第3話

部屋にごま油の香りが充満している。流石にプロのようには作れないから家庭で材料を揃えられるもので作るしかない。作るのは二人分。


豚ひき肉を焦げ目がつくまで炒めて、豆板醤と甜麺醤を半さじずつ入れる。味見をしてみると、肉から甘さが消えている。それから鶏がら、豆板醤を大さじ1、醤油を少々入れる。ここまでの味はまぁまぁ。味の基盤となるオイスターソースを少し多めに入れることにした。こうすることによって、深みと旨味が増す。



これまで足りなかったのはオイスターソースと練りごまの量だ。練りごまペーストを二つ買って、一つと半分流し込む。すると赤かったスープが白に覆われる。


ラー油を大さじ2、最後に花椒を入れてみるとこのスパイスのおかげで香り立つ。味もぐっと引き締まりそうだ。お兄ちゃんのアドバイスどおり、ちょうどいい太さである味噌ラーメンの生麺を茹で、水を差し、どんぶりにスープと麺を入れて、もやしの上に黒くなった肉味噌、チンゲン菜、白髪ねぎを添える。


「できた」


お店で担々麺を食べてからすでに四日が経っている。一昨日は砂糖を加えた担々麺を作ってみた。ピリッとした辛さの中にも甘さがあり、香りにも甘さが残った。


今日は砂糖を入れていない。どちらがいいか味比べだ。


バイトから帰ってきたお兄ちゃんの目の前に担々麺の入ったラーメンどんぶりを置く。


「どれどれ。うん、うまそうな匂いだ」


お兄ちゃんが箸をつける。私もそれに倣った。

麺をすする音が聞こえてくる。そうしてお兄ちゃんはしばらく味わうように口を動かしていた。  


「うん。濃厚で美味い。かなり上達したじゃないか」

「でしょう。お兄ちゃんがお店に連れて行ってくれたおかげだよ」


豆板醤も肉味噌の辛さもちょうどいい。


そうして、担々麺の辛さは時間を置いて胃に染み込んでくる。


「で、砂糖あるのとないの、どっちがいいかな」

「どっちもおいしいけど、砂糖なしのほうがさっぱりしていて食べやすい。俺個人の意見としてはないほうがいいかな」


麺をすするたび「スープがうまい」とお兄ちゃんは呟く。


「そっか。私は砂糖のあるまろやかさと甘みのあるスープも好きなんだけどな」

「久江さんの大好物とかで食べて貰うんだろ? 今回みたいに砂糖が入っているものと入っていないもの、二回作ればいいじゃないか」


言われてはっとする。別に、久江ママに作るのは一回だけじゃなくていいのだ。

何度だって作ろう。ママの喜ぶ顔が見たい。


「ところで親から連絡は来ているか」

「うん。そろそろ帰れってうるさい」

「そうしろ。俺も昼間電話がかかってきて、澪をいつまで泊める気だって怒られた」

「ごめんね、長居して。明日帰るよ」


朝の苦行も終わる。


「泊めてやった代わりに、今度エビフライ作ってくれ。タルタルソースでな」


お兄ちゃんは笑いながら言う。やはりエビフライのタルタルソース和えは好評だ。


「わかった、作るよ」

「なんか、台風来ているらしいな。明日辺り風が強くなるみたいだ」


スマホを見せる。台風は東方向に進み、明日、西日本に上陸するらしい。その影響で、関東も風が強くなるようだ。明日の天気を見ると曇りになっている。


キャリーバッグの中には折り畳み傘がある。


「明日学校行ったらそのまま、実家に帰るね」

「わかった」

「とにかく、担々麺、うまかった。成功してよかったな。ご馳走様」


お兄ちゃんはスープを三分の一まで減らして、どんぶりをキッチンに置いた。私も食べ終えて、どんぶりを丁寧に洗った。 


お風呂に入らせてもらったあとで、帰り支度を始めた。お兄ちゃんのアパートで使っていたタオルや洋服、化粧水の類などをまとめてキャリーバッグに詰める。教科書も、サブバッグに詰めた。


