⑨ リハビリ、食事再開、そして……

 術後、まだ動けないので、ICUから一般病棟まではベッドに寝かせられたまま移動でした。

 しかしICUのベッドと一般病棟のベッドが違うらしく、どうしてもベッド間の移動をしなければならない。

 看護師さんに囲まれたから、移動させてくれるのかと思ったら、ベッド同士を接続させたあと、「はいじゃあそっちに身体を移動させてください」と言われた。おいマジかよ。悪態をつきたくなるが、やれと言われたら仕方がない。僕は身をよじりながらベッドを移動しました。もちろん腹部には激痛が走ります。

 特に痛かったのが、ベッドの接続部を超える瞬間でした。腹筋に力を入れて身体を浮かせなければならず、ついさっき『パンツミー』で死にかけたのに、また死にかけました。腹が裂けたかと思いましたが、そんなことはありませんでした。


 一般病棟に戻ってからはもう麻薬には頼れませんでしたが、思いっきり身をよじるようなことがなければ特に強い痛みが走るようなことはなくなり、普通に眠ることができるようになりました。

 スマホも手元に戻ってきたので、このあたりで知人なんかに生存報告を行いました。


 ただあいかわらず動けないため、身体を拭いてもらったりしなければなりませんし、尿道カテーテルもまだつけたまま。

 このあたりの順序をまったく覚えていないのでめちゃくちゃあやふやなのですが、尿道カテーテルは最後にもう一度膀胱カメラをしてから抜きました。月曜日だったか、火曜日だったか。


 そして歩くリハビリが開始します。

 尿道カテーテルが抜けた以上、トイレには自分で行かなければなりません。

 まずは立つ練習。立つだけでも三十分くらいかかりました。

 そして病棟の廊下を歩く練習。たった十メートルか二十メートルそこらの距離を歩くだけで、僕は全体力を使い果たしました。

 ちょうど初めて歩くリハビリをしたその日、祖母が面会にやってきたのですが、タイミングが悪く、リハビリ直後で死にそうになっていた瞬間だったので、僕は祖母の顔を見ただけでそのまま眠りに落ちてしまいました。このときばかりは申し訳ないことをしたと思いました。祖母は極度の心配性なので、そんな僕の姿を見た結果、しばらく眠ることができなかったそうです。

 最初は歩く練習をするだけでもう何もできないくらいへとへとになっていましたが、少なくともトイレにはいかなければならない。点滴で栄養補給をしているので、トイレにはどうしても行きたくなる。だから無理やり身体を動かしてトイレに行くようにした結果、歩く際の腹部の痛みにどんどん慣れていきました。こういうのはやはり荒療治が一番効く、ということですね。


 余談ですが、僕は手術する前は自分で持ってきた服を着ていたのですが、手術後は病院が用意した患者用のレンタルパジャマを着るようになりました。というか最初は問答無用で着させられていたのですが、そのパジャマがあまりにも楽すぎて、全身から管が抜き取られたあともレンタルを継続しました。動きやすいし、通気性抜群だし、何より清潔。病院によるのでしょうが、一日二、三百円でレンタルできるはずなので、もし入院することがあれば、自前で用意するよりも素直にレンタルパジャマをレンタルするほうがめちゃくちゃおすすめです。



 術後しばらく経過した火曜日の夕方。

「今日の夜から食事を再開しましょう」

 待ってましたとばかりに僕は飛び上がりました。

 二週間ぶりの食事。いったい何が出てくるのだろうか。楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。

 夕食は夕方六時に運ばれてきます。

 六時になり、個室に食事が運ばれてきました。


 トレイの上に載っていたのは、重湯、だし汁、そしてオレンジジュース。


 以上。


 お、おもゆ? あの赤ちゃんに飲ませたりする、おかゆの上澄みのあれ?

 だし汁って、汁だけじゃん。具がどこにも入っていない。

 それにオレンジジュースは、フレンチの〆に出てくるエスプレッソよりもさらに量が少ない。


「まずは少しずつ慣らしていきましょう」


 運んできた看護師さんが、そう言って去っていきました。

 こんなの、食事と言えるのかよ。全部液体じゃん。一瞬で食事が終わるわ。


 僕は大きなため息をつき、重湯に手を伸ばしました。

 重湯を口につけた途端、何かがおかしいと感じました。

 重湯が入った器のふちに口をつけることはできるけれども、重湯を口に含むことができない。そんな馬鹿な。ただの米味のお湯だぞ。

 やっとのことで一口、口に含む。しかし今度は嚥下できません。

 二週間の食事のブランクが、僕の身体をありえないほど衰えさせていました。

 重湯は味になれてないからではないか。そう思って、だし汁のほうに手を伸ばしました。これも飲み込むことがでない。

 じゃあオレンジジュースは。ただのジュースだぞ。飲めないわけがない。

 しかし、一番きつかったのがオレンジジュースでした。

 口に含んでも飲み込めない。どうしよう。これではいつまで経っても食事を終わらすことができない。

 また重湯を口に含む。相当の時間をかければ嚥下できなくもないことがわかると、少しずつ、少しずつ飲むことができました。


 結果、重湯を飲み干し、50CCもないオレンジジュースを半分飲むのに2時間半かかりました。

 8時半になり、消灯時間まであと30分。看護師さんが様子を見にやってきました。僕は「もう無理です」とギブアップしました。

「よく頑張りました。じゃあまた明日の朝ですね」と看護師さんは言い、僕の夕食のトレイを下げていきました。


 ところで、僕は夕食中ずっと、トレイの上に載っていた紙に書かれていた文言が気になっていました。


『クローン病食』


 なんだそれ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る