所同じだし、恋文書いた人とカイの苗字一緒だし、恋文見て逃げるし」

「はぁー、だよな。気付かない方がおかしいか。俺、こんな未来、嫌だよ。自分の家の跡地が遺跡になって、自分の手紙が全国民に後悔されているなんて。考えただけで地獄だろ。それが今現実で起きてるの。可哀想だと思わない?」

 顎に手を当てたカイが唸る。

「うーん、多分俺と陸とじゃ価値観がかなり違っているんだと思う。陸がさっきから話している男だから、女だからっていうも正直、よく分かんないし」

 はっと気づかされる。根本的な思想が違うのか。そう考えると、お姫様抱っこや膝枕に興味を示さなかったのも納得できる。

「この時代、他人を好きになった時は役所に申告してAIに相性診断をしてもらうのが当たり前なんだ。晴れて恋人同士になった暁には、登録が必要だし。誰が誰を好きかは皆、把握しているものなんだ。だからこそ陸の恋文は俺達にとって、凄く新鮮で。想いを伝えるのが恥ずかしい気持ちとか外見に対する誉め言葉とか、彼女の前では自分に自信が無いこととか。あの恋文を読むと心臓の辺りがキュウッと締め付けられる。強い感情が陸の言葉から伝わってくるんだ。俺は今日読んでみて、あの恋文、凄く好きだなって改めて思った」

「ありがとう。でも、俺恥ずかしくて結局あの手紙、渡せてないんだよ。ダサいよな。本当にダサいんだ俺。階段から落ちて死を覚悟した時『告白すればよかった』って、後悔したんだ。この事態に来てから、いろんなことに後悔してて、元の時代に未練ばっかで…」

 そうだ。そうだった。なんでこんなに大事な感情を忘れていたのだろう。いや、気付かないように、無意識に蓋をしていた。

 気付くのは、辛いから。

「帰りたい…。俺、帰りたいよ、カイ」


「キャーーー」

 館内中に響き渡る悲鳴。

「展示室の方からだ、陸行ってみよう」

 力強く手を引くカイ。パニック状態の人間でごった返す展示室の中を、俺達は人の間を縫うように進む。

「陸見て! あそこ…」

 カイが指さすその場所は、眩い光を放っている。

「俺…、あの光。知ってる」

「えっ? ちょっと待て、陸、おい!」

 カイの制止を振り切って騒然とした展示室の中を走る。他人に押し潰されそうになっても、迷惑そうな顔をされても、止まれない。人ごみを掻き分けて、群衆の中心へ、中心へと歩みを進める。

 人と人の間に手をねじ込んだ時、眩い光が差し込んできた。強引にこじ開けて前に出ると

開けた空間が広がる。

「やっぱり…」

 俺は、ショーケース内のそれを見つめる。

「陸!」

 振り向くとそこには肩で息をするカイがいた。疲労困憊といった様子で膝に手をついている。如何やら全力で追いかけてきてくれたらしい

「カイ…、本当に、本当にありがとう! カイが俺のこと、信じてくれて、俺、本当に嬉しかった。カイのこと、今日一日でめちゃくちゃ好きになった。もう二度と会えないと思うと、凄く寂しい」

 鼻の奥がつんと痛む。自然と鼻声になる。

「俺の時代に、カイに瓜二つの奴がいるっていったよな。俺、頑張って話しかけてみるわ。きっと、仲良くなれると思う」

 ポケットから透明なカードを取り出し、彼の足元へ滑らせる。

 俺はこれからの先、いつになってもいくつになっても、この不思議な一日を、いやこの親切な少年を忘れないだろう。

「これ、返すわ。…じゃあな」

 ショーケースの中で眩い光を放つ『手紙』へと向き直る。

 組んだ手に力を込めて、振り上げた。

「ガシャーーン」

 大きな音と共に光が溢れ出し俺の身体を包む。

 意識が飛ぶ数秒前、カイが満足げな顔で口をパクパクさせていた。一体何と言ったのだろう。

「…ふう。帰ったか。まさか本当に曾祖父さんの言っていたことが起こる日が来るなんて」

 床に落ちたカードを拾い上げる。

 俺が十七歳の歳に曾祖父さんの友人が過去からタイムスリップしてくるなんて話、正直信じていなかった。だって、あまりにも現実味が無い。過去から? タイムスリップ? ボケ老人の戯言くらいに考え、いつの間にか頭の隅に追いやってしまったのだ。

 祖父は曾祖父に繰り返し聞かされていたようで、ボケてからとはいうもの何度も何度も執拗に俺にこの話をした。そして話の最後、必ず『本当に困っている人を無償の愛で助ける人間になれ』と俺に言い聞かせた。