この大きなキャリーバッグは、どうしよう。コインロッカーに預けるしかない。


「明日ジョギングはどうする?」

「台風来ているからやめたほうがいいだろう」


よかった。少し寝坊ができる。この十一日ほど、朝四時、五時起きだったので体力も少し低下している。それなのにお兄ちゃんはぴんぴんしている。




朝六時。

制服に着替えて部屋を出ると、お兄ちゃんが目玉焼きを作っているところだった。


私が圧をかけてから、お兄ちゃんは朝食を作るようになっている。


「おはよう」


言われておはよう、と返す。今日でこの部屋ともお別れだと思うと、なんだか寂しく感じられる。


テーブルにサラダと目玉焼き、ウィンナー、ハムと焼いたパンが並べられる。


「美味しそう。私がいなくなっても自炊しなよ。夜もね」

「なるべくそうするよ」


お皿の中のものを平らげると、歯磨きをしてサブバッグとキャリーバッグを持ち、玄関に立つ。


「忘れ物はないか」

「大丈夫だと思う」

「じゃあ。またそのうち実家帰るから」

「うん。じゃあね。ありがと」


お兄ちゃんが見送る中、私は寂しさを抱えながらお世話になったアパートを出た。


スマホのとおり、風が強く、空はどんよりと曇っていた。明日か明後日には関東にも上陸する恐れがあると言われている。 


学校の最寄りの駅に着き、駅近くにあるコインロッカーにキャリーバッグを入れる。

大きさ的にぎりぎりだった。帰りは彩夏や優菜になにか言われるかもしれない。


なにかちょっと寒気がする。


教室について、彩夏や優菜と相変わらず他愛のない話をした。私が教室にいるだけで近寄ってきてくれるのがありがたい。これを当たり前と思ってはいけないのだ。


彩夏は前買ったレシピ本を、片っ端から作り始めているようだ。それに触発されたのか、優菜も最近は台所に立つことが多いという。


「でも私、揚げ物作るの苦手なんだよね」


私の机の前に二人は集まり優菜が言った。


「なんで?」


彩夏が首をかしげる。


「昔野菜炒め作っていたら火柱あがっちゃったことがあってさ」


彩夏が笑った。


「どうして野菜炒めで火柱があがるの」

「油で野菜を炒めようとしたときに、洗ったザルの水がフライパンに入っちゃって、

弾けた油がコンロに飛んでゴオッーと燃えた。レンジフードまで炎が届いたよ」

「えーっ、それで火事にはならなかったの」

「危なかったけどね。火を止めたら炎も小さくなって、そのままフライパンに水を流したから。あの時はひやひやしたよ。顔も火傷はしなかったけど炎が近かったせいかピリピリした。料理は細心の注意を払ってやらなきゃだめだね。それから火が苦手になって。火柱上げたのは野菜炒めだけど、揚げ物なんか油を温めるじゃん? その中に水が入ったらどうしようって思うだけでもうなんだか鳥肌」


優菜の細い二の腕には本当に鳥肌が立っていた。


「顔を火傷しなくてよかったよ」


言うと、優菜は微笑む。


「うん。まあ、注意力が散漫になっていた私が悪いんだけどさ」

「いつか克服して、揚げ物作れるようになるといいね」


優菜は頷いた。私の場合、揚げ物は後片付けが面倒でちょっとだけ作るのを避けている。それでも家族の要望があれば内心は渋々作るのだけれど。


チャイムが鳴り、担任が入ってきた。立っていた子たちは彩夏や優菜も含め、みんな静かに席に座る。点呼をとり、長い一日が始まった。窓の外を見ると、やはり空は雨でも降りだしそうなほどの鼠色だ。


なんだか、この十一日間の疲れがどっと出てきた。


早起きからの一時間のジョギングがとにかく大変だった。おかげで太らずにすんだとは思うけれど、体が少しだるい。相変わらず、授業の半分は寝ていた。


お昼も、購買のパンで済ませた。頭の中は担々麺を作ることでいっぱいだ。忘れないように実家でも常に作りたいけれど、恵理子が文句を垂れるだろう。


六時限目の授業を終えて、彩夏と優菜と一緒に帰る。コインロッカーからキャリーバッグを取り出すと二人は驚いていた。


「ほら、お兄ちゃんの家から通っていたから」


私は説明する。


「あ、そっか。そうだったね。勉強見てもらっていたのだっけ」


優菜が言った。


「そう。あとは担々麺を作るために」


二人は顔を見合わせる。


「そういえば前、そんなこと言っていたよね。で、どうだった」

「美味しく作れるようになったよ」

「じゃあ今度教えてよ。って前から言っているけど」

「いいよ。テスト終わったら、一緒に作ろ」

「ああ、テストって嫌な響きだ。わたしの人生にいらないもの。それがテスト」

彩夏は項垂れる。

「なに言ってんの」


優菜が笑い、二人とは途中で別れた。


キャリーバッグを引きながら移動するのは大変だ。お兄ちゃんの家に行くときはなんとも思わなかったのに。旅行に行くときは身軽で、帰りはなぜか足取りが重く感じられるのと似たようなものだろうか。人の多い電車の中では気を遣うし、人とぶつかってしまってすみませんと謝る。


とにかく担々麺。必要なことはお兄ちゃんの家にいる間にメモを取っていた。


「浜海」も「華」も今となっては美味しかったけれど、「桂蘭」はホテル併設のダイニングだけあって極上だった。帰ったら、家の近くのスーパーにも花椒があるかどうか見てみよう。お兄ちゃんの家の近くで買ったものもまだ残っているけれど、一応。


実家の最寄り駅についた。なんだか随分久しぶりな気がして、見慣れた景色にほっとする。史子の時から数えれば、私は三十七年もこの街にいるのだ。店は変わっても、街の構造は変わらない。坂は坂のままあり、角は角のまま存在している。


