第1話

フライパンに水を入れ餃子を中火で焼いている間に別の鍋を用意し、鶏がらと醤油、オイスターソースとラー油を入れ豆板醤で微かに赤くなったスープをかき混ぜ、市販のチューブ型の白練りごまペーストを投入する。


「あら、澪(みお)。なにを作っているの」


母の恵理子が台所に立ち鍋の中をのぞき込む。

「担々麺、のスープだけ」

「なんでまた」


私はちょっとだけ答えに詰まる。

「担々麺を作ってみたくなって。でもまだ試作段階」


味見をする。薄い。練りごまペースト百二十グラムを全部使ったのに、全体的にぼやけていて辛いどころかなにか甘い。砂糖を入れたせいだろうか。


でもレシピには砂糖大さじ1、と書かれていた。


「お母さんも味見してみて」


食器棚から小皿を取り出す。鍋の中も全体的に水っぽく、練りごまの粒子の間からさらさらとしたお湯が見える。小皿に入れて恵理子に渡す。


「薄っ、なにこれ。いや、確かに味は坦々なんだけど……」

「担々スープというには程遠い代物ができた」


笑うと恵理子は肘でわき腹を小突いた。


「材料がもったいない」

「あ、餃子はもうよさそう」


話題をそらすためにフライパンの蓋を開けると、円状に並べられた餃子がジューっという音をたて香り立っている。


夕飯は、中学の時からほぼ毎日私が作っている。もう体に染みついているのだ。


「ちょっと餃子の量多くない?」

「久江さんにもあげるから」


息を漏らす音が耳元で聞こえる。


「ほとんど毎日久江さんに作っているわね」

「うん」


恵理子は少し困惑したように右腰に手を当て眉根を寄せた。


「ほんと、澪は久江さん好きよね。小さい時からなついてなついて離れないんだから。まぁ確かに、高齢者の一人暮らしだから心配ではあるけど……」


ぶつぶつ言うのをよそに、お皿に餃子をとりわけ、事前に作っておいたサラダと一緒にラップをかけてお盆に乗せる。


「ちょっと、久江さんのとこ行くの?」

「うん。これ持っていく」

「これ」を指し示すためにお盆を少し高く持ち上げる。

「坦々スープはどうするの」

「捨てるのもったいないから春雨でも入れておいて。私もあとで食べる」

「仕方ないわね。じゃあ、あとの準備は私がしておくから」


準備とはごはんやサラダをお皿に盛りつけることと、坦々スープモドキに春雨を入れることだ。恵理子に全部任せてしまおう。


私はつっかけサンダルを履いて、隣の家のインターホンを鳴らす。


今日も私の作った料理を喜んで食べてくれるだろうか。


「はい」


外に備え付けられた焦げ茶色のスピーカーから声が聞こえてくる。


「澪です」 


茶色い玄関の扉が開かれる。久江ママが出て来た。


髪はショートの白髪だ。頭全体が真っ白。少し悲しくなる。


私には父と母が二人いるのだ。先ほど話をしていた母が金沢恵理子。父が金沢忠。


隣の家に住んでいるママが佐川久江。その旦那である博パパ。博パパはもう亡くなっ

てしまったけれど、私は心の中で呼び方の使い分けをしている。実の父母は内心で忠、恵理子、と呼び捨てをしているのだ。


「餃子とサラダ。よければ食べてね」


お盆を差し出すと、久江ママは静かに受け取る。


「あらあら、ありがとう。いつも悪いわね」

「気にしないで」

「少しあがっていく?」

「うん」


サンダルを脱いで、家の中にあがる。廊下を直進して木製のドアを開けたところがリビングだ。何も変わっていない四人掛けテーブルと、キッチン。左奥には和室があり、テレビとソファー、テレビから少し離れた位置に史子と博パパの仏壇がある。博パパは、十年前に亡くなった。