 最初は陸に話しかけられた時、いまいちピンとこなかった。父は全く信じてなかったし、俺も祖父の法螺話だと話半分に聞いていたから。しかし、話を聞いているうちに頭の隅で埃を被っていた記憶が呼び覚まされた。

「曾祖父さんの親友、面白いやつだな」

 上半身を勢いよく起こす。

 周囲がどよめく。辺りを見渡すとスーツ、スーツ、学ラン、ブレザー、スーツ。

「よかった…。いつもの駅だ」

 こうしてはいられない。すぐにでも学校に…。

「君! 大丈夫かい⁈ 怪我は? 意識ははっきりしている?」

 駅員の制服を着た男性が心配そうに俺を覗き込む。ロボットじゃない。あまりにもすんなりと受け入れられる現実。もしかしてさっきまでのって…、夢?

「はい。大丈夫です。怪我も無いし、意識もばっちりです。心配かけてすみません」

 もう夢でも何でもいい。あんな思いだけは、二度としたくない。

 一秒でも早く彼女に会わないと。靴擦れなんか気にしてられない。兄の嫌味だって、どうでもいい。

「ちょっと! 君!」

「本当にごめんなさい! 俺、急いでるんです」

 走る。走る。走る。もう、後悔はしたくない。


「三波!」

 学校に就いたのは、丁度昼休み。隣のクラスのドアの前で彼女を呼ぶ。

「今って、時間ある?」

 ごくりと唾を飲みこむ。ああ、口が渇く。

「そ、そう。じゃあ、校舎裏で待ってる」

 一人で廊下を歩く。なんだか今日はやけにじろじろ見られる。今から告白することがバレているのか?

 途中にあるごみ捨て場の前で立ち止まる。おもむろにリュックの前ポケットからラブレターを取り出す。ごみ箱の上、両手で端と端を持つ。右手側を前に引いて、左手側を後ろに押し込む。

「ビリッ」

 紙が破れる音。一心不乱に破く。破く。破く。原型を留めないそれは、もう読むことができない。

「よし」

 再び、歩みを進める。三波はラブレターなんて渡そうものなら俺の恥ずかしがる姿を見たいがために、コピーして校内中にばら撒きかねない女性であることを失念していた。何だそいつ。最悪じゃねーか。そして、そんなところもお茶目で可愛いだなんて思ってしまう俺の恋心は、もっと最悪。惚れた方が負けとはよく言ったものだ。

 それにさっき電車内で読み返したら、物凄くポエミーで書いた奴の感性を疑った。まあ、俺なんだけど。

 兎に角、深夜テンションでの文章作成は今後一切しないことを心に誓うほどの傑作だった。あんなのを読んでそれでも好きと言ってくれたカイは、本当に優しい。イマジナリーフレンドだから、あんなにも俺に優しかったのかもしれない。

 夢だとしても恐ろしい…。あんな手紙が世間に広く知れ渡っている未来なんて…。思い出すだけで顔から火が出そうだ。断固阻止! 歴史から抹消せねば!

 

 色の無い風が頬を掠める。秋麗であっても、日陰となると少し肌寒い。金魚を埋めた時とは異なった少しもの寂しい雰囲気に包まれた校舎裏。

「くしゃっ」

 葉が破裂する音。足音で彼女の到着を感じる。

「あっ、ありがとう。昼休みにごめん…。あの、えっ⁈ 服⁈」

 首だけを動かして下を向く。真っ白な制服。

 夢、じゃ…、ない! 

 あの不思議な一日はやっぱり―。

 …母さんに、学ランのことなんて言い訳しよう? ああ、困ったことになった。

「ん? ああ、ごめん。ちょっと考え事。これはその、なんていうか。…おしゃれ! そうおしゃれかなって。変? えっ、近未来的⁈ あはは、そっか」

 中々勘が鋭いな。ああ、口が回らない、彼女の前ではいつもこうだ。本当にダサい。こんな時、気の利いたセリフが出てくるようなスマートな人間だったらな。

 自分の情けなさが嫌になって、惨めな気持ちで地面を見つめる。白い制服が再び視界に映り込む。

『強い感情が陸の言葉から伝わってくるんだ。俺は今日読んでみて、あの恋文、凄く好きだなって改めて思った』

 俺の言葉でいいのか。カイがいってくれたように。素直な気持ちを伝えるだけで。

「あの…、俺…。その…」

 舌がもつれる。心臓の音がうるさい。

「三波のことが、ずっと前から―――」

 澄んだ空気が校舎裏を通り抜ける。

 生い茂る草木の間で咲く青いエキザカムが、優雅に揺蕩っていた。

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え⁈オレのラブレターが、有形文化財に⁈ 阿村 顕 @amumura

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