それにしてもキャリーバッグを引く音がうるさい。なんだかふらふらする。


もう少しで家だ。家まであと数百メートルなのに、とても遠くに感じられる。


急ぎ足で歩く。帰って寝込みたい。だが寝込んだら担々麺の作り方を忘れそうだ。


家までもう少し。もう少し――


キーンと耳鳴りがした。目に見えているはずの景色がだんだんと見えなくなっていく。




目を覚ますと、白い天井が見えた。


「澪!」


恵理子の顔が見える。点滴パックも見える。


意識がなくなる直前のことを思い出した。なんだか体がひどくふらふらして、なかなか家にたどり着けないような感覚にとらわれていた。


「大丈夫? 意識はあるのね」


私はゆっくり頷いた。全身がだるい。ああ、家を出る前考えたことを言わなくちゃ。


「お母さん、ただいま……」

「今そんなことを言っている場合じゃないでしょう」

「私、倒れたの?」

「そうよ。家の前で倒れていて、久江さんが見つけてすぐに救急車を呼んでくださって、私に連絡をくれたの」

「どのくらいここにいる」

「三時間くらいよ。あなたが気を失っている間、色々検査していたみたいだけど」


目が覚めたことに気づいたのか、看護師が顔を出した。


「金沢さん、どうですか具合は」

「だるいです」

「熱、測ってください」


体温計を差し出されたので、熱を測る。三十九度五分あった。やっぱり疲れによる免疫低下だ。上半身を起こしているだけでもきついので、また横になった。インフルエンザだろうか。


「やだ、高い熱じゃない」


恵理子は心配そうに私の手を握る。


「移るといけないから離れていなよ」


言っても恵理子は私から離れない。


「先生呼んできますね」


看護師が去り、しばらくして白衣を着た中年男性がやってくる。


「体は色々検査しましたけど、特に異状は見当たりませんね。ただその高い熱、インフルエンザかどうかわからないので検査しましょう」


先ほどの看護師がやってきて、点滴をつけたまま車椅子で処置室のような場所に運ばれる。先生に、長い綿棒を鼻の中に突っ込まれた。それからまた看護師によりベッドに戻される。三十分が経ち、先生が現れた。


「ただの風邪ですね。熱が下がるまではここでおとなしくしていてください」

「よかったぁ」


恵理子はそう言って長い息を吐いた。 


「食欲はある?」

「全然ない」


そう言っている間にも、担々麺の味が脳裏に焼き付いている。忘れないようにしなくちゃ。忘れないように。忘れないように。白練りごまは多めに、赤いスープに白が入るように……。


「じゃあお母さん、一度帰って必要なものを持ってくるから」

「うん」

恵理子は部屋を去っていく。私は深い眠りについた。

 


目が覚めても、まだ熱はあるようだった。これは本格的に汗をかく努力をしないとまずいかもしれない。


「澪ちゃん!」


聞き慣れた声。声の主に目をやると、久江ママが面会に来てくれた。


顔面蒼白している。


「大丈夫? 久江さん顔色悪いよ」

「あたりまえでしょう。澪ちゃんが家の前で倒れていたからびっくりして。心配になって来たのよ」

「ありがとう。ママ……」


ふらつく意識の中、思わず言ってしまった。けれど久江ママは聞こえなかったか、あるいは聞こえていても病人の譫言と思ったのか、そこには何も触れずに恵理子と同じ、手を握った。その目は潤み、真っすぐに私をとらえている。


「ただの風邪だって。久江さんに移っちゃうから……」

「いいのよそんなこと。それよりもなにか無理していたのね」


久江ママは私の手をきつく握りしめ、はっきりとした口調で言った。


「風邪だって甘く見られないわ。親より先に死んだらダメよ。絶対にダメ」


悲鳴に近い声で、泣き出しそうな顔をしている。胸の奥が熱くなった。


久江ママは史子という一人娘を亡くしてからどれだけ絶望していたのだろう。そうしてまだ、苦しみの中にいる。未だ、絶望している。私があなたの娘だったと言えれば、少しは救われるのだろうか。


ごめんなさい。親不孝なことをしてごめんなさい。あの時落ち着いた気持ちでスーパーへ行っていれば、ちゃんと周囲に注意を払っていれば、史子はまだ生きていたのかもしれない。久江ママに孫だって出来ていたのかもしれない。


