第2話
高校は、史子の時とは異なるところを受験した。
偏差値はやや落ちるが、憧れのセーラー服だ。史子の時はブレザーにチェックのスカートだった。
恵理子は午後二時までパン屋のレジをして、帰ると綺麗に家の隅まで掃除をしている。
今日の夕飯はなににしよう。昨日は餃子だったから今日は和風にしようか。
肉じゃがなら久江ママに作れる。よし肉じゃがにしよう。あと坦々スープはどうやって作ろう。毎日作れば怒られるだろうけれど、早く美味しく作れるようになりたい。
「金沢さん。ボーっとしない。ここ、テストに出ますよ」
教師に怒られはっとする。
「すみません」
慌てて前を向き、姿勢を正す。クラス中から笑いの渦が起きる。
今は六時限目の英語の授業だ。
勉強はいくら前世の記憶があっても高校レベルになるとさすがにほぼ忘れている。史子の時は高校も大学も第一志望に受かったが、澪でいる私の場合は少し危うい。
史子と私で、勉強に関する地頭は少し異なるようだ。
前世の記憶があると人生をやり直しているようで楽しいけれど、時々取り残されたような気持にもなる。街で、史子の時から知っている人がみんな年をとり、亡くなった人もいる。街の建物も新しかったものが老朽化し、馴染みの店がなくなっていた。新しい命も芽生えている。
街も人も時は進み、でも私の精神は何も変わらないままこの街にとどまっているような、妙な感覚に陥る。もちろん私も史子としての命が終わり澪としての命を生きているから、時間は進んではいる。でも、なつかしさと寂しさ、置いて行かれるような焦りがごっちゃになった感情に襲われるのだ。
チャイムが鳴って、授業が終わる。息をついて教科書とノートを鞄にしまうと、頬杖をついた。前世の記憶を思い出してから、度々カルチャーショックを受けることもあった。
まずスマホというものが普及していること。パソコンやテレビがものすごく薄くなっていること。授業でiPadを使うことがあること。デジタル面の進化がすごい。澪として現代機器を使っているにもかかわらず、時代が移ろっていることに寂しさを覚える。
他にも史子や久江ママが使っていたスーパーがなくなり、より大型のスーパーができていたこと。知っていた店がたくさん潰れていたこと。
あとはありえないくらいの自然災害。夏場に降る雨が尋常じゃなくなっている。
そしてなにより驚くのが、下の名前が読めない子が増えたことだ。
「やーい、怒られてやんの」
友達の彩夏(さやか)が席にやってきて冷やかす。優菜(ゆうな)も来た。
「なにか考え事でもしていたの」
優菜が訊ねる。ストレートの髪を二つに分けている。
「夕飯のことをね」
「毎日作っているんだっけ。偉いなぁ」
彩夏が頭の後ろで手を組み言った。彩夏はボーイッシュなショートカット。
「偉いってことのほどでもないよ。習慣になっているから」
「私まだ簡単なものしか作れないんだよね」
「私も」
優菜が頷く。
「昨日信じられないことが起きて。あとで話すから放課後どこか寄っていかない?」
彩夏が私の机に両手をついた。本当は坦々スープの試作をしたいけど、友達づきあいは大事だ。少しくらい夕飯の時刻が遅くなっても大丈夫だろう。
「いいね。どこ行く」
「私、甘いものが食べたい」
優菜が手を挙げる。彩夏もお腹減っているんだよね、と笑う。
担任が入ってきてホームルームが始まる。学級委員の子が、授業中におしゃべりしている子が多いと注意を促していた。それから二、三の報告。
それが終わると、生徒たちは立ち上がり帰り支度を始める。
彩夏と優菜、私で相談して、安上がりで長く喋れるファーストフード店に寄ることにした。「今度友達作って連れてくるよ」。史子が高校の時、泣くのを我慢してママにそう言ったことがある。
本当は友達なんかいないのに、いじめられているのに友達ができるとどこかで信じてそう言っていた。合言葉をちゃんと返せるようにという思いもあった。
「じゃあ、楽しみにしているね」。ママはそう言って、緩く笑った。全て見通していただろう。記憶の中のママは黒髪で、肩までふわふわとしたパーマがかかっている。
肌にハリもあってまだ若い。
前世での経験から、私は友達作りに慎重になっている。性格的にさっぱりしていていじめを嫌うような子に近づいた。中学の時は比較的いい子が多く、クラスも三年間まとまっていて、特別仲の良い子はいなかったけどいじめもなかった。
高校に入ってからはつぶさに人間観察をして、彩夏と優菜に積極的に声をかけた。二人とも絶対に人の悪口――クラスの子の悪口や噂を言わない。そういう子は信頼できる。そうして言葉選びも慎重になっている。変なことは言わないように。なるべく声のトーンを明るくして、雰囲気も暗くならないようにしている。
そして慎重に道路を歩く。どんなに小さな横断歩道でも赤なら絶対に止まり、青になって左右を見て渡る。そのことに、最初は彩夏も優菜もびっくりしていたが車に弾かれそうになったことがあると説明すると、納得したのか何も言わずに受け止めてくれた。本当は跳ねられて死んだのだから車やトラックへの恐怖は若干あるのだ。
史子を跳ねてしまった運転手はどうしているのか気がかりだった。結局信号無視で突っ切ろうとしたトラックだったらしいけれど、恨みも怒りもなにもない。ただその後どういう人生を歩んでいるのかが気になる。顔も名前も知らない。会うことはないのだろう。
学校近くのファーストフードについて、私はポテトとコーラを頼み、優菜はバニラソフトクリームを頼んでいた。彩夏はホットアップルパイとアイスコーヒー。二人掛けの席を二脚くっつけて、余った椅子に全員の鞄を置く。私はLINEで恵理子に少し遅くなると送っておいた。
もちろん寄り道をしているとは言わない。いろいろとうるさいのだ。
そんな現在の母ももちろん大事な存在ではある。
「それで彩夏、どうしたの」
優菜が訊ねる。
「なにが」
「さっき昨日信じられないことが起きたって」
優菜が私を見てくる。私も優菜を見た。これはすっかり忘れていたな、と思い二人で笑った。店内のざわめきが心地いい。
「あーもう、笑わないで。思い出したから。昨日うちの夕飯酢豚だったんだけど、パイナップルが入っていたんだよ。いつも入れないで、って言っているのに。信じられる?」
彩夏は気だるそうに椅子に深くもたれかかった。酢豚、と聞いて私は内心固まる。
「なんだ。そんなこと? 私酢豚にパイナップル入れる派」
優菜は手を挙げる。
「澪は?」
一斉に視線が注がれる。
「私も酢豚にパイナップル入れるの好き」
固まる心とは裏腹に、笑顔で言った。
「えー、私が異端なの? 酢豚にパイナップルはあり得ないって。だって、なんで料理の中に果物温めて混ぜ込んでいるの」
「それがおいしいんだよー」
優菜は笑いながらソフトクリームをスプーンですくい、口に入れる。
二人が軽く言い合いをしている中で、私の中には黒くくすぶっているものがあった。
史子の大好物がパイナップル入り酢豚。九歳の時、まだ記憶が完全に戻らなくてうっかり酢豚を作ってしまったことを、久江ママは知らない。恵理子が伝えていなかったのが幸いだった。
久江ママは史子の誕生日など、特別な日によく作ってくれた。
今も好物は酢豚だが作れない。久江ママに酢豚を作れない。どうしたって史子のことを思い出してしまうだろうから、悲しい思いをさせてしまうだけだ。
家では絶対に酢豚を作らないようにしている。好物ではあるけれど、エビフライも同じくらい好きだからそっちをよくタルタルソースと一緒に作っている。ピクルスと玉ねぎをみじん切りにしてマヨネーズで和えたソースは家族に評判だ。お兄ちゃんもたまに帰ってくると、食べたがる。
お兄ちゃん。そうだ、お兄ちゃんに連絡してみよう。担々麺を上手く作れるようになるまで、家に泊めてもらうのだ。恵理子には適当に理由をつけよう。
「ね、澪」
彩夏が私を見てくる。
「ん?」
