第4話
昨日は両親ともども、エビフライのタルタルソース和え、好評だったよ」
学校へ行くと彩夏からもお礼を言われた。洗ってあるタッパーを返す。
「よかった。お礼を言われるとなんだか照れるね」
「今度澪直伝のタルタルソース、作ってみるよ」
「うん」
優菜はさすがに、昨日一日だけでは揚げ物のトラウマを克服できなかったらしい。
「また今度一緒に作ろうよ」
私が言うと、優菜はほっとした表情になる。
「そうだね。油と火は怖かったけど、二人がいてくれたから大丈夫だった。克服するまで頑張る」
優菜は意欲を見せる。
今日は金曜だ。授業はいつも通り六時限目まで行われ、放課後のホームルームも早めに終わった。久江ママにまた手作り料理を作らないと。お弁当の生活に戻ってしまったのは心配だ。私がお兄ちゃんの家にいるときは、恵理子がたまにおすそ分けをしていたみたいだけれど。
今日は誰も、どこかへ寄ろうかとは言わなかった。私は早々に自宅の最寄り駅につくと、スーパーで買い物をして家の台所に立つ。
「あら、今日は澪が作ってくれるの」
リビングの掃除を終えた恵理子が言った。
「うん、作る」
「今日はグラタンでも作ろうと思っていたけれど、じゃあ、明日にするわね」
「グラタンも、私が作るよ」
「いいの?」
「うん。でも久江さんの分も作る。またお弁当の生活に戻っているらしいから」
恵理子に否定させない勢いで言った。恵理子としては、本音、久江ママの分がなければ食費が節約できると考えているだろう。時々顔に出ている。でも流石に口には出さない。
「そうねえ。ちょっと心配ね」
昨日はエビフライで少し胃がもたれた。今日は和食。筑前煮だ。
黒砂糖を使って筑前煮と味噌汁を作ると、久江ママのところへ持っていく。
「毎日毎日、本当にごめんなさいね」
「ううん、いいの」
「こんなに作ってくれるなら、私も澪ちゃんを見習って作らないとだめね」
久江ママは息をついた。
「私が中学になってからずっと作っているじゃん」
「そうだけど、さすがにほとんど毎日頂いていると、罪悪感が湧いてくるわ」
「私は久江さんの健康が心配で」
「心配してくれてありがとう。明日は自分で作るわね」
「明日はグラタン作ろうと思っているけど」
「え、いいわ。私が自分の分、作るから」
心底申し訳なさそうな顔で言う。なら、と久江ママを尊重することにした。
季節は十月を三日ほど過ぎていた。
寒さが少しずつ増している。中間テストも近い。
筑前煮を食べ終え、お風呂に入ると宿題と勉強を始めた。テストの点数が悪いと恵理子にもお兄ちゃんにも何を言われるかわからない。優菜がコピーしてくれたものをなるべく覚えながらノートに書き写し、次に苦手な英単語を覚えるようにする。
階段下から、恵理子の呼ぶ声が聞こえて来た。
リビングへ降りる。両親はテレビに釘付けになっていた。画面にはどこかの厨房で、大きな中華鍋で炒めている酢豚が映し出されている。あまり見たくない光景だ。
「ねえ、このテレビでやっているお店、酢豚がおいしいんですって。お父さんと日曜にでも行こうかって話していたところなの。澪もどう?」
好物だから食べたい気持ちはある。もう八年食べていないのだ。久江ママにばれなければ大丈夫だろうか。
「うん、私も食べたいな」
「ランチタイムは一皿五百円ですって」
「安いね」
「澪はどうして酢豚を作らないんだ?」
忠が振り返り、訊ねる。そうよ、と恵理子も賛同する。
作れない理由。それは正直に話すことができない。
「うーん、豚肉揚げるのが面倒でね」
適当に、嘘をついた。時々リクエストで恵理子からも忠からも酢豚が食べたいと言われるが、そのたびに理由をつけて誤魔化してきた。
「あら、澪。普通に唐揚げだって揚げるし、春巻きだって作るじゃない」
「ああいうのは揚げるだけだからいいんだよ。酢豚は揚げた後に甘酢あん作ったりと一手間かかるでしょ」
「私、澪の作った酢豚も食べたーい」
「お父さんも食べたい」
「そんなに?」