「ごめんなさい……」


そう言っていた。今世はもう、親より先には死なない。恵理子や忠より、久江ママより先には死なない。


「心配してくれてありがとう」


だるさを耐えて、精いっぱい笑ってみせた。


恵理子がボストンバッグを持ってやってくる。


「ああ、久江さん、ご迷惑とご心配をかけてしまってすみません」


頭を下げている。


「私もいてもたってもいられなくなってしまって」


母親が二人、ここにいる。同じ時間の同じ時代、同じ空間に存在している。

今までも恵理子と久江ママが話をしていて同じ空間にいたことはあったのに、改めてそう実感した。久江ママは澪のことをどう思っているのだろう。


きっと隣に住んでいる家のお嬢さん、くらいにしか思っていないはずだ。娘としては絶対に見ていないだろう。見られるはずがない。


事実を、前世のことを話せば、恵理子を傷つけることになりはしないだろうか。それが十歳のころからずっと心に引っかかっている。


「さあ、澪も久江さんにお礼を言って」


その言葉に久江ママが首を振る。


「さっき聞きましたので大丈夫。私も思い立ったようにここへうかがってしまって」

「ありがとうございます」


恵理子は何度も頭を下げる。私はまだ、親に守られている子供なのだ。


「澪ちゃんの顔が見られてよかった。じゃあもう帰るわね」


久江ママは微笑み、病室を出ていく。


ママの数十年の気持ちを考えると、胸が苦しくなる。そして多分ママの絶望の気持ちは私の想像をはるかに超えている。


「着替えにコップ、持ってきたから。熱は」


恵理子は額に手を当てる。


「まだありそうね。汗かいたら着替えるのよ」

「うん……」


目を閉じた。「桂蘭」の担々麺の味が、舌にずっと残っている。





「ご臨終です」


久江ママが、病院の白いベッドに横たわり息をしなくなっていた。


医者が開いたままの目を閉じる。

ベッドの周囲を、恵理子と忠、私で囲んでいる。私の外見は定かではない。恵理子と忠も、年をとって病を患っている。史子の時に良くしてくれたお弁当屋のご夫婦ももういない。唐揚げ屋の店主も亡くなった。


今は恵理子と忠がいなくなるのを恐れている。


「澪。あんたはいい伴侶を得て家庭を築いていくんだよ」


恵理子と忠は私にそう言って、病室を去る。私は二人の後を追いかけようとした。


だが、なぜか追いつけない。廊下を走っても走っても二人の後ろ姿は遠ざかるばかりだ。


「置いていかないで。私を置いていかないで!」


叫ぶと同時に目が覚めた。隣で寝ている人の、もぞもぞと動く気配がする。


本当に叫んだのか、夢の中で叫んでいたのかわからない。


夢。でも、お弁当屋のご夫婦と、唐揚げ屋の店主がもう亡くなっており店が潰れたのは事実だ。置いて行かれたような感情が、心の底で溜まっている。いや、みんなを置いていったのは私のほうだ。私が死に、街から消えて――あれ、今は澪だっけ。


私は史子? 澪? どっち?


体に病衣がペタリと貼りついている。身を起こすと汗をぐっしょりとかいていた。


ナースコールを押して、看護師が来るのを待つ。体はまだだるく、熱もあまり下がっていないようだ。汗も気持ち悪い。


「どうされました」


看護師がやって来た。


「あの、汗をかいてしまって」

「じゃあ、体拭きましょうね」

「すみません……」


ぼんやりとした意識の中、体を拭いてもらう。私は涙を流していた。今世は恵理子や忠、久江ママより先には死なないと決めていても、彼らが死ぬ姿を見るのも嫌だ。


夢はいつかああなる未来を教えてくれたのかもしれない。いずれは久江ママを看取らなければならない。そうなる日が来るのが辛い。そして、私が年をとっていけば恵理子や忠も。


史子はみんなを置いていったけれど、澪の私はみんなに置いて行かれる役目になる。

それが辛い。


看護師にお礼を言い、着替えて横になった。体中が熱い。喉も痛く、鼻水も出てきた。

 