「え、ちょっと今の話聞いてなかった?」
まずい。暗くならないように。
「ごめん。考えごとしていた」
「今日は英語の授業でもボーっとしていたし、いつになく上の空だね」
優菜が顔を覗き込む。
「ああ、ご飯のこと考えだしたら止まらなくなっちゃって」
「ご飯?」
「エビフライはタルタルソースをかけるのがおいしい、とか。今野菜が高騰中とか」
今度は優菜と彩夏が二人で顔を見合わせ笑った。
「なんか主婦みたいだね。いい奥さんになれるんじゃない?」
優菜が柔らかな声で言う。
「朝お弁当作ってくれるのはお母さんだけどね。まあ、夕方は主婦みたいなことしているよ。料理作ると手が味噌やねぎ臭くなることがあって、夜遅くまでとれなかったり」
「お願い。そんなに料理ができるなら、今度教えてよ。私も手の込んだの作れるようになりたい」
彩夏が手を合わせる。
「いいよ」
それからも他愛のない話をして、帰ることにした。澪としての高校生活は穏やかに進んでいく。でも、史子だった時についた傷も忘れられず、転生しても癒えることはない。時間はなにも解決しない。転生前に傷ついたことは、そのまま私の中にも残っている。それが苦しい。
家にじゃがいもと玉ねぎ、にんじんはあったはずだ。こんにゃくはあっただろうか。
今日のご飯は肉じゃがだ。家に帰ると五時半になっていた。
「ただいま」
「お帰り」
恵理子がドアをスライドさせ出てきた。玄関を上がったすぐ左隣がリビングだ。手を洗って一度二階で私服に着替え、リビングへ下りる。
私は料理を作るとき、砂糖は全部黒砂糖を使う。これは久江ママ直伝だ。でも恵理子は白砂糖を使うから、調味料を置いてある棚には黒砂糖と白砂糖の入れ物が隣り合わせで置かれている。
「今日は――」
肉じゃが、と言おうとしてテーブルの上の青い縞模様の器の中に肉じゃがが置かれていることに気づく。たっぷり三人分はあるだろうか。この器は見覚えがある。
「まさか、久江さんが作ってくれたの」
「あらよくわかったわね」
青い縞模様の器は、史子だった時によく見ていた。まだ壊れず使っているのだ。
この器で、煮物をよく食べていた。
「久江さん、いつも作ってもらってばかりじゃ悪いからって、わざわざ作って届けに
来てくれたのよ。たまには料理をしてみたくなったって、人数分作ってくださったの」
「偶然だね。今日は私も肉じゃがにする予定だったんだよ」
「テレパシーでも使ったの」
恵理子は冗談っぽく言う。転生しても、親子の絆はまだ繋がっているのだろうか。だって考えていたことが同じだ。そっと冷蔵庫を開けてこんにゃくがないか確かめる。
どこにもなかった。買わずに帰ってきてよかった。久江ママに救われた。
「温めて食べちゃいましょうか。ごはんは炊いてあるし、味噌汁も作ってあるから」
頷いて、棚から食器を取り出す。どうせなら久江ママもうちに呼んだらと思うが、やはりいくら隣人でも前世のママでも、近所同士の距離感というものも大事だ。恵理子が気を遣うと言って嫌がるだろう。久江ママも、多分遠慮する。本当はうちでみんなで楽しく食べたいのだが。
チンという音が鳴り、熱くなった肉じゃがの器を取り出す。ラップがべっとりと張り付いて、熱いまま剥がすのに苦労する。三等分にして、白米と味噌汁をよそい、恵理子と二人で食べる。父はまだ仕事から帰ってこないから、二人で先に食べるのが金沢家の習慣だ。
肉じゃがはそのまま、久江ママの味だった。黒砂糖のきいたほくほくのじゃがいもに、汁の染み込んだ玉ねぎ、にんじん、しいたけ。豚バラ。今日は筍と、こんにゃくの代わりにしらたきが入っていた。
「うん、落ち着く味ね」
味わって食べている。
「でもなんかすごく……」
「すごく?」
恵理子は口に入ったものを飲み込み言った。
「澪の作る味と似ている」
ぎくりとする。悟られてはいけない。知られてはいけない。なぜだかそう思う。
肉じゃがの基本形は久江ママ直伝だ。似ていないわけがないのだ。
「そうかな。黒砂糖使っているからじゃない?」
なるべく冷静に、落ち着いて言った。
「黒砂糖使っているってなんでわかるのよ」
「食べればわかるよ。黒砂糖と白砂糖の味だと全然違うもん」
これは本当だった。白砂糖の味は若干であるがコクがない。
「本当に、将来料理研究家にでもなったほうがいいんじゃない?」
恵理子は大真面目にそんなことを言う。多分小学生の時に誰からも教えられていないのにレシピを見ずにカレーや酢豚を作ったことが恵理子の中で大きく響いているのだろう。
味覚が発達しているのだと壮大な勘違いをされている。
「はは。なる気はないよ」
「じゃあ将来、なにになりたいの」
「進学はしたいけど、まだ何も考えてない。とりあえずホワイト企業で働くことを目ざす」
ホワイトな企業なんてあるのだろうか。わからないけれど、毎日残業に追われて終電で帰るような人生は嫌だ。でも、今度こそそこまで生きられるだろうか。長く生きることができるだろうか。
二十歳になるのが怖い部分もある。車やトラック。信号。年齢。澪になってから怖いものがたくさんできた。二十歳になってまた死ぬのだけは避けたい。
「まあ、勉強頑張りなさいよ」
「はあい」
後片付けをして、固定電話から久江ママに電話をかける。
「もしもし」
「あ、澪ちゃん?」
史子と呼んでほしくなる時がある。私は澪なのか史子なのか、時々わからなくなる。
「こんばんは。肉じゃが美味しかった。ありがとう」
「あんなのでよかったかしら。久しぶりに作ったから感覚がわからなくなっちゃって」
「美味しかった。お母さんも落ち着く味だって言っていたよ」
「そう。ならよかった」
「久江さんもちゃんと食べた」
「ええ。ちゃんと食べたわ。少し残してしまったけれど」
やっぱり、食が細くなっているのだろうか。
「昨日の餃子は全部食べた?」
「一気に食べるには私には多くて。ごめんね。でも朝、食べたわ」
あの量なら、四十代の久江ママなら全部食べられたのに。
「それなら安心。本当にありがとう」
電話を切って、お風呂に入る。お風呂の中でいろいろと考える。
お兄ちゃんはまだ夏休みだ。大学は二か月以上休みがある。住んでいるところはこの実家から一時間。そして、お兄ちゃんの家から私の通う学校へ行く時間は片道約一時間半。
少し遠いが、担々麺のために我慢しよう。
お風呂から上がると、早々にパジャマに着替えて濡れた髪のままスマホから電話をかける。金沢圭一。それがお兄ちゃんの名前だ。コール音が四回鳴ったあとで低い声が聞こえた。
「もしもし。澪か」
「うん、久しぶり」
「盆休みの時にそっちに帰ったから約一か月ぶりだな。久しぶりでもなくね」
「そうかな。一か月も会わなければ久しぶりじゃない?」
「そうか? で、どうした」
「ちょっとしばらくそっちに泊めてくれない」
数秒の沈黙があった。
「なんで」
「料理の試作をしたいんだけど一度失敗して毎日作るって言ったらお母さん怒ったから」
「しばらくっていつからどれくらい」
十月二十一日に間に合わせたい。史子の命日に食べてくれるだろうかという疑問はあるけれど、それが約束の日だったから。約束を今度こそ果たしたい。
「なるべく早い時期から、料理がおいしく作れるようになるまで」
「親には俺んとこ泊まるって言った?」
「まだ言っていない。あ、料理を作ることも黙っていてほしいんだけど」
気持ちがそわそわして部屋中をうろつき、ベッドの上に腰を掛けた。
「えー、どうするかな。俺もバイトあるし。ちなみになに作るの」
「担々麺」
「担々麺?」
素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「外で食べればいいじゃん」
恵理子と同じことを言った。ここにも親子の絆がある。
「手作りしてみたくてさ。泊めてくれるならお兄ちゃんが望むことをなんでもするよ」
「そういう言い方するのはやめろ。親にはなんて言うんだ」