「だって澪が小学生の時に作った酢豚、信じられないほど絶品だったのよ。あの味が忘れられない」
うう。なんと言って誤魔化そうか。私は慌ててテレビを指さす。
「それよりこの、テレビのところに行ってみようよ。私もお店のものが食べてみたいよ」
「そうね。じゃあ、日曜はここでランチにしましょう」
テレビから流れてくるお店の情報を、恵理子はメモする。お店の名前は「ヒダカ」。
中華の大衆食堂として地元の人には有名らしく、他にも大盛りのエビチリやチャーハン、五目そばなどを提供しているが、一番人気は酢豚だという。
私は逃げるように二階へ行き、机に向かう。勉強の前に、担々麺の作り方をもう一度おさらいし、味を思い出すようにしていた。
土曜日のグラタンは、三人分しか作らなかった。だが久江ママが心配だ。ちゃんとご飯を作っているだろうか。あまり押しかけるのも気が引けて、その日は隣の家にいくことも、電話をかけることもしなかった。
日曜になり、午前十一時に父の車で「ヒダカ」へ向かう。お店の近くの駐車場に車を止め、三人で店に向かうとすでにものすごい行列ができていた。店がかなり遠くに見える。
「想像以上の行列だけど。どうする?」
恵理子は困惑したように言った。一応最後尾につくと、お店の人が走ってやってきた。
「すみません。ただいま二時間待ちで、酢豚は三番目に並んでいるお客さんでもう終わりです」
ええっ、と恵理子はがっかりしたように叫んだ。
「本当に申し訳ございません。この行列は昨日テレビをご覧になっていらして下さった方々みたいです。普段は二時間待ちなんてことないのですが」
みんな同じようなことを考えるのだ。テレビの影響力はすごい。
私はどうする? という風に両親を見る。
「せっかく来たのだから二時間待とう。メニューも、酢豚がないなら他のものでいいじゃないか」
忠の意見に、私と恵理子は従う。
「わかりました。並びます」
店員は、私たちの後ろに並んだ人たちにも申し訳なさそうに説明をしている。
恵理子は酢豚を食べられないことが不服そうだった。
結局一時間と四十分くらい待って、ようやく店の中に入ることができた。中は、四人掛けテーブルが四席、二人掛けテーブルが四席、右側が座敷。
店内はお客さんで溢れかえっており従業員複数人が忙しそうに動いている。
四人掛けテーブルに案内され、腰を掛けてメニューを見る。私はチャーハンにし、恵理子と忠は五目そばを頼んだ。
運ばれてきたチャーハンは、どんぶりからお皿にひっくり返したような形状で、一周してチャーシューがすごい数巻かれていた。ボリューミーだ。
「これ、食べきれるかな」
「食べきれないならチャーシュー二枚くらいちょうだい」
「お父さんにもちょうだい」
少し遅れてやって来た五目そばは、見た目は普通だった。チャーシューをお皿からとるように促すと、恵理子は二枚箸でとって五目そばの中に入れた。父も真似る。それでもチャーシューは五枚程度残った。
「じゃあ、頂きます」
食べることにした。味は、確かに美味しいけれどテレビで紹介されるほどのものではなかった。酢豚は分からないけれど、売りの一つとしてボリュームがあるのだろう。
忠と恵理子は疲れきったような顔をして五目そばをすすっていた。
「うーん。酢豚が食べたかったな」
恵理子が呟く。
「ねえ、澪。やっぱり作ってくれない? 私最近酢豚が食べたくて仕方がないのよ」
即答ができなかった。ただ、担々麺を作りにお兄ちゃんのところへ何泊もさせてくれたこと、風邪をひいたときに看病してくれたお礼はしたいと思っていた。だから、これ以上酢豚を作りたくないとは言えない。
「お父さんも食べたいわよね」
「そうだな。澪の作ったやつを食べなくなって八年か」
「お母さんが作ればいいんじゃない?」
私はそっと言った。
「私が作ってもいいけど、澪の味が忘れられない」
「作り方はいたって普通だよ? 私が九歳の時に作って、その驚きがお母さんの中で美化されちゃっているんじゃない」
「そうかなぁ……」