「さ、どうぞ腰を掛けて」


いつも史子が使っていた席を避けて、腰を掛ける。緑茶が運ばれてきた。


物心ついた時から、この家を、この街を、久江や博を見てなつかしさにとらわれていた。久江や博が他人のようには思えず、よく抱っこをねだった。


この街を知っている。家の外観を知っている。周囲の景色に見覚えがある。


物覚えも早く、小学校の勉強もやすやすとできた。九歳の時に恵理子と忠が見守る中、カレーや酢豚、そのほか様々な料理をスムーズに作った。レシピも見ないでどうやってとたいそう驚かれたものだ。


そうして、子供心に感じていた違和感は十歳のクリスマスのとき、友達とプレゼント交換をしたことをきっかけに全てを飲み込むように理解した。


私には前世の記憶がある。


私は佐川史子という名で二十歳まで生き、隣の家に転生してきたのだ、と。


史子だった時に私の家に住んでいた人は、どこかへ引っ越してしまったようだ。


両親は私が生まれる前に家を中古で買ってリフォームしたらしい。転生したのが佐川

家の隣の家だったのがなぜなのかわからない。神のいたずらなのか偶然なのか。


ただ、ぱあっと光るヘッドライトを見た前後の記憶がまるでない。痛みもなければ、苦しくもなかった。むしろ痛く苦しい思いをしたのは博パパと久江ママだろう。


子供を先に亡くすのは親にとっては耐え難い地獄だと聞いたことがある。親になったことさえない私には想像を絶するけれど、時々久江ママは史子のことを語りひどく辛そうな顔をする。そのたびに胸が痛くなる。


私の前世が史子だと、なかなか言い出せずにいる。言っても信じてもらえるかどうかもわからない。自信がない。言ったところで拒絶されるかもしれないし、からかっているのだととらえられるかもしれない。口に出すのは慎重になったほうがいい。


ただ自分がかつて住んでいた家で自分の遺影や仏壇を見るというのも妙な気持ちになる。当時の流行に合わせたボブショートで二重。首のラインがほっそりとしている。着ているものは水色のスーツ。


大学の入学式の朝、撮影したものだ。奥二重の今、顔立ちの整った史子が羨ましい。

「餃子、早速いただくわね。冷めちゃったら悪いし。澪ちゃんはもう食べたの」

「まだ。お先にどうぞ」

「では遠慮なく」


ママは白米を炊飯器から茶碗に盛り、小皿にお酢と醤油を入れて、餃子を一口食べる。


「うん、カリッとしているわ。肉厚もすごくておいしい」


そうして少しだけ悲しそうな顔をする。久江ママの話によると、博パパが死んでから料理はほとんど作らなくなったそうだ。一人で作っても張り合いがないし、面倒だということで、スーパーのお弁当で済ませていたらしい。


それを知って、久江ママにも作るようになった。


私の中には焦りがある。今、十七歳。久江ママは七十五歳になっていた。史子として最後に会った時は、四十代後半だったはずだ。パパとの思い出は少ない。あとどれくらい、ママとの思い出を作っていけるのだろう。ママはずいぶん年をとってしまった。


真っ白な髪に手や首、顔にも深い皺ができて、その皺が私の中の焦りをより煽るのだ。


「いつもありがとうね」


声で我に返る。餃子は半分に減っていた。


小さい時になついてしまったため、そして前世の私のママであるため敬語は使わない。


「いつでも作るよ」

「ありがとう。一人だとどうしてもできたものを買っちゃって」

「体に悪いよ。長生きしてもらわないと」

「長生き、ねえ……」


長生きしたくない。そう顔に出ている。私は精いっぱいの笑顔で言う。


「なにか明日、食べたいものがあれば作るよ」

「なんでもいいわ。それより学校はどう? 今高校二年生よね 楽しい?」


一瞬、史子の学生生活を思い出した。でも今は違う。


「うん、楽しい。でも来年はもう三年生だから受験勉強だよ」


九月。真夏の暑さも和らぎ、秋の陽光に変わっている。あと数ヶ月で今年も終わる。そうして年が明ければ、あっという間に三年生だ。


「そう。いい思い出たくさん作ってね」


ああ。史子の時と同じことを言っている。だからこう言う。


「私は久江さんとも思い出をたくさん作りたい」


ママは驚いたような顔をしてから目を伏せる。


「ありがとう」


どうして目を伏せるのだろう。訊きたかったが、訊ける様子ではなかった。


ぐぅ、とお腹の虫が鳴る。


「お腹すいているの? 澪ちゃん、もう帰りなさい」

「うん。そうする。また来るね。お茶ありがとう」

「ええ」


立ち上がり、家を出る前、階段を見やった。二階には史子の寝室がある。今はどうなっているのだろう。澪になってからは一度も階段を上がったことはない。ママはこの家でたった一人だ。