「勉強教えてもらうってことにするかな。でも本当に勉強教えてもらうことになるかも」
ため息が聞こえてきた。
「お前なぁ……まあいいや。俺も担々麺好きだし」
「やった。じゃあ泊まる日が決まったら、LINE送るね」
「そうしてくれ。あ、俺んち、どんぶりがひとつしかない。布団はある」
「じゃあどんぶり、買っておいて。安いのでいいから」
「わかったよ。今使っているどんぶり、割れたときのためにも買っておくか」
お兄ちゃんは電話を切った。優しいけれど、厳しいところもある。
勉強を教えてもらうことは度々あったけれど、割とスパルタ。妹にそれほど甘くない。
まぁ、約束をした。あとはタイミングを見計らって、親にお泊りを許してもらうだけだ。
中間テストの勉強をするためにお兄ちゃんの家に泊まると言ったら、あっさりと許可がおりた。
土曜日。お兄ちゃんのバイトがない日だというので、制服と私服、革靴、下着、ジャージ、パジャマ、歯磨きセット、教科書やノートをキャリーバッグに詰める。
お年玉も両親と久江ママからもらって貯めていたものを財布に入れた。久江ママには悪いと思いつつも断り切れない。
「いつ帰ってくるの」
恵理子が部屋に来てそう訊ねる。
「わからない。勉強の目処がつくまで」
「とか言って、本当は担々麺作るのが目的でしょう」
見透かされていた。違うよ、とも言えずに黙っている。
「親の目を誤魔化そうったってそうはいかないんだからね。あまり作りすぎないようにしなさいよ」
「……でも勉強を教えてもらうのも本当だから」
「まあ、これ以上はうるさくは言わないけど、毎日食べるのだけはやめなさいね」
「うん。じゃあ行ってきます。あ、久江さんのこともよろしく」
「わかったわ。ちゃんと見ておく」
久江ママにはしばらくお兄ちゃんのところに止まるからご飯は作れないと言ってある。
構わないよ、と笑っていたが、恵理子が作るかもしれない。
右肩に学校で使っているサブバッグをかけて、家を出た。
「行っていらっしゃい」
その言葉を聞いた瞬間、激しく心を揺さぶられた。
行っていらっしゃい。史子が担々麺を作ると言ってスーパーへ向かった日、久江ママもそう言った。私はただいまを言えずに死んだ。
いつまでも帰ってこない娘を、久江ママは待ち続けていただろう。史子が死んだ後の久江ママや博パパのことを考えると、胸がざわつく。当たり前に行ってきますとただいまを言えることが、どれだけ幸せなことか身にしみてわかる。帰ったらちゃんと恵理子にただいまと言おう。
一時間かけてお兄ちゃんの住んでいる最寄り駅につく。キャリーバッグをガラガラと音を立てて引きずりながらスマホで場所を確認して、借りているアパートへとたどり着く。
十五分くらいは歩いただろうか。途中に大型スーパーが見えた。三階建ての白い外壁のアパート。初めて来た。私も一人暮らしをすることが未来にあるのだろうかと期待を膨らませながら階段を登り203号室のインターホンを鳴らす。
すぐにドアが開きお兄ちゃんが出てきた。
「よう、澪。いらっしゃい」
「私だってわかって、鍵開けた?」
「モニターで確認できるから」
なるほど。モニター式インターホンなんて贅沢だ。
上がらせてもらうと、すぐに二人掛けのテーブルが見える。
その先に、六畳ほどのフローリングの部屋が横並びで二部屋あった。右側のほうにはベッドがあり、部屋は綺麗に片付いていている。お兄ちゃんはどちらかというと恵理子に似て綺麗好きだ。
右側の部屋にベッドと勉強机が一つ。テレビはない。
「こんなに広い部屋使ってんの? 家賃いくら」
「部屋が広いのがよくてこのアパートにしたんだ。マンションだと高いし、駅から遠いから家賃も相場より安いんだよ、ここ」
「ふうん」
早速荷物を隅に置き、テーブルの椅子に腰を掛ける。お兄ちゃんが電気ポットのお湯でお茶を淹れてくれた。年齢は三歳離れている。喧嘩らしい喧嘩はしたことがない。
お兄ちゃんは正面に座る。
「それで、担々麺を作るんだよな? どんぶりは買っておいたよ」
「ありがとう」
「もう作れるようになったのか」
「スープだけ。でも薄かった」
「なら一度通しで作ってみろよ。それ晩飯にしようぜ。まずくても食ってやるから」
時刻は三時過ぎだ。
「わかった。じゃあ、買い出しに行くよ」
「一緒に行くか」
「大丈夫。来るときスーパー見たから。あ、エコバッグある?」
言うと電気ポットのある隣の引き出しから、畳んである布製のバッグを取り出す。
「これでいいか」
広げてみるとたくさん入りそうだ。その前に冷蔵庫を確認する。
「なに」
お菓子と卵と牛乳、シリアルしか入っていない。あとは醤油とソース、マヨネーズ。
「お兄ちゃん自炊している?」
「たまにしかしてない」
「明日の朝食と昼ご飯の材料も買ってくる。じゃあ行ってきます」
スーパーに着いた。
かなり広い。慣れないから調味料を探すのに苦労した。オイスターソース、ラー油、ごま油、豆板醤、鶏ガラ、練りごまペースト。豚ひき肉。甜麺醤(テンメンジャン)。これが担々麺を作る基本の材料。
あとはチンゲン菜を買う。砂糖はどうしよう。多分お兄ちゃんの家にもあると思うけれど、入れたほうがいいのか入れないほうがいいのか。麺はどれがいいのだろう。一応家でラーメンを作るときによく使っている、幡川製麺の、醤油ラーメンの生麺をかごに入れる。計量スプーンもかごに入れる。どうせお兄ちゃんは持っていないだろう。
明日の朝食は目玉焼きとサラダ、お昼は焼きそばにしよう。
今年貰ったお年玉で、材料をすべて買う。袋に詰めて帰るころには、五時近くになっていた。広すぎて、必要なものを探すのに時間がかかってしまった。
二か月前はこの時間でも明るかったのに、空は大分暗くなっている。
「遅かったな」
インターホンを鳴らすとお兄ちゃんが出てきた。
「あのスーパー広すぎ」
不満を口にすると、お兄ちゃんは笑った。
「あはは。スーパーで迷子にでもなったか。俺も最初は迷った」
誰でも初めは迷うスーパーらしい。その代わり、見たこともないような調味料や果物、野菜が売られていた。
「じゃあ、キッチン借りるね」
「おう」
スマホを取り出すと、家で坦々スープを作ったときに参考にしたレシピサイトを見る。
よく見ると山椒、と書いてある。買い忘れたが、どのタイミングで使えばいいのかわからない。味が締まりそうだが。ないのは仕方がない。今ある材料で作ってみよう。
「砂糖あるよね」
「あるよ。キッチンの棚の中」
砂糖ありとなし。両方作ってどっちがおいしいか食べ比べてみよう。担々麺に使う砂糖は白砂糖のほうがいい、と直感が告げる。棚から砂糖を取り出す。食器もいろいろと入っていた。
まずは肉味噌から。フライパンにごま油を敷きひき肉を炒め、焦げ目がついたら甜麺醤を大さじ1で混ぜ合わせる。肉が黒く染まった。
焦がさないように気を付けながら火を止め、鍋からお皿に移し替える。それからチンゲン菜を茹でる。茹であがると、ザルにあげて自然に冷ます。
次は担々麺の命、スープだ。鶏がらと醤油、豆板醤を多めに入れて、混ぜ合わせていく。ラー油を大さじ2入れ、煮立ってきたところで白練りごまペーストを投入。
味見。この前よりは味が濃くなった気がするが、やっぱり薄い。前と同じく練りごまの粒子の間からかき混ぜるとお湯が見える。練りごまが足りないのかもしれない。レシピには二人前で百二十グラムと書いてあるけれど、もっと多いほうがいい。
多めに買ってこなかったことが悔やまれる。
麺を茹で、途中で水を差す。こうすることにより麺が引き締まり美味しくなるのだと以前恵理子に教えてもらった。
何とか形にはなった。お兄ちゃんが買ってくれていたラーメン用のどんぶりに、スープと肉味噌、チンゲン菜を添える。
全てを終えたころには、午後六時半を過ぎていた。
「どうぞ」
テーブルに座って様子を見ていたお兄ちゃんの前に差し出す。
「ラーメン屋さんのようないい匂いはするんだけどな。味はどうかな」