恵理子はなおもなにか言いたそうだ。
でも。史子や久江ママのことばかりに気をとられて、今の家族を蔑ろにしてはいけない。恵理子や忠ともたくさんの思い出を作っていかなければ。今日二時間近く並んだことも、いつか思い出となる。
チャーシュー三枚と、チャーハンを半分食べ終えた。もう入らない。
れんげを置き、静かに言った。
「わかった作るよ。でも条件があるの」
緊張が私の体を迸る。この条件を言えば怪しまれるだろう。
「なに?」
「久江さんには秘密にしておいて。久江さんには絶対酢豚をあげないで」
「どうして? 久江さんにはあれほど毎日作っているのに、酢豚だけはだめなの」
「久江さん、酢豚苦手だから」
苦手かどうかは確証が持てない。史子の大好物だった酢豚について、本当はどう思っているのかわからない。
「そうなの? なんで秘密にするの」
「酢豚について、久江さんには嫌な思い出があるんだよ」
「そう。まあ久江さんに私が作った酢豚をおすそ分けしたことはないし、久江さんちによく行っている澪がそう言うならそうなんでしょう」
恵理子は五目そばを食べる。これ以上深くは訊ねなかった。
ふと思う。全ては私の勝手な憶測でしかないのだけれど、酢豚で久江ママに嫌な思いをさせてしまうのだとしたら、担々麺はなおのこと食べてくれないかもしれない。
担々麺は久江ママと史子のお別れのフードとなっている。久江ママは、もしかしたら担々麺をずっと食べていない可能性だってある。ただこれも確証が持てない。
どうしよう。担々麺を拒絶されてしまったら。
そのことに思い当たって怖くなった。
お腹がいっぱいになってしまい、夕食の時間をずらすことにした。
遅めにスーパーへ買い出しに行く。スーパーの中を一度だけ歩き回った。久江ママに会わないためだ。今日はなにを作るの? なんて言われたら答えられない。
よし。久江ママはいない。
私は手早くかごに必要な材料を入れ、恵理子から預かっている財布で会計をする。
帰ってから忠と恵理子に尋ねた。
「今日、本当に酢豚でいいの? お腹いっぱいじゃない?」
「澪が作ってくれるなら食べられるわよ」
「わかった」
台所に立つと、下ごしらえを始めた。豚肉に料理酒と醤油で下味をつける。
「ところでパイナップル入れる派だよね?」
振り返って忠と恵理子を見る。パイナップルの缶詰に入ったシロップで甘酢あんを作るのが私のやり方なのだ。
「うん。入っていても入っていなくてもどっちでも食べられるわ」
「俺も」
酢豚のパイナップル論争はよく話題になるけれど、私の周囲では彩夏以外みんな肯定的だ。
ピーマンとにんじん、玉ねぎ、しいたけ、パイナップルを一口サイズに切り豚肉を揚げて、一緒のフライパンで炒める。両親は暢気にテレビを見ている。気楽なものだと思いつつ、木べらを動かす。
いつも久江ママの分を作っていたから、量が多くなってしまった。明日また、食べればいいか。お弁当にしてもらってもいいし。炒めた肉と野菜に、片栗粉で溶いた甘酢あんをかける。とろみが出てきて、いい香りがしてきた。わかめともやしで吸い物も作る。
「できたよ」
「わあい、やった」
お皿に盛り付けをして、茶碗に三人分の白米をよそう。吸い物もお椀に入れて並べる。
午後八時だ。料理を作るのにも体力を使う。昼間のチャーシューとチャーハンは、ほぼ胃の中で消化されており、全てをテーブルに並べたころには、少しお腹が空いていた。
恵理子と忠が同時に箸をつける。すると恵理子から歓声があがった。
「やっぱり何も変わってない。このちょっと焦げた感じの豚の唐揚げと、甘酢あんの酸味の入った甘さ。私が求めていた酢豚はこれよ!」
恵理子は八年分の酢豚に対する思いを爆発させるようにはしゃいでいた。
「確かに澪が小三の時に作った味となにも変わっていないな。美味い美味い」
「今日ヒダカで酢豚食べなくて正解だったんじゃない? だって澪の酢豚が食べられたのだもの。私の味付けとも全然違うし」
「そうだな」