台風が上陸し、過ぎ去り、熱が下がって退院した。


台風一過でよく晴れている。空気は澄んで、秋の涼しい風も吹いてくる。

風邪の症状はまだまだあるし、時々微熱も出るので学校を休んで家で寝て過ごす。


食欲がない。恵理子が朝、おかゆを食べさせてくれた。久江ママのおかゆも食べたい。


ふんわりとした卵が入り、少しの塩味がある。もうずいぶん長いこと食べていない。


当たり前か。私はあくまで隣の家のお嬢さんなのだ。


鼻水が止まらず、ゴミ箱がティッシュでいっぱいになる。時々鼻を噛んでは、マスクをして夜まで寝ていた。


「澪。入るわよ」


ノック音が聞こえる。返事をする気もなくて、私は黙っていた。


「久江さんがね、澪におかゆを作ってくださったの」


一瞬だけ意識がはっきりして、上半身を起こした。恵理子は部屋の電気をつける。


「久江さんが」

「ええ。心配だからってわざわざ」


考えていたことが現実になった。恵理子はお盆に土鍋を置く。我が家にはない土鍋。そして、私が知っている、黒に深い青の線が一本入った土鍋。


「食べられそう?」

「うん」


恵理子のおかゆも美味しいけれど、久江ママのおかゆが食べられる。内心で感動する。澪になってもまだ食べられるのだ。


恵理子が隣に来て座り、用意してあった座卓にお盆を置いた。


土鍋の蓋を開ける。


「まあ、奇麗。卵がゆね」


中が黄色く染まっていた。ねぎがかけられている。


恵理子は小皿におかゆを盛った。私は両手を伸ばす。


「自分で食べられる?」


頷きれんげを口に運ぶ。変わらない久江ママの味が舌に広がる。

夢中で土鍋のおかゆを半分食べた。


「食欲、出て来たわね」


頷き、水を飲む。確かに朝よりも調子は良くなっている。


「だけど寝込むほどの風邪をひくなんて、よほど体調が悪かったのね。圭一の家で無理していたんじゃない」

「そうかも」 


風邪をひいて寝込むのは、澪になってからは初めてだ。風邪をひいても三日程度で治っていた。朝の慣れないジョギングが、よほど体に堪えたのかもしれない。


「ありがとう」


起きていられず、横になった。


「また来るから、なにかあったら言いなさいね」

「うん」


力が抜けていきそうになるほどほっとした。あの卵がゆには病気をよくする魔法がかけられている。史子の時も食べてしばらくするとよくなった。



朝から寝ていたから、横になったまま寝付けない。私は鞄からメモを取り出し、担々麺の作り方を何度も頭の中で反芻する。


でも。今の家族もちゃんと大切にして、しっかり思い出を作っていこう。




五日が経ってようやく風邪が治り、学校にも行けるようになった。


朝、学校へ行く前に久江ママに卵がゆのお礼を言うと、いいのよ、と笑った。

 

でも最近はまた、お弁当の生活に戻っているらしい。


「あ。澪、やっと来た」


教室に入ると、彩夏が自分の机からそう言った。長く休んでいたので、クラスの女子たちも数人、心配したと声をかけてくれた。私は丁寧にその子たちに対応し、彩夏の席に行く。優菜もやって来ると、ノートのコピーをくれた。


「ありがとう。コピーとってくれたんだ」

「うん。入院したって聞いたし何日も休んでいたから、彩夏と本当に心配していたんだよ。入院中はお見舞い行きたくても台風で天気が荒れていたし」


天候が荒れていたことは記憶にあるけれど、どのくらい酷かったのかは曖昧だ。


私は頭を掻いた。


「ひどい風邪ひいちゃってさ。熱が四十度近く出て。でももう大丈夫」

「四十度近くも?」


彩夏がびっくりしたような表情をする。


「うん。もうすっかり元気」


両手を挙げるとニヤリと彩夏が笑う。


「病み上がりのところ申し訳ないんだけどさ、今日家に来られない?」

「どうしたの」

「お母さんがエビをネットで間違えて大量に頼んじゃってさ。エビフライ作るって大見栄切っちゃった。だから一緒に来て作り方教えて? 食費全部こっち持ちだし食べていっていいからさ。優菜も来てね。揚げ物克服できるいいチャンスかもしれないよ」


ええっ、と私と優菜は叫んだ。


「行くのは構わないけど、なんで作れないのに作るなんて言ったの」


優菜は呆れたように彩夏を見つめる。


「や、作れるかなーって軽く思ったんだけど、ネットでレシピ見ていたら逆にわからなくなっちゃって。パン粉と薄力粉と卵……野菜なんかの材料は家にあるよ」

「ピクルスは?」


気になって言ってみた。


「あ、それはない。なにに使うの」

「タルタルソース」

「そういえば、エビフライにはタルタルソースがいいとか言っていたっけ」

「うん、言った」

「じゃあ、それも作り方教えて?」


わかったと言った。心配をかけたお礼だ。フライも三人で作れば早いだろう。


「でも何人分作るの? 彩夏のお父さんとお母さんは?」

「弟もいるから六人分になるね。両親は共働きで、いつも八時頃まで帰ってこないよ」


彩夏が今年に入って料理に目覚めるまでは、カレーや炒め物など作れる範囲での料理か、母親が作って遅い時間に食べるか、お弁当の生活だったという。


「わかった。一緒に作ろう」


担任が入ってくると、みんな席に着いた。

 


昼食は恵理子の作ってくれたお弁当だった。お兄ちゃんの家から通っていた時は毎日購買のパンだったから、久しぶりに食べる。白米にふりかけ、卵焼き、ミートボール、ウィンナーにひじきの煮物、プチトマトが入っていた。一口食べると止まらなかった。食欲も完全に戻っており、お弁当はどことなく、ふわりとした優しい味がした。そうして久しぶりに、彩夏と優菜でふざけたバカな会話をしていた。

 