私もお兄ちゃんのとは異なるどんぶりをテーブルに置き、二人で頂きますと言った。
麺をすする音が聞こえてくる。お兄ちゃんを見て反応を待った。
「うん、まずくはないしピリ辛だけど……薄いね」
私も食べる。やはり薄い。ただ、砂糖を入れたせいかまろやかで食べやすくはある。
「レシピ通りに作ると薄くなる。理想の味には程遠い」
「理想の味ってどんなの」
「私自身がおいしいと胸を張って言えるようなもの」
「じゃあレシピを無視して、舌で調整いけばいいんじゃない?」
「舌で?」
「そう。文字で書いてあるものと、自分の舌ならどちらが信じられる?」
少し考える。レシピは参考にとどめておいたほうがいいということか。
「まあ、舌だよね、自分で確かめられるし」
「そうそう。まずは自分の舌を信じないと。あとこれ、肉味噌が甘すぎるのと、麺が細すぎるな。本場中国の担々麺はストレート細麺の汁なし担々麺が発祥だけど、澪が作る担々麺ならもう少し太いほうがいい。食べやすいから」
担々麺が中国で最初は汁なしで売られていたのは知っている。日本では評判が悪かったから、日本人の口に合うように汁あり担々麺に改善され、広まったという。
「肉味噌、甜麺醤だけじゃ甘いかな」
肉味噌を食べて呟く。舌に甘味が絡みついている。
「うん、甘いから微妙に担々麺と溶け込まない」
「そうか。考えないと。麺はいつも使っているおなじみの幡川製麺だけど、どう?」
「なに味買った」
「醤油。なにか違うの」
うん、とお兄ちゃんは一人で頷きながら、麺をすする。
「もしかして知らない? しょうゆ、味噌、タンメンとか種類によって、麺の太さが違うんだ。醤油が細くてタンメンは太い」
「え、そうなの」
そこには全然気づかなかった。つまり史子も知らなかった。
「味噌くらいがちょうどいいんじゃないかな。あのスーパー、生麺のみも売っているけどちょっと担々麺には太すぎる」
太いほうがいいと言ったのに太すぎるのはだめなのか。
「じゃあ、明日は味噌ラーメンの麺で作ってみる」
「お前、担々麺食べたことどのくらいある」
少し考える。史子の時に一回、澪になってからは。
「そういえば一度も食べていないよ」
「それで作ろうっていうほうが無謀だろうが」
お兄ちゃんは軽くげんこつをした。深く反省する。担々麺の味が想像できていないし頭の中で固まっていないのだ。史子の時に一度食べた担々麺の味は、憶えていない。
「だから明日からは食いに行こう。中華店やラーメン屋、いくつか知っているから、プロの味を知ろうぜ」
「わあい、ゴチになります」
お前な、とお兄ちゃんは呆れたような顔をする。
「でも麺、毎日食っていたら太るぞ」
確かに。
「太らずに担々麺を食べる方法、なにかないかな」
「朝早く起きてジョギングでもするか」
「あ、もしもの時のためにジャージ持ってきている。靴もスニーカーで来ているし」
「じゃあ、朝は毎日ジョギングな。ご馳走様」
担々麺は綺麗に食べられ、スープも半分くらい飲まれていた。多分スープさえ薄味でなければ美味しく作れるのだ。あとは肉味噌。
確かに担々麺に添えるにしては甘さがきつくて、理想の味とは程遠かった。山椒をかけなかったせいだろうか。
レシピサイトは他にないだろうか。美味しく作れるヒントになるようなもの。
スマホからだと見づらい。お兄ちゃんにノートパソコンを借りようとして止められた。
「ほれ、勉強見てやるから苦手な教科出せ」
「ええっ」
「中間テスト近いんだろ。それに、勉強見てもらうのが目的でもあるんだろ」
「そうだけどさ」
片づけを終えると、私は渋々勉強を見てもらうことにした。頭と体が悲鳴をあげ目が回るまで教えてもらった。
朝、不快な曲で目が覚める。スマホから流れるアラームを止めた。午前五時。ちゃんと起きられるように、アラームはひどくイラつく音楽にしている。
見慣れない天井。寝ぼけた頭で、お兄ちゃんの借りているアパートに泊まっているのだと理解した。眠いけれど、太らずおいしい担々麺を作るためだ。我慢しよう。
起きあがると、ジャージに着替えて準備体操をする。そうするように昨晩お兄ちゃんから言われたのだ。部屋のドアを開けると、お兄ちゃんも黒いジャージ姿で立っていた。
「準備体操はしたか」
「うん」
「じゃあ行くか」
少しお腹がすいているが、我慢してお兄ちゃんについていく。
出たときからもうウォーミングアップの始まり。軽く走って体を温め、だんだん速度を上げていく。土地勘のない道を、必死にお兄ちゃんの後姿を見ながら追いかける。お兄ちゃんは多分、普段からジョギングをしているのだろう。
体も引き締まっているし細いし、なんなら腹筋も割れているかもしれない。すいすいと走っていく。比べて私は五分走っただけでゼイゼイと息を切らし始めた。後れをとる私にお兄ちゃんが走りながら戻ってきて、言った。
「大丈夫か」
「キツイ」
「じゃあ、速度を緩めるから。OK?」
「おーけー……」
息がとぎれとぎれだ。
「深く息を吸って吐きながら走るんだ」
「わかった……」
お兄ちゃんは走り始める。ジョギングは気持ちがいいものだろうと昨晩は思っていた。
草木を愛で、風を感じながら走る、と思っていたが、甘かった。普段の運動不足がここへきて祟っている。なにも目に入らず、息をすることに必死だ。
ひいひい言いながら、広い公園にたどり着き、そこで三周する。汗という汗が体中から流れてきて気持ち悪い。比べてお兄ちゃんは規則正しく、別段苦しくもなさそうに走り続ける。距離が随分と開いた。お兄ちゃんは立ち止まり、その場で体を動かしたまま私を待っている。
「へい、もう少し。もう帰るから」
「うん」
もう帰りたい。これをしばらく続けるのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。
結局一時間と少し走って、お兄ちゃんの家へ帰ると、その場で倒れこんだ。
心臓の音が耳元で聞こえる。
「水……」
「だらしないなぁ」
そう言いながらもお兄ちゃんは冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、コップに注いでくれた。なんとか起き上がり、一気に水を飲み干す。生き返る心地だった。
「シャワー浴びるか」
「うん。そうしたらご飯作るよ」
お風呂場を借りることにして、汗を流す。出るころには苦しさはすっかりなくなっていた。体型維持をするための努力は厳しく辛い。
早起きとジョギングの疲れでぼけた頭のまま、目玉焼きとサラダ、味噌汁を作る。
「お、こうして朝誰かに作ってもらえるのはいいねえ」
お兄ちゃんは二人分の並べられたお皿を見て言った。
「いつも何食べているの」
「目玉焼き作ることもあるけど大抵はシリアル」
「毎日作りなよ」
「面倒くさくって。お母さんを有難く思うよ」
まあ、確かにそうだ。恵理子は子供のころから朝早く起きて、私とお兄ちゃん、忠の朝食やお弁当を作ってくれた。お兄ちゃんが一人暮らしを始めてからは負担が減っただろうけれど、私と忠のお弁当は作ってくれるから、やはり有り難い。
「将来は奥さんに毎日ごはん作らせるつもりなのかな」
「う」
私は笑顔で圧をかける。奥さんに家政婦であるかのように家事を丸投げする男性は好きではないのだ。それはお兄ちゃんも知っている。だから私の将来の結婚相手は家事のできる人がいい。史子の時からそう思っている。それにお兄ちゃんにも家事丸投げの男性にはなってほしくない。無言でいると珍しく気弱な声を出す。
「いや、そんなことは……」
お兄ちゃんは顔の前で手を振り言った。
「わかった、わかった。これからは自炊してみるよ」
「じゃあ、明日の朝はお兄ちゃんが作ってみてね」
「え。お、おう……」
ジョギングでたっぷりお腹を空かせたあとの朝食はとても美味しく感じられた。
「それはそうと、今日の六時、待ち合わせな」