恵理子と忠は盛りあがっている。久江ママに話をしないかという懸念はあるものの、二人の幸せそうな顔を見ているとこちらも嬉しくなる。今は食べることに集中しよう。
史子の大好きだった酢豚を一口食べた。酢豚の唐揚げは少し焦がすくらいがちょうどいい。甘酢あんのとろみとよく絡み合って、やっぱり美味しい。
私も、恵理子と同じく八年の我慢が爆発したように一気に平らげてしまった。
学校では、みんなテストの話を始めている。テストが終われば文化祭の準備だ。
そんな中でも彩夏はまだ勉強をしていないという。本当に毎回寝ないで一夜漬けをするらしい。優菜は少しずつ勉強を開始しているそうだ。
午前中の授業が終わり、お昼休みになってみんなが私の席に集まると、お弁当箱の蓋を開ける。
酢豚は入っていなかった。朝も酢豚の残りが出なかったし、恵理子はお昼にでも食べるつもりだろうか。
「みんな将来はどうするの」
彩夏が訊ねる。
「進学するつもり」
優菜が答えた。
「私も進学かな」
私が言うと、彩夏は顔を歪ませる。
「私まだなにも考えてないよ。どうしよう」
「やりたいこととかないの?」
「ないんだよね。澪はなにかあるの」
「ブラック企業に勤めるのだけは嫌だから、なんとかいい大学入ってホワイトなところに就職したい」
「なにそれ」
彩夏は笑う。優菜は国際協力に興味があるらしい。優菜が国際協力というのも意外だったけれど、この三人の中では一番英語ができる。
彩夏と優菜は進路についていろいろと話していた。
私もそろそろ受験勉強を本格的にしないとまずいかもしれない。そうして、ふ、と彩夏や優菜に気づかれない程度の笑いが漏れた。何もかもが鮮明に思い出せる。
史子の時は、教師以外進路のことを誰にも相談できなかった。気軽に話せる子がいなかった。あの学校での地獄のような居場所のない中、よく耐え抜いて第一志望校に合格できたと思う。凄いメンタルだ。きっと今の私だったら耐えられない。史子の学校生活を考えると、泣きたくなる。
私の前世は幸せだったのだろうか。大学に入った二年間を除けば多分、幸せじゃなかった。人に言わせれば住む家があって食べることができて、それを幸せと思えと言われるかもしれないが、正直そんな言い分はいじめられている当事者にはなにも響かない。
それに史子はやっと救われたと思えた大学時代に若くして未来は閉ざされたからどう考えても不幸だ。でも、今はそれを取り返すかのように幸せを満喫している。この幸せが史子の分までずっと続けばいい。
「まあ、進路のことより今は目先のテストのことだよ」
優菜はゆっくりとした口調で言う。
「あまり勉強してないなぁ。なにかと時間取られて」
昨日は酢豚論争でほとんど勉強していない。
「勉強って正直嫌い」
はっきり言う彩夏に対し、私と優菜は笑った。勉強ができる人はいるけれど、勉強が好きな人っているのだろうか。
第一志望校はどこにしよう。学部は。正直あまり考えていない。私の興味のある分野ってなんだろう。しばらく考えてみるがわからなかった。私は思った以上に自分のことをわかっていない。
史子は経済学部に進んでいたけれど、私は経済に興味がない。
今興味があるのは担々麺だ。ただ、今担々麺を久江ママに食べさせようとしていることが、少し怖い。本当に食べてくれるのか、担々麺を久江ママに作ることはただの自己満足でしかないのではないか。そんなことを思うのだ。
午後の授業を聞かずに、こっそりテスト勉強をしていた。多分教師は気づいていたが、なにも言わなかった。
今日のご飯はなににしよう。たまにはオムレツにでもしようか。オムレツももう一年くらい作っていなくて、急に食べたくなった。帰りに材料を買って帰ろう。久江ママにも作らなくては。
ホームルームを終えて、彩夏が寄り道しようと誘ってくるが優菜はテストがあるからと断った。私もテスト勉強と夕飯の支度があるからと断る。彩夏は面白くなさそうな顔をしていたが、諦めてくれた。
途中で別れて、スーパーに寄り、サブバッグとエコバッグを両肩に抱えて家へと帰る。