放課後になって、恵理子に電話をする。優菜も電話をかけていた。


「あ。お母さん? 今日友達の家でご飯食べることになったから」

「とか言ってまた圭一の家に行くんじゃないでしょうね?」

「いや、彩夏の家。エビフライを作るの」


そういえばお兄ちゃんは今度帰ってきたときエビフライが食べたいと言っていた。


近々帰ってくることになったら作らなければならず、そうすると今日もエビフライ、その日もエビフライでそれこそ太ってしまう。ジョギングと風邪で少し痩せたけれど。


「お兄ちゃんはいつ帰ってくるって」

「まだ当分帰ってこないわよ」


よかった。安堵してもう一度用件を伝え、夕飯はいらないと言って電話を切る。


彩夏の家は学校から電車に揺られて二十分のところにあった。乗り継ぎはなし。


途中、スーパーでピクルスを一瓶買って、彩夏の戸建ての家にお邪魔する。ドアを開けたところにすぐ階段が見え、左右に何か部屋があり、直進したところがリビングだ。リビングには奥まったところにキッチンと、ブラウンの四人掛けテーブル、大きなテレビがあった。人の家というのも興味深い。


中学生の弟は野球部で帰ってくるのはいつも六時頃だそうだ。


現在四時半。袋に大量に入った、冷凍されたエビを彩夏は持ってくる。


「これ、いくつくらい入っているの」

「わからないけど、四キロ」

「四キロ?」


思わず叫んでいた。なにをどうすれば、量を間違えるのだろう。多分よく確認しないでカートに入れ、注文を確定してしまったのだろう。


「澪先生、なにから作ればよろしいでしょうか」


突然かしこまった声が聞こえて来た。首をかしげて、少し考える。


「うーんエビは解凍しなきゃいけないから、必要な数だけ出そうか。一人三尾として、十八尾?」

「もう少し多めでもいいんじゃないでしょうか お母さんにたくさん使ってって言われました」

「じゃあ、明日の朝食か、お弁当にでもすればいいよ。八尾くらい多めに出そう」

「もう少し多くしてもいいですか先生」

「わかった。好きなだけ出せばいいよ」


彩夏は手際よくエビを出すと、トレイ二皿にキッチンペーパーを敷き、並べてラップをかける。まずは炊飯器でお米を炊くことにした。


「サラダはなに作ろうか。キャベツの千切りと……」


冷蔵庫の中を見させてもらう。ニンジン、ごぼう、大根、キュウリがあった。


「……大根ときゅうりを細く切って、あとはきんぴらごぼう作る?」


彩夏が勢いよく手を挙げる。


「先生、きんぴらごぼうを作ったことがありません! よって作れません!」

「じゃあ、彩夏と優菜は野菜を細かく刻む作業をしてくれる? それが終わったらきんぴらの作り方教えるから」

「はい。まな板も包丁もうちには二つあります」


彩夏はまな板を一つテーブルのほうへ移した。優菜がキャベツを洗い、千切りを始めた。小気味のいい音が聞こえてくる。大根ときゅうりを細く切るのは彩夏の役目だ。


キャベツと混ぜて、ドレッシングをかければサラダができる。


台所を借り、ごぼうの泥を落としたあと包丁の背で皮を剥いていく。これは結構時間がかかるのだ。気づくと二人はのぞき込んでいた。


「ごぼうってそうやって剥くのですね」

「うん。ピーラーでもいいんだけどね」


史子がそうしていたから私もなんとなくそうしている。


振り返ると、二人は野菜を切る作業をとっくに終えていた。量も結構ある。ごぼうの

皮を剥き終え、薄く斜め切りにした後、にんじんも同じように切る。同じ形にすることによって火が通りやすくなる。


彩夏はメモを取り出した。


「きんぴらの作り方、教えて下さい」

「私流でいいなら」

「構いません」


みりんを使わないのが、久江ママ直伝。恵理子からも不思議がられているが、みりんは甘くなるのであまり好きではない。ただ、彩夏の家にも黒砂糖はない。私は仕方なく、どんぶりに、醤油と白砂糖、お酒を目分量で足していく。


「この合わせ調味料で煮物とか作れるから」

「そうだね。肉じゃがやかぼちゃの煮つけとほとんど変わらないみたい」


それでもメモをするので、偉いな、と思った。


「鍋で炒めたら、水を入れて、合わせ調味料をかけて蓋をしないで煮るの」

「ポイントは蓋をしないことでしょうか」

「そう。蓋をしないで水分を飛ばして、できたらすりごまかけて終了」

「頭に叩き込んでおきます、先生」


彩夏はじっと鍋の中のきんぴらごぼうを見つめていた。


切った野菜はざるに入れて混ぜ込んでおく。きんぴらごぼうができるころには、エビの自然解凍も終わった。


「じゃあ、作っていこうか」

「エビってどうするの」


優菜もエビの前で立ち尽くしている。


私は殻をむき、爪楊枝で背わたを取って身の部分に斜めに切れ目を入れていく。


「なるほど、そうやるんですね、先生。これがよくわからなかったんです!」


彩夏はメモをしながら、優菜と一緒に真似ていく。結局三人で三十尾の殻をむき、再び身の出たエビをトレイに並べ、キッチンペーパーで水分をとる。軽く塩を振った。


「あとは卵を溶くのでしたか」


彩夏は笑顔になって冷蔵庫から卵を取り出す。


「そうそう。卵に薄力粉と牛乳を混ぜてパン粉をつけて、揚げるだけ。水でもいいんだけど、私は牛乳を使っている。あ、床に新聞紙と、キッチンまわりにアルミホイル敷いたほうがいいよ。跳ねるから」