駅近くにあるラーメン浜海というところで待ち合わせだそうだ。来るときは見かけなかったけれど、どこにあるのだろう。あとでスマホで確認しよう。
午前九時を過ぎると、お兄ちゃんは五時までバイトだからと出て行ってしまった。
私はその間にも担々麺を作りたい欲求にかられながら、洗濯機を回す。九月中旬の晴れの日ならば、洗濯物も一日で乾く。宿題を片付け、昨日見てもらったところの勉強を復習する。
学業も大切だ。進学先は、史子が通っていた大学ではないところにする。思い出をなぞるような生き方はしたくない。澪としての人生を歩まなければならないからだ。まあ、史子ほどの頭のよさも今はなくなっている。
勉強を終えると、私は勝手に使っていいと言われたお兄ちゃんのノートパソコンをテーブルの上で開く。
担々麺 レシピ
調べるといろいろと出てくるが、写真を見てもどれもしっくりこない。
動画で作り方を見てしまったほうが早い。動画サイトにアクセスすると、いろいろな人が作り方を紹介していた。お酢を使う人もいる。初心者にお酢を使う勇気は今のところない。砂糖で甘くなってしまったのだから酢を使うと酸味が強くなりそうだ。
肉味噌の味付けに豆板醤大さじ半分、甜麺醤大さじ半分使っている人がいた。
おお、これなら甘くならずに済むかもしれない。どんな味になるのかわからないけれど参考になりそうだ。
メモを取る。他にも見てみる。白髪ねぎを使っている人がいた。おいしそうだ。これもレシピに加えてみよう。
お昼は焼きそばにしようと思ったけれど、お兄ちゃんがいないのなら軽いものでいい。
合鍵を預かっていたので昨日の巨大スーパーへ行ってみる。おにぎりをふたつかごに入れ、ゆっくりと見て回る。実にいろいろな調味料があった。担々麺に使えそうなものは何かないだろうか。
最初見たレシピには山椒が使われていた。スパイスの並ぶ棚を見てみる。すると山椒は売り切れており、花椒(ホアジャオ)というものが目に止まった。漢字からして、山椒の仲間だろうか。わからないが、なにか直感が冴え渡るのでとりあえず買ってみることにした。
坦々春雨も売っている。手に取り買おうかどうしようか悩んだが、夜に食べるしあまり食べすぎるのも体に良くないと思い、棚に戻す。
帰っておにぎりを食べると、お兄ちゃんのノートパソコンから早速「花椒」について調べる。
中国原産のスパイス。ミカン科サンショウ属の植物。
もしかしなくても坦々麺に使えそうだ。それに使用する野菜は大分固まってきた。
五時過ぎまで中間テストの勉強をしたりだらだらしたりしながら過ごしていると、半を過ぎてお兄ちゃんからLINEが入った。
『バイト終わったから今から浜海へ行く』
干した洗濯物を取り込み、慌てて準備をして外に出る。
秋の夕方はやはり夏ほど明るくない。太陽が遠く西側に隠れていきそうになるのを見つめながら駅前へ行く。浜海はどこだろう。駅前を探してもない。
スマホの地図アプリで調べてみると、駅の裏側の、さらに入り組んだ路地の一角にあって十分ほど迷った。
地図アプリがなければ絶対に分からないところだ。ラーメンのいい香りがしている。
お兄ちゃんを待っていると、六時ぴったりにやってきた。
「場所、すぐにわかったか」
「少し迷った」
「だろうな」
「迷うってわかってわざと教えてくれなかったんでしょ」
「自分で見つけることこそ意義があるというものだ」
「なにわけのわからないこと言ってんの」
私はお兄ちゃんの背中を叩く。場所を詳しく教えてくれなかったのはお兄ちゃんのいたずらだ。たまにこういうことをする。
しかしこういう一コマだって、思い出になる。澪として思い出を宝物のように積み重ねていこう。
「入るぞ」
自動ドアをくぐると、「いらっしゃいませ」と威勢の良い声が聞こえた。店内は照明が明るく、二十席ほどはある。会社帰りと思われるスーツ姿のサラリーマンがたくさんいた。案内されて隅のほうの二人掛けテーブルに腰を掛けると、早速担々麺を注文した。
「うちの坦々は辛いですよ」
お店の人が言うのでお兄ちゃんを見やる。
「実はここで担々麺食べたことはないんだ」
「マジで? それでプロの味を知れとか言ったの」
驚いて思わず高い声を出してしまった。
「何事も挑戦、挑戦」
お兄ちゃんは肩をすくめる。どのくらい辛いのだろう。確かに挑戦しないことには始まらない。
「辛くても構いません。試してみます」
言って、担々麺をふたつ注文する。店員は、水を置いて去っていった。
「今日は一日どうしていた」
「洗濯物洗わせてもらったよ」
「それは助かる。明日は学校だろ? うちから通うのか」
「そのつもり。ちょっと遠いけど我慢」
「明日も朝早く起きてジョギングだからな」
お兄ちゃんの厳しい声が飛ぶ。
「ご勘弁を」
「駄目だ。一日置いたら、また違うとこに食べに行くぞ」
「どうして」
「色々食べ比べしてお前の理想の味を見つけるんだよ」
そんなことまで考えていてくれたのか。内心で感謝をしていると、担々麺が運ばれてきた。真っ赤なスープに鷹の爪が大量に入っている。肉味噌は大盛り。もやしも赤く染まっている。
見るからに辛そうだ。でも食べてみないことには味の評価はできない。
「じゃあ、食べようか」
お兄ちゃんが言った。
「頂きます」
箸をケースから取り出し、かき混ぜて一口すする。口の中が火でも吹きそうなほど一気に熱くなった。辛さを感じたのはそのあとだ。脳天を貫きそうなほどの激辛。
汗が噴き出てくる。
「辛い……」
涙が出そうになるが、それでもまずいとは思わなかった。二口目をすする。辛さのパレードが体中を駆け巡り、むせてしまった。慌てて水を飲む。お兄ちゃんは無言で食べているが、やはり辛いのか額に汗をにじませていた。
三口目をすすったところで、胃にずーんとした重さを感じる。とても辛い。いや、痛い。汗も涙ももう止まらない。それでも食べてしまう。辛さというものには一種の中毒性があるのかもしれない。辛さを求めて結局食べ終えてしまった。
頭が痛む。お兄ちゃんのスパルタとは異なる形で、体が悲鳴をあげている。
「唇が真っ赤だぞ」
そう言うお兄ちゃんも泣いてはいないものの唇が真っ赤だ。
「お兄ちゃんこそ唇、たらこみたいだよ」
「辛すぎだろここ」
唇も舌もじんじんとする。二人で水を飲み、落ち着くまで座っていた。
「どうだった。担々麺は」
「辛すぎて味の研究のしようがなかった」
「そうだよな。ごめんごめん、まさかこんなに辛いとは思わなかったから」
久江ママに食べさせるときは、鷹の爪を入れるのはやめよう。あまり辛くしすぎず、胃に負担をかけないようにしよう。
「お兄ちゃんは時々ここに来るんでしょ。何食べているの」
「俺はチャーシュー麺よく食べる」
お兄ちゃんの額から汗が流れ続けている。
私はお水を何杯もお代わりする。水を飲んでいる間、お兄ちゃんはスマホを見ていた。
「明日の夜は普通のおかずにして、明後日はここに行ってみようか」
ここから一駅先のラーメン屋「華」。
「ここにもよく行くの」
「ああ、まあな。バイトがあるから駅で待ち合わせな」
私は頷き、二人でスーパーに寄り帰ることにした。
お風呂に入り、勉強を見てもらう。史子とは異なり数学が大の苦手である私は、お兄ちゃんに何度も同じ問題を解かされる羽目になった。
「よし、正解」
高校生の問題を忘れていないということは、お兄ちゃんはかなり頭がいいのだと思う。
それなりに名のある大学に通っているし。そういえば、お兄ちゃんの年齢は史子が死んだときの年齢だ。大学二年。史子は中学高校が悲惨だった分大学生活をエンジョイしていたけれど、それも頓挫してしまった。
「お兄ちゃん、大学生活は楽しい」
「まあ、それなりにな」
「友達いるの」
「いるに決まっているだろ」
「彼女は」
「いたら澪とこうしていないよ」
天文サークルに入っているらしい。ただ、専門的な活動はほとんどせず、飲み会ばかりしているのだとか。
「ほら、あと三問やるぞ。テストに出そうなところ」
