病名:クローン病
① 治らない病気
たほいやってゲームを知っていますか。
端的に説明すると、広辞苑に載っている誰も知らないような単語の意味を予想し、参加者が書いた嘘の回答群の中から広辞苑の正解を当てる、という知的ゲームです。
当時、僕の所属していた文芸サークルでめちゃくちゃ流行っていたゲームです。僕もそれなりの頻度で参加していました。
その文化にさらされてか、僕はまずその『クローン病食』という単語について、意味を考えてみました。
遺伝子組み換え的な食材で作った料理、みたいな素人回答しか出てきませんでした。
まさかそんなやばいものを入院食で出すわけがない。
『クローン病食』で検索をかけてみました。
クローン病という病気の食事の話が出てきました。高カロリー、低残渣、低脂肪が特徴。
なるほど、クローン病という病気の人が食べるような食事が出てくるんだな、とそのときは思いました。小腸を切っているわけだし、お腹に優しいという食事なのでしょう。
では、クローン病とは何なんだ?
消化器系の難病という説明が目に入ってきました。
難病?
難病とは、治りにくい、治し方がわからない病気。
なぜわざわざ僕の食事にそんな難病の名前が書かれているのか。
まさかね。僕は鼻で笑い飛ばし、とりあえずクローン病という名称を頭の中から消しました。
ほとんど液体のものを食事と言っていいのかわかりませんが、とにかく食事が再会した次の日。水曜日。
今度は朝食で葛湯が出てきました。
葛湯って知ってますか? 葛粉を溶かしてとろみをつけたものです。いわば離乳食です。僕はこのとき初めて目にしましたし、口にしました。
マジでマズいです。冗談抜きで美味しくないです。これだったらまだ重湯のほうが何億倍もマシだ、だから重湯を出してくれ。そう願いました。
しかしマズいはマズいのですが、昨日よりもいささか口にすること、嚥下することが苦ではなくなっていました。口にするのがはばかられるのは、味がマズいからといういたって普通の理由になっていたのが進歩でした。
昼は重湯でした。
夜はまた葛湯でした。もう勘弁してくれ。
そのさらに次の日、木曜日。
重湯が一分がゆに進化しました。それに伴い、だし汁にも麩みたいな何かが入るようになりました。これには死ぬほど感激しました。
そしてさらに木曜日の夜、湯がいた豆腐が出てきました。だしがかかっていました。2週間近く絶食した上で離乳食みたいなのばっかり食べさせられたあとの豆腐だけあって、豆の味をしっかりと感じることができました。
今までの人生で一番美味しかったものは?と訊かれたら、僕は迷わず「2015年11月19日の夕食で食べた豆腐」って答えると思います。
それらの食事のすべてに『クローン病食』と書かれていました。
金曜日、粥の量が増えてきて、僕につながれていた最後の管(点滴)も外れました。僕は完全に自由になりました。
金曜日に術後経過の診察があるとのことだったので、その日は両親が診察に合わせて面会に来ていました。動けるようになった身体で病棟にある診察室に向かいました。
そこに座っていたのは、僕の執刀医の先生ではありませんでした。その先生は消化器内科の医師でした。
はて、外科の手術をしたのに、消化器内科の先生が診察するとはいかに。はなはだ疑問でした。
その先生は名乗ったあと、僕にこう尋ねてきました。
「最近トイレに行く回数が多かったりしなかったかい?」
なぜそんな質問をしてくるのかわかりませんでした。だから僕は素直に「たしかにトイレに行く回数は多いかもですね」と答えました。同意を求めるように両親を向くと、父も母も不安そうな表情をしていました。
そして先生は僕の答えを聞いたのち、すぐにこう言い放ちました。
「君はクローン病だ」
くろーんびょう? なんですかそれは。
僕の口からはそんな言葉が出ました。
でも僕はクローン病を調べて知っていました。とぼけてしまいました。いや、とぼけるしかなかったのです。
クローン病。治らない病気。その文言が頭の中をリフレインしていました。
ひょっとしたら聞き間違いかもしれない。いや、同名の病気があるのかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、僕は先生に向かって聞き返しました。
「ほら、この小腸」先生はそう言いながら僕から切り出した小腸の写真を見せてくれました。「穴が開いていたところね。縦に潰瘍が走っているでしょ? これがクローン病の特徴なのね」
クローン病、消化器系の難病。小腸は消化器系。つまり、先生の言ったクローン病は僕が調べたものと一致するかもしれない。
「この病気はね、難病なんだ。完治しないの」
さらに先生はそう続けました。
これで僕の調べたクローン病と先生の言っていたクローン病が完全に一致したことがわかりました。
このあとの先生との会話はよく覚えていません。具体的にクローン病がどんな病気か説明してくれたかもしれませんが、定かではありません。
お腹が痛くなることが多いだとか、お腹が緩くなってトイレの回数が多くなるだとか、そんな説明をされたような気もします。
治らない病気。難病。
「この病気を進行させないためには、一番は食事療法だよ。脂質をあんまり摂らないことと、食物繊維の多いものは食べない。胃腸に負担がかかるからね」
僕にとって一番ショックだったのは、この一言でした。
脂質の多いもの=ラーメンを食べちゃいけないってこと?
食物繊維の多いもの=二郎系で野菜を食べちゃいけないってこと?
この時期は週5でラーメンを食べ歩いていた僕からすれば、余命宣言にも等しい言葉でした。
ただ、先生は最後にこう付け加えたことは覚えています。
「まあ、死ぬ病気じゃないよ。まずはしっかり検査して、どう治療していくかを決めよう」
難病とはいえ、治らないとはいえ、命に関わる病気ではない。
『治らない病気』=『ラーメンを一生食べれなくなるかもしれない』という衝撃を抱えた僕が、その場で先生のその言葉を噛み砕いて理解することはできませんでした。
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