「じゃあ私がやります」


積極的に彩夏が動き出す。新聞を持ってくると広げ、コンロに沿うようにアルミホイルを敷く。そうして薄力粉と卵と牛乳を混ぜたボウルにエビを浸し、パン粉をまぶす。優菜も手伝っていた。


「なら、私はタルタルソース作るね。あとでレシピ教えるから」

「わかりました。ありがとうございます」


彩夏は手を止めずに明るく言う。


私は急いでタルタルソースを作ることにした。買ってきたピクルスに、洗った玉ねぎをみじん切りにする。人数を考えると、結構な量を作らなければならない。


ピクルスを瓶から全て取り出し、玉ねぎは一個半、刻んでいく。


みじん切りにすると、どんぶりを借り、マヨネーズで和える。


「じゃあ、揚げてもいいでしょうか先生」

「ほんっと今更だけど先生はやめて。敬語もいらないし」


彩夏は肩をすくめた。出来上がったきんぴらごぼうをお皿に移し、鍋を綺麗に洗う。


よく手を拭いてから、中華鍋に油を注ぐ。うちと同じ、温度の表示機能が備えられている。


「油、怖いよう。火も怖いよう」


優菜が彩夏の後ろに隠れる。やはり鳥肌が立っている。


「一人じゃないよ。三人いるから大丈夫だよ」


彩夏は優しくそう言った。大体油の温度が百七十度になったかなと思うところで、パン粉をつけたエビを投入していく。


「ただいまー」


男の子の声が聞こえて振り返る。


「あ、あれが弟の大地」


振り返らずに彩夏は言った。中華鍋に全集中している。


「なに、姉ちゃんの友達?」


大地君はびっくりしたようにリビングの出入り口から台所を見つめている。


「こんばんは。私は金沢澪と言います。お姉ちゃんにはいつもお世話になっています」


微笑んだ。


「はぁ、こんばんは」


大地君は中二だという。身長は彩夏と同じくらいだ。


「今日はね、エビフライを作りに来たの。よろしくね」


優菜も笑顔で言った。


「あー、姉ちゃんエビフライ作れないんだろ!」


いきなり彩夏を指さし、大声で言った。


「それで友達任せで作っているんだろ」


けらけらと笑った。笑う姿は、彩夏そっくりだ。


「うるさい! 今こうしてちゃんと揚げているでしょ。教えてもらったのは事実だけど」

「昨日自信満々に作るって言ったくせに」

「大地君にもちょっとだけ手伝ってもらえると嬉しいな」


ナイス、優菜。姉弟喧嘩より手伝ってもらえるほうが今は嬉しい。


「じゃあ、手洗いして着替えてきます」


油の音がパチパチという音から、ジューっという音に変わっている。温度を百八十度にして、中華鍋の様子を見る。こんがりと焼き色がついていた。


色のついたエビフライを手際よくキッチンペーパーを敷いたトレイに置いていく。


優菜はその様子を遠くから見つめていた。やはり怖そうにしている。


「周りに燃えそうなものがなければ大丈夫だよ」


肩に手を置き、そう励ました。


大地君が私服姿でやってくる。


「それでなにをすればいいんですか、俺」

「いつも使っているお皿、出してもらっていいかな」


私は布巾を借りてテーブルを拭き、言った。


「あ、澪と優菜も食べていくから六人分のお皿出して」


彩夏が言う。


へーい、とやる気のなさそうな声で大地君は食器棚からお皿を取り出す。


「いつもうちで使っているお皿は四人分しかないから、二人の分は違うお皿でもいいですか」

「もちろん」


優菜と私で同時に首を縦に振る。


テーブルにお皿を並べ、サラダときんぴらごぼうを盛りつける。


あとはエビフライが全て揚がるのを待つだけなので、その間にボウルを洗い、台所を片付けさせてもらった。しばらくして、全てのエビが揚がった。全部で三十尾。見るとものすごい量だ。


彩夏はトレイを持ってきて、トングでお皿に三尾ずつ置く。私はエビフライの置かれたお皿からタルタルソースをかけていく。


「なにこれ」


白いソースに興味を持ったようで大地君が言った。


「タルタルソース。うちのエビフライはソースじゃなくてこれなの」

「手作りは初めて食べるかも」


大地君は目を輝かせた。そうしてお腹の音が大きく鳴り響く。


「大地君、お腹すいているんだね」


優菜はゆっくりとした口調で言う。


「うん、野球の練習思いっきりしていたからお腹ペコペコ」


彩夏は中華鍋以外の調理器具を全て綺麗に片づけ、言った。


「さ、じゃあ食べよう」


お箸を食器棚に備え付けられた引き出しから取り出すと、四人で椅子に座った。


「持ち帰りたい人いる? 容器貸すよ」

「いいの?」


私は思わず言っていた。お弁当生活に戻ってしまった久江ママに食べさせたい。


「うん。手伝ってもらったんだし構わないよ」

「じゃあ、持って帰る。タルタルも持って帰っていい?」

「OK。いくつ?」

「二尾で……」


本当は三尾と言いたかったが遠慮することにした。久江ママも食が細くなっているから二尾で十分かもしれない。借りたタッパーにエビフライを、アルミカップにタルタルソースを入れ、冷ますために蓋を開けておく。