私は疲れを我慢して、数学に向き合うことにした。
朝、四時に不快な曲が流れてくる。
四時起きはさすがにキツイ。昨日の担々麺が辛すぎて、胃にダメージが来ている。少しもたれている。でも我慢できる程度だ。
今日は学校もある。ジャージに着替えて準備運動をすると、お兄ちゃんがすでに待っていた。一人暮らしでだらしのない生活を送っていると思っていたけれど、それなりに健康的な生活を送っているのかもしれない。
家を出ると、また昨日のコースを走る。
体力が全然ないから、五分走っただけゼイゼイとで息を切らせながらお兄ちゃんの後を走る。お兄ちゃんの背中がどんどん遠くなっていく。そのたびにお兄ちゃんは走って戻ってくる。
「少し歩いてもいいぞ」
私の異常なまでの息切れを見て、そう言った。運動能力があまりないのだ。リレーでも抜かされるし、持久走はビリから二番目。学校生活の中で最も苦手なものが、持久走だった。なんであんなに苦しいことをしなければならないのだろう。
「そうする」
呼吸を整え十分ほど歩く。お兄ちゃんは私に合わせて歩いていたが、また走り出した。
それにつられて私も走る。全ては担々麺のため。走ったり歩いたりを繰り返しながら、公園を三周して家に戻った。
歩いたせいか、今日は倒れこむことはなかったが、玄関先で座る。
「ほい、水」
昨日と同じように渡された水を一気に飲み干すと、シャワーを浴びた。
脱衣所で着替え、出るとすでにお兄ちゃんが朝食を作って待っていた。
鮭と、キャベツを千切りしたものにトマト、味噌汁。
昨日言ったことをちゃんと覚えていたのだ。
「いい香り」
「だろう。俺だってやればできるさ」
二人でテーブルに向き合い、頂きますを言う。お兄ちゃんの味噌汁はどこか凛とした厳しさがあり、だけどその奥にはとても優しい味がした。
眠い。
学校へ行くと、先に来ていた彩夏と優菜が私のもとへやってきた。挨拶を交わす。
「ねえ、澪。かぼちゃの煮つけってどうすれば美味しくできる?」
彩夏が難しそうな顔をしている。
「なに、どうしたの」
「この土日に、料理に挑戦してみたんだけど、かぼちゃの煮つけ、失敗しちゃって。崩れてドロドロになった。他のが上手くできただけに悔しくて」
土曜は中華丼、日曜は焼き魚に、けんちん汁、かぼちゃの煮つけを作ったらしい。以前もかぼちゃの煮つけを作ったことがあるそうで、その時も失敗したそうだ。どうしてもうまく作れないらしい。
「かぼちゃを一口大に切ったら、調味料を合わせた水をかぼちゃが隠れる程度にひたひたに入れて、蓋をして煮込んで、水分がなくなったら五分くらい蒸らすとうまくできると思う。蓋はとらないほうがいいよ」
彩夏は真剣にメモを取る。
「なるほど、水分の量が多かったのかな。あとは五分蒸らす、か。ありがとう、これで今度作ってみるよ」
「うまくできるといいね」
「うん」
「二人で料理の話している。話題についていけない。私もなにか作ろうかな」
優菜がゆったりとした口調で言った。
「でも彩夏、なんでまた急に料理を?」
私は訊ねる。この前も料理を作りたいと言っていたっけ。
「自分で一通り作れるようになりたいんだ。もう高校生だし」
「高校卒業して料理がなにも作れない人間になっていたら嫌だよねえ。笑われそう」
優菜が言う。
「そうそう、それなんだよ。お母さんにも似たようなこと言われて」
彩夏は優菜を指さし笑う。そうして私を見る。
「澪は何でも作れるからすごいよね、うらやましい」
いろいろ作れるのは史子の時の記憶があるからだ。多分記憶がなかったら私も十七にして大したものは作れなかっただろう。
「なんでもは作れないよ」
「えーっ、なにが作れないの」
「担々麺。今研究中で」
「担々麺?」
恵理子やお兄ちゃんと同じようなリアクションが二人から返ってくる。
「担々麺か。食べたことないや」
彩夏が頭を掻く。
「私もないな。また随分変わったものを作るね」
「まあ、食べたくて」
適当にごまかした。しかし担々麺って人気がないのだろうか。
いや、世界は広い。大好物だという人もいるはずだ。久江ママのように。通の人だっているだろう。
「それより中間試験、来月だよ。勉強している?」
私は話題を変えた。
「まだ来月じゃん。勉強なんかしてないよ」
「ええっ、私お兄ちゃんにしごかれているんだけど」
彩夏は大笑いした。
「私なんか一夜漬けだよ。テスト勉強なんてそれでいいって」
「私は推薦狙っているから、毎日そこそこ勉強している」
優菜はいつも成績がいい。
「しごかれているの、私だけ?」
三人で笑った。まあテスト勉強を見てもらうという建前で担々麺を作りに行っているのだから、お兄ちゃんはそれを守っているだけかもしれない。私は勉強をしたくなくても、居候して担々麺を作っている身だからそれに従うしかないのだ。勉強を見てくれるお兄ちゃんにも感謝しないと。
朝のホームルームが始まる。
恵理子や久江ママは今頃どうしているだろう。久江ママ、大丈夫かな。またスーパーのお弁当でなければいいけど。
ホームルームが終わって一時限目の国語の教師が入ってくる前までに、LINEで恵理子に連絡を入れた。教師のいる前でスマホをいじっていると怒られるのだ。
『久江さんどう?』
すぐに既読マークがつき、返信が来る。
『おかず、お母さんが作って持って行っているから大丈夫。それに久江さん元気よ』
なら安心だ。スマホを鞄に戻そうとして、通知音が鳴った。
『ちゃんと、勉強しているのでしょうね』
後で返信しよう。スマホを鞄に入れる。
悪い点数を取ると恵理子はうるさい。史子くらい勉強ができたらよかったのに、それが受け継がれていないのが残念すぎる。
別段嫌なこともなく今日一日の学校生活を終えた。彩夏や優菜との会話も楽しいし、傷ついたり落ち込んだりしない日は心穏やかでいられる。
いつもはどこかへ寄って帰ろうという彩夏はかぼちゃの煮つけのリベンジに燃え、早々に帰っていった。優菜とも別れ、私もお兄ちゃんのアパートの最寄り駅につくと、スーパーへ寄った。
今日のご飯はなにがいいだろう。いろいろ考えるがいい献立が思いつかず、刺身の盛り合わせが目についた。これに味噌汁を作ってさっぱり食べよう。
帰って着替えると白米を炊き、ねぎと豆腐の味噌汁を作って、お皿に刺身を並べる。
一日は早い。昨日の今頃は担々麺を食べに店に向かっていたのに。
六時過ぎに、お兄ちゃんは帰ってきた。コーヒーチェーン店と、牛丼屋の掛け持ちをしているそうだ。バイト代から学費と家賃を少しずつ出しているらしい。
「お、刺身か。うまそうだな」
「今日はちょっと手抜きさせてもらった」
朝四時起きでジョギング、今日は授業で体育もあったし肉体的に疲れている。まあこれでダイエットになるならばそれでいい。
二人で食べる。激辛担々麺による胃のもたれはなくなっており、刺身は食べやすく、すぐに胃に入った。味噌汁も温まる。
「そういや昼間、母さんから電話があったぞ」
「なんて」
「LINE既読スルーされたって怒っていた」
「あ、やばっ」
後で返信しようと思ってすっかり忘れていた。慌てて鞄からスマホを取り出すも、いまさら何を書けばいいのかもわからず、結局何も送らないことにした。
「お母さんはほかに何か言っていた?」
「勉強はちゃんとしているのかって」
「してるじゃん」
「うん、だからちゃんと勉強見ているって言っておいたぞ。中間テスト、いい点取れよ」
「うぅ……」
中間テストが終われば、もう、一週間後には十月二十一日がやってくる。テスト勉強が忙しくて、担々麺がおいしく作れなかったら嫌だ。そうならないようにしなくちゃ。
「明日の華っていうラーメン屋は美味しいの」
「結構美味い。っていうか美味いところしか紹介してないよ」
「昨日は美味いを通り越して辛かったじゃない」
「あんなに辛いとは俺も思っていなかったんだよ。でもたぶん、ああいうのが好きな人もいるんだよ」