独りぼっち。きっと、史子が死んで心に深い傷を抱えている。史子は両親から愛されていたからそれがわかる。傷は時間で癒えるものじゃない。死ぬまで、あるいは死んでも傷が残る場合だってある。



家に戻り、餃子を食べる。春雨を入れた坦々スープはいつの間にか会社から帰って来た忠にも不評だった。


「レシピ通りに作ったんだけどな」

「レシピ通りに作ってうまくいかないこともあるわよ」


落ち込んでいると、恵理子は励ますように言った。


「もう少し、いろいろなものを足したほうがいいんじゃないか。何が入っているのか知らないけれど。とにかく薄い」


忠も真面目な顔で言う。


「うん。美味しくなるまで作るよ」

「坦々スープを? 毎日?」


恵理子は目を丸くする。


「そのつもりだけど」

「それでスープをどうするの」

「今日みたいに春雨をいれるか、ラーメンの麺を入れるか」

「駄目よ。そんな毎日作っていたら体に良くない」

「うーん」


美味しくなるまで試作したい。これ以上作ると言うと恵理子は怒り出しそうだ。


「でもなんでまた担々麺? 外で食べればいいじゃない」


忠も恵理子も、久江ママの好物が担々麺であることを知らない。


「家でも作れるようになりたいんだよ」

「澪、担々麺好きだったっけ」

「うん。まぁ好き」


担々麺を作りたいのは、最近になって久江ママとの約束を突然思い出したからだ。学校帰りに友達と通りすぎたラーメン屋の、担々麺の食品サンプルを見て雷に打たれたような衝撃が走った。その時ようやく思い出したのだ。


「担々麺、作るからね」。すっかり忘れていた。そして、約束を果たせなかったことを悔いた。なぜこんな大事なことを忘れていたのか。事故に遭った日、信号は確認していた。


自転車に乗っていた時、なぜもっと周囲に注意を払わなかったのだろう。久江ママが食べたいものを食べられるうちに史子としての約束を果たしたい。担々麺の作り方は、史子の時に頭に叩き込んだはずだけど忘れていた。



史子はどんな担々麺を作る予定だったのだろう。その辺の記憶は全くない。ただ、ぶっつけ本番で久江ママに食べさせようとしていたことだけは思い出した。試作しないで大丈夫だったのだろうか。


十年前、博パパが死んだときはまだ完全に転生したと理解していない年齢だったけれどやはり他人事のようには思えなかった。前立腺がんになってから何度も一人でお見舞いに行き、久江ママを励まそうと家にも上がらせてもらっていた。


博パパの容態は悪く、毎日不安で一人で声を殺して布団にくるまって泣いた。今は大学生となって一人暮らしをしているお兄ちゃんが当時小さかった私をえらく慰めてくれたけれど、そのお兄ちゃんにさえ前世のことは言っていない。


人間、食べられなくなったら終わり。



食べることが好きだった博パパが、食べ物を豪快に食べていたパパが、よく言っていた言葉だ。そうしてパパは死ぬ一週間前から、食べ物を受け付けなくなった。


ゴンもそうだ。目の前で見せると大はしゃぎしてぺろりと平らげていたにんじんも、おやつも、死ぬ前は何も食べなくなった。いらないというように横を向いてしまうのだ。


人間も動物も、食べられなくなったら終わり。


久江ママは史子との最後のお別れから随分痩せている。


なんの病気もありませんように。

ずっと元気で長生きしてくれますように。

そうして大好物の担々麺を食べてくれますように。


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