「じゃあ食べようか。頂きます」


元気よく彩夏は言った。


「頂きます」


それぞれ口にして食べ始める。揚げたてのエビフライは衣もサクッとしている。


「うめえ。なにこれ、うめえ」


大地君が口にエビフライをいっぱい入れ、ハムスターのように頬を膨らませている。


「このタルタルソース、めっちゃうまいです」

「確かに美味しい。うちもエビフライにはソースだから、新鮮だね」


優菜も言った。


「ありがとう」


私はさっき約束したタルタルソースのレシピを口頭で伝えた。


彩夏はメモを取っている。


それからは大地君中心の話になった。野球に明け暮れていて、勉強そっちのけという話や、育ち盛りだからよく食べるという話。


「こいつ、本当によく食べるんだよ。エビフライも三尾じゃ足りないでしょう」


見ると確かに、箸の進み具合が早い。お皿の中のものがもうほとんどなくなっている。


「ごはんとエビフライ、お代わりする」


言って炊飯器に向かうと白米をよそい、それからエビフライをトレイから三尾取ってタルタルソースをたっぷりとかけていた。


「大地君、本当によく食べるね」


優菜が微笑む。


「お腹空いているんですよ」

「大地は万年お腹すかせているんだよ。常に何かしら食べているの」

「育ち盛りなんじゃない? うちのお兄ちゃんも、大地君くらいの時はよく食べていたよ。あまりの食べっぷりに口開けて見てた。高校生の時もご飯どんぶりで食べていたし」

「中高生って、男女で食べる量違うよね。クラスの男の子たちもよく食べているじゃん。パン六個食べている子もいたし」


優菜はよく見ている。


「そんな子いたっけ?」


彩夏が目を丸くさせる。


「いるいる。お弁当箱二つ持ってきている子とかも」

「気づかなかった……」


彩夏は呟く。


大地君は無言で食べていた。あまりの豪快な食べっぷりに、三人で噴出し、笑う。


「多めに作っておいてよかったね」


私は言った。幸せな日常。幸せな彩夏の家庭。   


私はしっかりと写真のように一コマ一コマ記憶の中で切り取って、脳裏に今日という日のことを焼き付けておいた。いつか思い返したときに、楽しい日だったと笑って誰かに話せるように。記憶の引き出しを宝物でいっぱいにしよう。


ご飯を食べ終え、お皿を洗っていると、彩夏のお母さんが仕事から帰って来た。


「あら、お友達来ていたのね。いらっしゃい」


肩までの黒髪に、スーツ姿だ。なんだかキャリウーマンという感じがする。


「お邪魔しています」


私と優菜でそう言った。


「エビフライ、作り方教わってみんなで食べていたとこ」


彩夏が説明する。


「え、まさか作れなかったの」

「へへ。無理を言って澪に教えてもらった」


彩夏は軽くげんこつをされていた。そうしてお母さんは私に向き直る。


「わざわざ彩夏のためにありがとうございます」

「いえ、私たちもエビフライをご馳走になりました。美味しかったです」

「澪の作ったタルタルソースでお母さんもエビフライを食べてみたらいいよ」


時計を見ると、もう八時近くになっていた。そろそろ彩夏のお父さんも帰ってくるだろう。


洗い物も終わったので優菜と顔を見合わせ、頷く。


「じゃあ、私たちはそろそろ帰ります」

「駅まで送っていくよ」


エビフライとタルタルソースの入ったタッパーは、彩夏が手提げの紙袋に入れてくれた。


お母さんは玄関先で、何度も私と優菜にお礼を言った。




すっかり遅くなってしまった。


家に入る前に、久江ママの家のインターホンを押す。声が聞こえたのでスピーカーの前で名乗ると扉が開いた。


「澪ちゃん、今帰り? 遅かったわね」


久江ママは足元から頭まで私を眺めている。


おそらく遅い時間帯に制服姿でいることに驚いているのだろう。


「風邪はもういいの」

「ええ、すっかり。その節はありがとうございました。卵がゆもおいしかった」

「いいのよ。お礼なんて。元気になってくれてよかったわ」


私は手提げの紙袋からタッパーをとりだす。


「すっかり遅くなっちゃったけど食べて。友達の家で今日、エビフライ作ってきたの」

「まあ、ありがとう」


受け取ると、病み上がりなのだから無理しないでね、と言ってそっと扉を閉じた。


私は鼻歌交じりに、自分の家の玄関を開けた。


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