「ただいま」
「お帰り」
恵理子が出迎えてくれた。毎日の挨拶なのに、「お帰り」と言われたことが今日はいつもよりもしみじみと有難く感じられた。
手洗いをして冷蔵庫を開けると、酢豚がなかった。
なんだかものすごく厭な予感がして、恵理子に訊ねる。
「お母さん、昨日作った酢豚は」
すると恵理子は罰の悪そうな顔をした。
「その、つい成り行きで久江さんにあげちゃったわ」
瞬間、心の中で悲鳴をあげていた。予感は的中した。
なるべく怒鳴らないように、冷静に恵理子に問い詰める。
「なんで? 酢豚を作ることは久江さんに黙っておくのが条件だったじゃない」
「本当にごめんね。澪の酢豚があまりに美味しかったから、今日久江さんと立ち話をして、調子に乗って喋っちゃったの。昨日のお店のこともね」
信じられない。あれだけ言ったのに。
「やめてよ、もう。絶対言わないって約束どうして破るの!」
理性が吹き飛んだ。私は泣きそうになりながら、半ば叫んでいた。
「でもどうして言わないことにこだわるの? 久江さん、酢豚は嫌いじゃないって言ってたし話をしていたら食べたそうにしていたから」
恵理子は表情を読み間違えた。久江ママは食べたそうな顔をしていたのじゃない。多分史子のことを思い出してしまったのだ。
「違う。違うの。そうじゃないの」
「どういうこと? たかが酢豚じゃない」
「久江さんにとっては、されど酢豚なんだよ! 約束したのに口が軽すぎるよ。ひどい。どうして無神経なことするの」
私は泣きながら、乱暴にオムレツを作る準備を始めた。酢豚を作れば久江ママを傷つける。やっぱり酢豚なんか作るんじゃなかった。
「でも久江さんは嫌いじゃないって。澪が間違った認識していたんじゃないの」
「もういい!」
私は恵理子が何を言っても無視して、お米を研ぎ炊飯器にセットすると、野菜を細かく刻んでいく。もう取り返しがつかない。
涙が溢れてきて止まらなくなった。
「泣いているの? 本当にごめん。約束を破ったお母さんが悪かったわ」
「…………」
嗚咽が漏れる。気まずくなったリビングに、固定電話が鳴り響いた。
恵理子が出る。しばらくして、肩を叩かれた。
「澪、久江さんから」
私は歯を食いしばり、涙をぬぐった。受話器に耳を押し当てる。
「はい」
「澪ちゃん?」
久江ママの声が聞こえて来た。なんとなく声が潤んでいる。
「澪です」
「あの、ごめんね。夕飯時だから電話をかけてみたのだけれど、今日も私のために作ってくれる予定だった?」
「うん」
深い息が受話器の向こうから聞こえて来た。
「もう、いいから」
「…………」
「もう、私の分を作ってくれなくていいから。ごめんね。いつも作ってもらっていたのにこんな勝手なことを言って。澪ちゃんが悪いんじゃないのよ。私のわがままなの」
言いたいことは薄々感づいている。
「ちょっと待って。そちらへ行くから」
なにか声が聞こえてくるのも待たずに私はそのまま受話器を切る。
「お母さん、今日私の代わりにオムレツ作って。続きやって」
自然と低い声を出していた。
「どうしたの? 久江さんとなにかあったの」
恵理子はオロオロしている。
「今から久江さんのとこ行ってくる。今日は三人分でいいから」
そのままリビングを後にして、いつものつっかけサンダルを履いて隣の家に行くと、インターホンを鳴らした。
「澪ちゃんね?」
茶色いスピーカーから声が聞こえる。
「お願い。開けて」
しばらくして、扉が開いた。開けてくれない可能性も考えていたから安堵する。
お邪魔します、と言って私は家にあがった。
「お茶、淹れる?」
私は静かに首を振った。
「なぜ、もうご飯を作らなくていいの? 本音が聞きたい。なんでも聞きたい」
思いを少しぶつけた。すると久江ママは正面に座り、静かに言った。
「おとといの大衆食堂のテレビ、私も見ていたのよ。それでなんとなく食べたくなったんだけど。今日恵理子さんと立ち話して、あの食堂に行ったけど酢豚は食べられなかったっていう話をして。澪ちゃんが代わりに作ってくれたけどとても美味しかった、残りがあるので食べますかって言われて断ろうとしたのだけれど、断り切れなくて」
