第6話 南雲大神社、武田神社
武田八幡宮を出て南下、同じ韮崎市内の南宮大神社を訪ねる。
南宮といえば美濃の南宮大社を連想するが、当神社に祀られているのはカナヤマビコではなく諏訪大社と同じタケミナカタ。
武田氏に繋がる甲斐源氏の祖、源義光(新羅三郎)が造営したという謂れがあるようだが、現在の規模はさほど大きくなく、一般的な郷社といったところ。
境内には本殿、随神門、舞殿があり、舞殿はやたら床や屋根が高くのっぽの印象を受けた。
南宮大神社を後にして、武田神社へ。
早朝に出発したため、到着時でまだ午前10時前だった。神社前の道の路肩が無料駐車場になっており、そちらへ駐車する。
武田神社は武田氏の常の居城であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡に建てられた神社だ。現在は武田氏館跡として史跡となっている。
城としては、武田晴信(入道信玄)の父信虎が温泉で有名な石和(山梨県笛吹市)から居城を移し、以降文禄の頃まで約70年ほど使用されていたらしい。
周囲を堀と空堀、石垣塁で囲んだ平城で、単体で見ると防御面はあまり優れていないように感じる。しかし地形を併せて見れば、東は枝尾根が直近まで迫り、西と北も山に囲まれ、南だけが開けていることが分かる。さらに北には谷が伸び、後詰め城の山城である要害山城が控えており、総合的な防御力は担保されているのだろう。
南側の堀に掛けられた橋を渡り、神社境内へ向かう。石垣塁に挟まれた石段を上がり、石鳥居をくぐる。境内には学生服に身を包んだ修学旅行中らしき生徒に溢れていた。COVID‐19も新規感染者数が減っているためだろうか、あちこちの観光地で修学旅行生を見かけるようになった。
本殿に拝したのち、境内を散策する。
手水舎や手水鉢は新しいものだが、鉢は武田菱を意匠に取り入れており、一見の価値あり。舎には算額が掛けられており、今井貞三という人の奉納された物だった。解こうと試みるがさっぱりわからない。
後に調べてみると、今井氏は山梨大学名誉教授の数学者だったようだ。算額はあちこちの神社で目にすることができる。日本では江戸時代に関孝和に代表される学者が和算といって独自の数学を発展させてきた経緯があり、同時代の他国と比較しても最高水準にあった。額にして奉納するというのが、実に面白い。
算法家にとって、また神職・氏子にとっても、優れた算法問題は神を感じさせるものだったのだろうか。
本殿右手には信玄公が利用したという井戸が残っていた。覗くと濁水が見える。利用しなければ新しい水が溜まらず、濁る一方である。どの古井戸を見ても、枯れているか濁水が溜まっている状態であるのは如何なものかと個人的に思うところ。
左手、反対側には今も流れている姫の井戸がある。恐らく当時のものであろう四角い手水石に、青銅製龍口から水が流れ出て注ぎ込まれている。飲用可能とのことで飲んでみたが、あまり旨い水ではなかった。
散策するうちに、姫の井戸の近くに見慣れぬ鳥が数羽放し飼いになっていることに気づいた。真っ白なふわふわとした羽毛に包まれた、鶏のような鳥だ。烏骨鶏だろう。修学旅行生が嬌声をあげて写真撮影をしていた。
神社南側の道を挟んで向かいには、武田氏館跡歴史館がある。武田信虎、晴信、勝頼ら武田棟梁の業績や、躑躅ヶ崎館等の発掘調査結果などをパネルで紹介していた。
また、信虎を主役とした映画が公開中らしく、そのポスターが掲示されていた。
信虎役は寺田農(てらだみのり)、若者にとってはスタジオジブリ作品「天空の城ラピュタ」のムスカ大佐役が有名な俳優だ。(但し当人にとってはムスカは2日で収録を終えており、殆ど記憶に残っていなかったらしいが)
展示館に隣接して、廃業した料亭を再利用した学習室や日本庭園があった。
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