夏の終わりを告げる風

ベランダに出ると、17時前だというのにすでに空はオレンジ色に染まっていた。


そんなオレンジ色の空には、もくもくとした入道雲ではなく、さらっとした薄い曇がたなびいている。

8月上旬は一生懸命鳴いていたセミたちの声は、いつの間にか鈴虫の声に変わっていた。


さらさら。

木々を揺らしながら吹いた風が、肩まである髪の毛を優しくさらっていく。


その風も、緑の匂いを纏っていた爽やかな薫風ではなく、涼しさを含んだ秋風になっているのに気付いた。


その風の中に煙草と石鹼の匂いが溶け込んでいるような気がした。


みるみるうちに視界が滲んでいく。

それが自分の目に溜まった涙だと気付くのにはさほど時間はかからなかった。




大好きだった祖父が1年前に亡くなった。

ちょうど、今ぐらいの、夏が終わりかけた時期だった。


山仕事に精を出していた祖父は、風呂上りに玄関前の石段に座り、一服するのが好きだった。


ガラガラと昔ながらの引くタイプの玄関。その少し開いた隙間から、石鹼と煙草の匂いが風で運ばれてくると、無性に安心した。


私は、祖父の匂いが好きだった。


だから、私も祖父が一服している隣によく座っていた。

すると、祖父はいつも「どうやったか、学校は」と聞いてくれた。


そんな時を過ごしながら、いつの間にか大学まで卒業し、社会人になった私は、実家を離れ東京に住んだ。


久々に私が実家に戻ったとき、祖父はあの頃と変わらなない口調で「どうやったか、仕事は」と聞いてくれた。

そのときもいつもと同じ匂いがした。


「…………うん、まぁまぁだよ」


本当は、勤めている会社を辞めたいと考えているのに、口に出てきたのは、はりぼてだらけの言葉だった。


祖父は吸っていた煙草を石段になすりつけて、火を消し、「ふぅーーー」と長い息を吐いた。


「…………お前は長女やからな、昔からよう弟やら妹やらのために、いろんなことを我慢しとったろ」


私は、祖父が何が言いたいか分からず、黙って祖父の言葉を聞いていた。

ただ、私のはりぼてだらけの言葉は、すでに見透かされているような気がした。


「ええか、誰かの幸せのための我慢は、自分の心を削る。自分の心を削るいうことはな、じいちゃん孝行じゃないぞ」


「なに、じいちゃん孝行って」


本当に祖父が何が言いたいか分からず、思わず笑ってしまった。


「自分を大切にするのが一番のじいちゃん孝行や。じいちゃん孝行であり、親孝行でもあり、ばあちゃん孝行、さらには弟妹孝行でもある」


祖父はやわらかい口調のまま続ける。

さあぁっとやわらかい風がふたりの間を通り抜けていった。


「自分を大切にするっていうことはな、おまえのことを大事に思ってる人たちを一番大切にしてるっていうことにもなるんやからな」


煙草と石鹼の匂いが鼻孔をくすぐる。

すると、鼻の奥の方からツンとしたものがこみ上げてきた。


「じ、じいちゃんの煙草が目にしみるんやけど」


そう言いながら、私は目元を拭った。


「…………おまえはな、もっと上手に馬鹿のふりをするのを覚えんとな」


ワッハッハ、という豪快な祖父の笑い声がオレンジ色の空へと吸い込まれていった。



今でも、煙草を片手にひょっこり祖父が現れてきそうな気がしてしまう。


「…………じいちゃん、私、馬鹿のふりはまだ上手くなれんけど、少しはじいちゃん孝行できとるような気がするよ」


空に向かって、そう呟いてみる。


すると、すーーーっと目の前を何かが横切った。


「あ、赤とんぼ」


横切ったのは赤とんぼだ。

よく見ると、一匹だけではなく、何匹か飛んでいる。


とんぼの背には亡くなった人が乗っている――――。


昔聞いたその言葉が脳裏に浮かんだ。


「じいちゃん、心配せんでも、私ちゃんとやってるよ」


じわっと再び視界が涙で滲んでしまう。


さらさらさらさら。


涙を乾かすかのように、また夏の終わりを告げる風が優しく吹いた。






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