「なぜ断ろうとしたの」
「史子の大好物だったから。ふと、史子が笑って食べているのを思い出したのよ。でも恵理子さんがお皿ごと持ってきてくださったから、断るのも申し訳なくてお昼にそのまま頂いたの。そうしたら気持ちが抑えきれなくなっちゃって」
「気持ち?」
久江ママは泣き出してしまった。
「あのね。澪ちゃんの作る料理と、史子が作っていた料理、同じなの。全部史子の味なのよ。餃子も、タルタルソースも、筑前煮も。酢豚も。他にも。他にもすべて、全く同じ味付けなの。だからどうしても史子のことを思い出しちゃって。あの時どうすれば史子は助かったのだろうって考えちゃうの」
ああ、そうか。餃子を作ったときに悲しそうな顔をしていたのは、史子と味が同じだったからだ。味って誰かの記憶に残るものなのだ。何年も、何十年も。
久江ママは顔を覆い、肩を震わせる。
私は少しの衝撃を覚えていた。酢豚を作れば久江ママの辛い記憶を思い起こさせるとそう考えていた。でも違った。私の作る料理全てが、ママの心を圧迫し続けていたのだ。
そうして酢豚が引き金になって、もう食べたくないという結論に到達してしまった。
史子のことを思い出させてしまうから。
「ごめんなさい。私、料理を作るたび、嫌な思いをさせていたんだね」
「そういうわけじゃないの。澪ちゃんが作ってくれること自体は大好き。それに気遣って作ってくれるのもとても嬉しかった。だから好意に甘えて毎日頂いていたの。でもどうしても、料理に史子を感じてしまうのよ。史子と同じ味付けで、心が暗くなるのに澪ちゃんの料理を食べていたなんて矛盾しているわね。でも本音は食べたかったのだと思う。思い出しながら食べているのが実は好きだったのかもしれないとも思う。でも同時に悲しさも溢れて、今回の酢豚の件で我慢の限界がきちゃった。澪ちゃんが悪いんじゃないってわかっているから。だからこれは本当に、私のわがまま」
ママ。私は史子なんだよ。金沢澪だけど、佐川史子でもあるんだよ。だから史子と同じ味付けなのは当然のことなんだよ。だって史子の記憶で全ての料理を作っているから。
内心でそう訴え続けていた。ここで私もすべてぶちまけられたらどんなにいいだろう。
だがどうしても言えない。恵理子と久江ママ両方をより傷つけてしまうだろうから。
失敗したとしたら私のほうかもしれない。私が金沢澪として、恵理子にきちんと教えてもらい、史子と全く異なる味付けの料理を作っていればよかったのかもしれない。
「史子さんのことを、よほど愛していたんだね」
「ええ。一人娘だったから余計にかわいくて」
「亡くなったときはどんな感じだったの。ごめんなさい。変なことを聞いて」
実は私は、史子が死んだ経緯を知らない。トラックに跳ねられたことしか知らない。久江ママがその時どんなだったのかも知らない。史子の遺影は笑っている。
「あの日は冷え込みが厳しくて。史子は私の好物の夕飯を作るためにスーパーへ行ったの。その途中で事故に遭って、内臓破裂、頭がい骨骨折して、救急車の中で息を引き取った。私は事故にあったのなんて知らなくて、帰りが遅いと心配しながら待っていた。そうしたら電話がかかってきて……」
思い出したのか、再び顔を覆って泣き出した。そうか、内臓破裂していたんじゃもう助からない。頭部も歪んで顔にも傷がついていたのだろう。
「それでもね。お葬式を終えても、史子が死んだって頭でわかっていても、私は今もどこかであの子の帰りを待ち続けているの。もうどこにもいないのに。今にも帰ってくるんじゃないかって、期待したって仕方がない期待をまだしているのよ。あの子の人生は中途半端に終わってしまって、それに納得していない私がいるの。思い出だってもっと一緒に作っていきたかった」
声が潤んでいる。史子はここにいる。あなたの目の前にいるんだよ。