それには納得する。そうしてふと、いつかテレビで見た辛いものが好きな芸能人が、辛いものを提供する料理店で激辛料理を食べ泣いているのを見たことがあるのを思い出す。
「辛いものが好きな人って担々麺も食べるのかな。逆に担々麺好きはどうなんだろ」
「辛いもの好きが担々麺を食べることもあるだろうし、担々麺好きは担々麺が好きなんだと思うよ」
深く考えずともわかる答えが返ってきた。ラーメン好きや辛いもの好きに通(つう)はいるけれど、担々麺の通がいるのかどうか、わからない。担々麺、通 で検索すると担々麺の通販が出てくるだけだ。久江ママは通ではなかったと思う。いや、通だったのかな。
多分史子の知らないところでもいろいろと食べていたのだろう。今は担々麺を食べているのだろうか。久江ママとの会話でその話が出てきたことは一度もない。
「さ、今日も風呂に入ったら勉強な。お前英語も苦手だろ」
「はい」
食べ終えると後片付けをして、お風呂に入った。今日もまたスパルタが始まる。
翌日は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。外はまだほんのり暗い。
キッチンに行って水を飲むと、ジャージに着替える。お兄ちゃんは私よりも十分ほど遅れて起きてきた。
ジョギングは三日目でまだ全然慣れない。五分後にゼイゼイ言い、十分後にはヒューヒュー言っている。走れば九月の暑さも堪える。お兄ちゃんは飄々とした顔で走っている。
歩いていいと言われたので、少し歩く。
「どうして、お兄ちゃんは、大丈夫なの」
息も絶え絶えでそう訊ねた。
「俺、一人暮らしを始めて太ったんだよ。だから一年前からジョギングしてる」
「道理で慣れていると思った」
「ほい、走るぞ」
お兄ちゃんは走り始めた。私はまた背中を追いかける。一時間かけて歩いたり走ったりして、家に戻ると、汗を流してお兄ちゃんが作った料理を食べ、学校へ行く。
朝のジョギングはまるで苦行だ。疲れて電車の中で眠り、学校の最寄り駅について慌てて起きる。
教室につくと、先に来ていた子たちがお喋りをしていた。挨拶を交わす。学校でそれほど親しくないクラスメイトと挨拶ができるのは素直に嬉しかった。史子の時は挨拶代わりにものを投げつけられたりしたから。
クラスメイトは史子のなにがそんなに気に入らなかったのだろう。私は今、追体験をしているのだろうか。今が平和であることによって、傷は消えていないけれど、いじめられていた学校生活のトラウマも克服できているのではないか。
そう考えると、前世の記憶があり隣の家に転生してきたのは、やはり神のいたずらではないかと思えてくる。いや、いたずらというよりは計らいかもしれない。
「おはよう」
彩夏が優菜と一緒にやってきた。昇降口で会ったらしい。
「澪、昨日かぼちゃの煮つけ、言われたとおりにやったらうまくできたよ」
澪はピースサインを作る。
「リベンジ成功したんだね。よかった」
「うん。成功すると嬉しいものだね。ありがと」
心底嬉しそうに笑っている。これはよほど上手く作れたのだろう。
「私も作ってみようかな」
優菜が隣で言った。
「作ってみなよ。優菜はなにが作れるの」
彩夏が訊ねる。
「カレーとシチューと、目玉焼きでしょ。あとは野菜炒めくらい」
「レシピが広がっていくと楽しいよ」
「うん。今度私もかぼちゃの煮つけ作ってみるよ」
明日の夜はシチューにしよう。明後日はその残りで朝、パンと一緒に食べられる。
「ね、今日うち空いているからさ、澪に何か料理教えてほしい」
きらきら光る彩夏の純粋な目に罪悪感を覚えながら私は手を合わせる。
「ごめん、今日は約束があるから」
「約束? もしかして彼氏でもできた」
彩夏は興味深そうに私を見つめる。
「違う違う、お兄ちゃんと約束。勉強見てもらうのと、夜ご飯食べに行く」
「えー、食べに行くのいいなぁ。しばらく外食してないや」
「この前しごかれているって言ってたけど、澪のお兄ちゃんって一人暮らしじゃなかった」
優菜が訊ねる。
「うん、今お兄ちゃんのところから通っているの」
二人はなんで? と訪ねてくる。
「前に言った担々麺、研究しているんだよ。実家だとお母さんがうるさいから」
チャイムが鳴って担任が入ってきたので深く追求をされずに済んだ。
「今日いきなり料理教えてなんて言ったりしてごめんね」
彩夏は言って、自分の席へと戻る。
午前中の授業はほぼ寝ていた。朝のジョギングが響いている。他にも寝ている子がおり、教師も穏やかな人ばかりだったので怒られずに済んだ。
昼休みは購買のパンで済ませる。お弁当を作っている時間がない。
午後の授業を終え、ホームルームも終わり、二人と途中まで一緒に帰ると彩夏はレシピ本を買うと言って優菜と本屋に行ってしまった。
私はシチューの材料を買ってお兄ちゃんの家で一息つく。五時半になると、待ち合わせ場所に向かった。
一駅先の駅は、栄えていた。駅ビルやショッピングモールがある。見て回りたいのを我慢して、改札口を抜けて待っていると、六時過ぎにお兄ちゃんが姿を現した。
「今日もお疲れ」
私が言うと、おう、と答える。
すたすたと歩きだすので、私は黙って隣を歩いた。
華は駅前ロータリーを出て、角を一つ曲がったところにあった。カウンター席が十ほどしかない狭い店だ。席がすべて埋まっていたので、並んで待つことにした。
今日もラーメンのいい香りがして、お腹が空いてきた。
「俺は今日、チャーシュー麺にするわ」
「担々麺、食べないの」
「さすがにぶっ続けで食うのはな」
「そっか」
私は担々麺が食べたい。もちろん自分が作るためでもあるし、おとといは激辛で味の研究どころじゃなかったけれど、ものすごく興味が湧いてきた。というより、久江ママみたいに食べ比べをしたいと思っている。久江ママの遺伝子はもうないはずだけれど、担々麺愛みたいなものがここへきて爆発している。美味しい担々麺を作りたい。理想の担々麺を食べたい。その一心だ。
二人のサラリーマンが店から出てきた。
「二名様どうぞ」
しばらくして、額にタオルを巻いた店主らしき人が出てきて中に案内する。
丸い椅子に、並んで腰を掛けた。店には紙で作られたメニューが貼られている。
「チャーシュー麺と、担々麺」
「はいよ」
なにか曲がかかっているが、店内は静かだ。おひとりさまが多いのだろう。周囲からは、麺をすする音だけが聞こえてくる。
今日はどんな担々麺に出会えるのだろう。そう考えるとワクワクしてきた。
十分ほど待つと、「チャーシュー麺、担々麺お待ち」と声が聞こえる。
カウンターからラーメンどんぶりを渡された。受け取ると、赤いスープを覆うように黄色いものが入っている。卵だ。そういえば、ふわとろの黄色い卵が入っている担々麺を久江ママが食べていたのを見たことがある。
「頂きます」
かき混ぜ、一口すする。程よい辛さと卵のとろみがするすると胃に入っていく。
喉の奥にも辛さが行き渡り、染みる。
「どうだ」
お兄ちゃんが訊ねてきた。
「うん、これいけるよ。そんなに辛くないし」
二口目、三口目と味わい、一気に食べ終えてしまった。けれどスープは残した。
美味しかったけれど、なにか違う。私が求めているのはこれじゃない。直感がそう告げる。じゃあどういうものを求めている? 自問してみてもわからない。
「あれ、口に合わなかったか」
スープを結構残してしまったせいか、お兄ちゃんはそう訊ねた。
「そんなことはないよ」
辛さはちょうどよかった。ただ、卵なしで勝負したい。強くそう思った。けれど店主がいるのではっきりとは口に出さない。
それは、史子が食べたときに卵が入っていなかったからだ。史子が一度だけ食べたあの担々麺が、理想になっているのかもしれない。味を憶えていなくても、上品な味付けだった、という印象だけは残っている。
そしてその担々麺に近いのは、レシピサイトで見た、赤さと白さが程よいバランスで混ざったスープ。それこそが、私の求めているものではないか?
