暴れ厠、撫できんたま

立談百景

暴れ厠、撫できんたま

 貴様の顔を覚えている。


 白磁のように白い肌、

 赤子を飲み込むほどの大口、

 TOTOの彫り物——。


 白き大蛇である——と叔父が臍を噛んだ。

 尻は守れぬ——と母が嘆いた。



 忘れもしない、昨年の晩夏のことだ。

 我が尻を撫でるウォシュレットが牙を剥いたのは


 母方の実家へ帰省した折、厠がリフォームされていた。


「孫のためだ」と祖父は言う。

「孫の尻を守るためだ」


 ——あの祖父が、と俺は妙に感心した。

 祖父のことは好いていた。

 しかし彼の者は新しいものを受け入れない、固い人間だった。


 祖父のことを思えば、俺は厠を使わねばなるまい。

 俺は寿司を食い、西瓜を食い、かき氷を食った。

 無事、腹は——下った。


 厠はまだ、厠らしい屎尿の香もなかった。

 建て付けは昨日終わったのだと言う。


 ふん、まだ何度も使われぬ、生娘のような厠よ。

 白き肌が輝いておる——。

 俺は大蛇の子を放り出し、厠に腰掛けた。


 ——得も言われぬ、感情がこみ上げた。

 この家に住む者以外で、初めてこの厠に腰掛けた。

 以前ここにあった汲み取り式の厠とは違う。

 いまこの厠は、俺のための役割を果たしたのだ。


 厠よ、よくぞ成ったな。

 俺は用を足し、ウォシュレットのスイッチを入れた。


 ヴゥーーゥンと、彼の者が鳴いた。


 ——当然、しりのあなに水がくると思っていた。

 ——当然、しりのあなが綺麗になると思っていた。


 しかしウォシュレットは、俺のしりのあなを洗うことはなかった。


「ああっ、ああっ」と俺は思わず叫んだ。


 ウォシュレットは荒ぶっていた。

 その首を右に左に揺らし、回り、

 俺の尻を、きんたまを、存分に濡らして回ったのだ。

 あまつさえ、俺の股ぐらからその首を出す始末である。


 まずいぞ——。


 股ぐらから顔を出したウォシュレットは、その水を強く、高く、しぶいた。


 俺は目を閉じた。

 暴れたウォシュレットの水が、俺の眼孔を貫いたのだ。


「ああああっ」


 俺はひときわに大きな叫びを上げた。

 すると様子がおかしいことに気づいた祖父達が、トイレにまで駆けてきた。


「どうした、どうしたのだ。開けるぞ」


 俺は鍵を掛けていなかった。

 扉の先であられもない姿でうずくまる俺を見た母は、その悲惨さに思わず生きを飲んだ。


「大丈夫か」

 俺は父と叔父に救い出され、祖父はトイレに勇み入り、いまだ水をまき散らし続けるウォシュレットと対峙した。


「鎮まれ! 鎮まれ!」

 祖父はあらゆるボタンを押し、しぶき、暴れるウォシュレットを押さえ込んだ。

 死闘——であった。


 いつまでも鎮まらぬウォシュレット。鳴り止まぬ乙姫。便座は苛烈にも熱を上げていた。

 祖父の顔の皺にウォシュレットの水が浸みるのを、俺はうつろな目で見た。



 やがてウォシュレットはその力を失った。

 電気プラグを抜かれ、電力を止められたからだ。


「すまねえ」と祖父は頭を垂れた。

「やはり文明はいかん。身の丈に合った道具でなければ」


 祖父は泣いていた。

 自らの行いが俺を傷つけたのだと泣いた。



 ——許せぬ。

 俺はいま、初めて強い感情を心に灯した。


 叔父の涙を——

 母の嘆きを——

 父の労りを——

 祖父の涙を——


 ウォシュレットは踏みにじったのだ。


 俺は——

 俺は——



 そして————翌の夏である。

 俺は再び、祖父の家にいた。


「やめろ、やつは化け物、手に負えぬ」

 祖父は俺を止めた。

 俺は、あのウォシュレットに対峙しようとしていたからだ。


 ——あの日以来、俺はウォシュレットを使うことができなくなった。

 心にきずを負い、股ぐらから顔を出すウォシュレットを夢に見るようになった。


 しりのあなはもうぼろぼろだ。

 固いちり紙では俺の尻は拭いきれぬ。

 克服——せねばならぬ。

 ままならぬ厠の逆境を越えねばならぬ。


 父に、母に、叔父に、そして祖父に——

 俺が立ち向かえることを見せるのだ。


 俺は全てをはね除け、厠へ向かった。


 厠はすったり、しんとしていた。

 もはやただの水洗便所である。

 ウォシュレットをはじめ、高機能便座の電源は抜かれたまま。

 ああ祖父よ、電気の通わぬ冬の便座はさぞ冷たかったろう。


 昨年よりも、厠には厠らしい僅かな屎尿の香があった。

 それでもまだ、美しい厠だ。手入れが行き届いている。


 俺はちり紙やスリッパなど濡れて困るものを全て外に出した。


「やるのか」と祖父が言った。

 父と母は、その背から俺を見ていた。


 俺は三人に一瞥をやると、静かに厠の戸を閉めた。

 ——手続きである。

 用を足さねばウォシュレットを使うことは適わぬ。

 まともに動けば良し、動かなければ——。



 ————結果は凄惨なものであった。

 ウォシュレットは変わらず、化け物であった。

 用を足し、俺の股ぐらからウォシュレットが顔を出すと、俺は息が詰まるようであった。


 きんたまを水が撫で、俺は闘った。

 ウォシュレットに打ち勝つべく、その身も省みることなく闘った。


 しかし——ウォシュレットは変わらず暴れ続け、再び厠を水浸しにしたのであった。



 扉を開け、俺は倒れ込んだ。

「ああ、なんてことだ——」

 祖父達が、俺の顔を覗き見た。



 TOTOのカスタマーサービスに連絡すべき、と俺は思った。

 きめ細かく丁寧な仕事で顧客の要望に応える彼らであれば、或いは、或いは——


 しかし挑戦した俺に、後悔はなかった。

 俺はいま、ウォシュレットという恐怖に——逆境に、打ち勝ったのだ。

 トイレの床でウォシュレットの水を浴びながら、俺はすがすがしい気持ちになっていた。


 この日は観測史上、最も高い気温を記録していた。

 12歳の夏のことであった——。


/了

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