「これまで久江さんに作っていたのは、お弁当ばかりで心配になって。でも、私は料理を作ることによって久江さんを追いつめていたのかもしれないね。辛い思いをさせて本当にごめんなさい」
「ううん、全ては私の問題なの。澪ちゃんは関係ないわ。だから電話でぶっきらぼうにもう作らなくていいなんて言ってごめんなさい」
二人で謝って堂々巡りだ。久江ママの傷はどうしたって救えないのかもしれない。
「今度二人でどこかへ出かけない? 家にいてばかりじゃ、苦しくなるだけだよ。なにか自然の多い公園にでも行けば、気持ちも晴れるかもしれない」
私は思ってもないことを言ってみた。そんなことをしても久江ママは癒えないのだ。
でもママは、家にこもってばかりいる。あまり遠くへ行ったのを見たことがない。年齢のせいなのかと思っていたけれど、多分心情的には、心が辛くて動けないと言った感じなのかもしれない。
「ええ、そうね……」
ママも乗り気ではない返事をする。
「私の存在も、史子さんを思い出す?」
「それは、そんなことは絶対にないわ」
それを聞いてほっとする。金沢澪という人間まで史子と重なると言われたらどうしようかと思っていたのだ。
「娘さんを亡くされたのは気の毒だけど、私は久江さんに笑っていてほしい」
久江ママはいつも笑っていた。史子が泣いている時も、微笑んで励ましてくれた。
いつも笑っていたのに、泣きっぱなしの人生じゃもったいない。
「澪ちゃんにも心配かけてしまうわね。なるべく、笑うようにする」
無理をして言っているのがわかった。でもどうにもできない。
二言三言、話して帰ることにした。
玄関を開けるとオムレツの臭いが漂ってきた。
「お帰り。もう作ったから食べられるわよ」
恵理子の能天気な声が聞こえてくる。怒りはすでになくなっていた。
「うん」
私は白米を茶碗によそうと席に着き、ケチャップをかけてオムレツを食べる。
恵理子も隣に座り、同時に食べだす。
「久江さんとなにを話してきたの」
怒りはなくなったとはいえ、恵理子には言わなきゃ通じないだろう。
「久江さんの娘さんの大好物が酢豚なんだって。だから私の酢豚を食べて、史子さんのことをどうしても思い出してしまうって。だからもう料理は作らなくていいって」
間を置き、恵理子は深刻そうに「そうだったの」と言った。
「ねえ、子供に先立たれるってどんな気持ちなのかな」
恵理子は真面目な顔で言う。
「澪や圭一が死んだら、私も理性を失ってどうなるかわからないわ。奈落の底に突き落とされた気持ちになるかもしれない。そして死ぬまで心に穴が開いたような感じになって苦しむでしょうね。久江さんもきっと、心の柔らかいところに穴が開いているのよ」
ゴンが死んだとき、深い喪失感があった。守るべき対象がいなくなったからだ。子供を失うというのは、それ以上に、深い深い喪失感と傷が残るのかもしれない。
食べ終えて茶碗を洗うと、私は部屋にこもってぼんやりとしていた。
私は久江ママに、ずっと史子の味を押し付けていたのだ。そうして久江ママを苦しめていた。最初は酢豚が引き金となったと思ったけれど、酢豚がきっかけで本音を知ることができてよかった。久江ママのためと思ってやっていたことは、ママを地獄に突き落とし全部自分のためにやっていた、自己満足の料理だったのだ。
そうして餃子を作ったとき、「久江さんとも思い出を作りたい」と言ったあの時目を伏せたのも、史子と思い出を作れない様々な感情が押し寄せてきたためなのだろう。
後悔や、納得のできないことや、思い出を作れない寂しさ。
気づくと、涙が出ていた。これじゃあ、担々麺なんて作れない。今まで私がやってきたことはすべて無駄だったのだろうか。
どうすればママは、笑顔になってくれるのだろう。どうすれば少しでも救われるのだろう。いや。失った人間が戻ってこない限りは、救われないのだ。
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