なんとなくそんな気がしてきた。レシピを見て失敗したからこうして食べに来ているのだけれど、私の求めるものが、久江ママの好きなものかどうかはわからない。ママは担々麺ならなんでも食べていたから、こだわりはないと思う。
むしろこだわっているのは私のほうか。
「お兄ちゃんも、チャーシュー麺どうよ」
「うん、かなり美味い。チャーシュー一枚いるか」
「もらう」
私はチャーシューを卵入り担々麺につけて食べた。肉に坦々の辛みがちょっとついて、食べごたえは十分だった。
会計をして店を出る。
ラーメン屋では、ずっと、お兄ちゃんのおごりだ。申し訳ないと思いつつも、夕飯と担々麺の材料費で私の財政状況も少し厳しくなっている。
「ごちそうさまでした」
「おう。まあ妹に奢るのも悪くはないな」
暗くなった夜道を、二人で帰る。
「頭の中で、味は掴めて来たか」
「まだかな。まだ想像が固まらない」
「そっか。まだか。まあまだ二回しか食べていないしな」
家につき、鍵を差して回す音が辺りに響く。中に入ると、早速お兄ちゃんはスマホを見せてきた。
「なら次はここだな」
スマホを借りてテーブルの椅子に座り見てみる。中華ダイニング「桂蘭」。お兄ちゃんの家から方角が全く異なる。ここからだと、電車で三十分程度はかかる。ホテルの中にあるらしい。
「ホテル? ドレスコードとか必要?」
「必要ないよそんなの。庶民でも入れるところだし」
「お兄ちゃんは行ったことあるんだよね」
「一度先輩に連れられてな。コース料理頼んだけどめちゃくちゃ美味しかった。担々麺もあったと思う」
お兄ちゃんは思い出すように言う。
「結構色んなとこ行って食べているんだね」
「食べることも生きることの楽しみだ」
まあ確かに。それは博パパも言っていた。
「でさ、澪。味の想像がつくようになったら、ここで試作品作るんだよな」
「うん、そのつもりだけど」
「じゃあ、その時にとびきり美味い担々麺、食わせてくれよ。お前、料理上手いんだから」
料理が上手いのは、史子のおかげだ。
ジョギングをして朝食を食べ、高校へ向かう。
私が通っている高校は、十一月に文化祭がある。文化祭の話がクラスでもちらほらと出てきた。私も彩夏も優菜も帰宅部だけれどクラス行事がある。出し物はなにがいいか。放課後のホームルームでは、それが議題となった。
ふざけた男子が猫耳メイド喫茶という。すぐに却下された。サーティワンみたいなアイスクリーム屋がいいという子もいるが、結局喫茶店がいいという意見が多く、和風喫茶に決まった。
袴を着て接客したいという子が何人かいて、袴を着ることになった。
話し合いは時間がかかり、学校を出るころには五時を過ぎていた。文化祭には、家族はもちろんのこと、久江ママも呼ぼう。去年はお化け屋敷で、ママを呼んだけれどこの年齢で怖がる姿を見られたくないと言われて来てはくれなかった。ママは、怖いものが苦手だった。遊園地に行った時も、お化け屋敷には入りたがらなかったくらいだ。でも今年は大丈夫。ぜひ来てもらいたい。
学校は文化祭の話で一色になり、けれど何事もなく一日が過ぎ、二日目も過ぎた。
「桂蘭」へは学校から行くため、彩夏と優菜とは教室で別れた。私は教室に残って勉強をしながら時間をつぶし、午後四時半に学校を出る。
電車に揺られて一時間半。指定された駅に着くと、お兄ちゃんが待っていた。
「遅かったな」
駅には時計台があり、時計を見ると午後六時二十分になっていた。
「ごめん。学校出る時間、間違えたかも」
「まぁいいや、予約してあるんだけど遅れると電話しておいた」
「予約制だったの」
「いや。予約しなくても入れるんだけど、たまに貸し切りになることもあるから」
お兄ちゃんは歩きだす。改札を抜けると左方向に白い外観のホテルの建物があり、
「桂蘭」へは駅から直接中へ入れる仕組みになっている。
ホテルのレストランというだけあって、中は広く、黒いスーツを着た男性が丁重に挨拶をした。
「予約をして先ほど遅くなると連絡を差し上げました金沢です」
「お待ちしておりました」
窓際の、個室に案内される。眺望がよかった。窓からは線路や電車、プラットホームで待っている人々が見える。空には星が瞬き、月が出ている。
客の数はそれほど多くなかった。
「なんだかこういうとこ、緊張するね」
「慣れだよ」
白いシャツに黒いボトムスを履いた、姿勢のいい店員が、白い陶器に入った中国茶を持ってきて、茶器に注ぐ。
「ご注文はお決まりですか」
「単品で担々麺と、チャーハン、それから小籠包」
「かしこまりました」
店員は会釈をして去っていく。お兄ちゃんは今日はチャーハンと小籠包が食べたいらしい。担々麺に付き合ってほしいところだが、無理は言えない。
「なあ、疑問に思っていること、口にしていいか」
お兄ちゃんは私の目を見つめる。
「うん、なに」
「どうして担々麺なんだ。食べたことないのに作りたがるの、おかしいだろ」
これは、当たり前のように湧いてくる質問だろう。正直に答えるしかない。
「どうしても、食べさせたい人がいるんだよ」
「それって久江さんか」
声に鋭さが混ざっている。
「うん。久江さんの大好物が担々麺」
「俺は久江さんとそんなに仲がいいわけじゃないけど、聞いたことがないぞ」
「そう?」
「なんで久江さんのためにそこまでするんだ」
「大好きだから」
即答する。お兄ちゃんは中国茶を飲み、息をついた。
「大分なついているからなぁ。幼いころのお前のなつき方、異常だったし」
「そうかな」
「普通自分の母親そっちのけで他人に何度も抱っこをねだらないって」
私は笑ってごまかした。お兄ちゃんはそれ以上、なにも詮索してこない。
史子の時、反抗期は少しだけあった。いじめられてストレスが限界に来ていた時に、久江ママに当たったこともある。何度か衝突したこともある。そうして気まずくなると、ママが二番目、三番目に好きなものを作って仲直りをしていた。
八つ当たりした日の贖罪代わり。そうして私は、親より早く死ぬという最大の親不孝をした。澪で孝行していければ。そう思う。
もちろん、今の両親にもちゃんと親孝行はしたい。私は日々料理を作ることと、担々麺を作ることで久江ママに親孝行ができると思っているのだろうか。一瞬考え、それは違うと結論付ける。担々麺のことはできなかった約束を果たしたいだけ。料理を作るのは、栄養をとって長生きしてほしいだけ。どれも私のわがままでしかない。
なら、今更なにが一番の親孝行になるのだろう。
「お待たせいたしました。チャーハンと小籠包のお方は」
お兄ちゃんが手を挙げると、大きな丸いお盆から丁寧にテーブルにお皿が置かれる。
担々麺も私の前に置かれた。
ん、と思った。見た目が私の理想そのものだった。赤と白が程よい綺麗なスープ。もやしの上に肉味噌が乗り、隣には白髪ねぎがある。肉味噌と白髪ねぎを半分囲うようにチンゲン菜が添えられている。
「ねえ、お兄ちゃん。これ。これ、見た目、見た目、見た目……」
「落ち着け」
言われたとおり、私は中国茶を一口飲み言った。
「こういう見た目を求めていたの」
一刻でも早く食べたい。でもその前にスマホで写真に収める。立ち上がり、どんぶりの表面全体を見渡せるように撮る。違う角度から三枚ほど撮り、頂きますと言って、箸とれんげを手に取ると、麺をすすった。
麺は細い縮れ麺だった。白ごまの甘みと坦々の辛さがものすごいバランスで融合している。味も濃厚で、私が求めているものそのものだ。ねぎの辛さと坦々の辛さが喉の奥に染み、そして胃にもグッと沈んでいく。
上品な中に、隠れた重さがある。肉味噌も辛くなく、ちょうどいいしょっぱさだ。そうしてスープの中に沈んでいく。味わって麺を食べ、チンゲン菜も頂く。
スープを一口飲む。病みつきになる辛さだ。れんげを口にする手が止まらない。必死でスープと、スープの中に沈んだ肉味噌を追いかけている。
舌鼓を打つ、とはこういうことをいうのだろうか。とにかく一口飲むと、もっとスープが飲みたくなる。
私は思わず手を挙げていた。
先ほど案内してくれた黒いスーツの男性が気づいてやってくる。
「あの、この担々麺、びっくりするほど美味しいんですけど」
「ありがとうございます」
「スープはどうやって作っているのですか」
怪訝な顔をされた。
「あ、いえ。スパイとかじゃないです。あまりの美味しさに、家でも作りたくなって」
絶対豆板醤やオイスターソースやラー油を混ぜるだけのものではないだろう。
男性は頭を下げる。
「申し訳ございません。作り方等は当店の企業秘密となっておりまして」
「なにか秘訣をちょっとでも教えていただけませんか」
必死になって食い下がる。
「作るのは料理長とその部下ですので私としましては何とも申し上げられないのですが」
「お願いします。なにか、少しでも。私は家で作りたくて、日々担々麺のことを研究しているんです」
男性は私の目を見てきた。私の目も男性をとらえて離さない。担々麺を作りたいという本気度が伝わればいい。すると、根負けしたかのように男性は言った。
「そうですね。一つだけ言えることがあるとすれば、花椒(ホアジャオ)という中国産のスパイスを使っています」
花椒! 私の頭は花が咲いたように明るくなった。スーパーで買ったものは間違っていなかったのだ。今度花椒を入れて作ってみよう。
「ありがとうございます。とても参考になりました」
「お役に立てたのならよかったです」
男性は頭を深く下げ、去っていく。
「珍しいな、澪が食い下がるなんて」
小籠包を食べていたお兄ちゃんが驚いたように言った。
「どうせ作るのなら美味しいの作りたいじゃん。理想の担々麺に出会えたのだし」
そうしてふと、史子の時に担々麺を食べた中華のお店と、このお店が似ていると思った。ただ似ているのは雰囲気だけで、場所は異なる。一度そのお店に行ってみたことがあるが、もうなくなっていた。
中国茶を飲み、何気ない会話をしてから店を出る。
「満足したようでなにより」
「うん」
足取り軽く、お兄ちゃんの家に帰った。
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