ビアガーデンに現れた王子様?
夏になるとオフィス街の屋上に、期間限定であるものが出現する。
太陽が沈み、街に明かりが灯りはじめるときに出現するその場所から眺める夜景は最高だという。
さらにそこには、キンキンに冷えたビール、からりと揚がったからあげ、がぶりと食らいつきたくなるほど大きなソーセージ、枝豆、ポテト、ざく切りにしたキャベツ、トマトとアボカドのサラダなどお酒のつまみに持って来いといった舌をうならせるものがたくさんあるのだ。
夏風香る屋上で、仕事の疲れをそこで癒すかのようにビール片手に料理に舌鼓を打ちながら、夜景に浸る。
――――ビアガーデン、それは夏という季節に期間限定で出現する大人たちのオアシスなのだ。
そして、私はそんな大人たちのオアシスで働いている。
今、私の右手には、ビールが並々と注がれた3つのジョッキ、左手にも同じように3つのジョッキがあり、それを持つ手がぷるぷると震えている。
「お待たせしました」
口角をあげ、ジョッキをテーブルの上へと置く。
なんとかこぼさないように客の元へと運びきった。
ビアガーデンは力仕事だ。体力もないとやっていけない。
並々と注がれたビールの重さは、1つだとたいしたことないが、6つも一緒に持つとなかなかの重さになる。
本当はホールではなくキッチン希望だったのだが、店長から「あら、アンタ顔がいいわね。ホールいきなさい」と言われ、ホールに放り投げられた。
店長は漆黒のボブヘアに濃い青色のアイシャドウを塗ったなかなかにインパクトの強いオネエ店長だった。
そんな店長を前に怯みそうになったが、私はもう少し食い下がってみた。
「キッチンじゃ駄目ですか。私、料理がつく……」
しかし、店長は私の言葉を最後まで聞かずに、「スーッと通った鼻筋、切れ長な眼、色白の肌に似合うその金髪、すらりと伸びた足……。んんっ!もうっ!かんっぺきじゃないの!あなた!!イケメンはホールって決まってんのよ!」としなを作りながら言われてしまった。
「……あの、私、女です」
勘違いされるのには慣れているのだが、性別を勘違いされたまま働くのはなんだか騙しているようで嫌だったのと、そう言ったらキッチンにさせてもらえるんじゃないかと思ったのだけれど、店長は鳥の羽のようなつけまつげをバサバサと2回ほど閉じたり開けたりしたあと「んまぁぁぁぁ!!」と叫んだ……だけだった。
結局、女だと言っても、キッチンには立たせてもらえなかった――――。
少し離れた席の方から酔っ払いと若い女の子の声が聞こえてくる。
目線を向けると、同じスタッフの女の子が酔っ払いに絡まれているところだった。
はぁ、と小さく溜息をつく。
酒の席になるとどうしても一定数はああいう輩が出てくる。
来るかな、と思っていると、その予想通りに耳につけている無線のインカムから先輩の声が聞こえてきた。
「凜ちゃん、そこから5番卓見える?」
ビアガーデンの席には居酒屋と同じようにテーブルごとに番号がふってあり、その番号で酒や料理を出したりするのだ。
こうしてなにかあったときも、インカムでテーブルの番号をスタッフで共有することで、素早く対応ができるようになっている。
「見えます」
胸元につけているマイクで先輩に返事をする。
「対応任せてもいい?」
「おっけーです」
返事をする前からすでに足は5番卓に向いていた。
スタスタと一直線に5番卓へと向かう。
酔っ払いの男性は、同じスタッフの女の子の腕を掴んで赤ら顔で絡んでいた。
「あ、あの、困ります」
「いいじゃん。せっかくここで会ったんだし、連絡先聞かせてよ」
すうーーーっと息を吸い、笑顔をつくる。
そして、膝をつき、酔っ払い客の目線よりも下に自分の顔が来るようにした。
「お客様」
できるだけ抑揚のない声で呼びかける。
するとその酔っ払いは「な、なんだよ」と少し怯んだような顔をした。
「当店の食事は口に合いましたでしょうか?」
にっこりと微笑みをつくり、そう問いかけてみる。
酔っ払いは注意されると思っていたのだろう。
虚を突かれたような反応のあと、やっと私の言った言葉の意味を理解したかのように答えた。
「え、あ、ああ!うまいよ!めちゃくちゃ!」
「それはなによりでございます。ところでお客様、うちの従業員がかわいいので声をかけたくなる気持ちも分かります。けれど、ここは期間限定で現れる大人たちのためのオアシス。せっかくならば色恋よりもこの時を一緒に楽しみませんか。なぜなら、今夜は……」
「今夜は?」
酔っ払いは私の言葉を復唱した。
よし、酔っ払いの注意を完全に私に向けることができた。
同僚の腕を握っていた手がするりと解けたのを目の端でとらえた。
「今夜は、満月でございます」
その言葉と同時に私は指を空へと向けた。
酔っ払いの視線もそのまま空へと向く。
「スピリチュアル界では満月は解放という意味があるそうです。……今夜は特別な日。お客様も心を解放されてはどうでしょうか。……手に握っている寂しさを離してあげることで、見える幸せがあると思いますよ」
酔っ払った男性は何も言わなかった。
ただ、空に浮かぶ丸い月を見ていた。
「…………ごゆっくりどうぞ」
そう言って、その酔っ払い男性の前から立ち去ろうとしたとき、「悪かった」という小さな声が聞こえた。
「…………さっきの姉ちゃんにもそう伝えといてくれるか」
私はにこりと微笑み、男性をあとにした。
彼の頬に伝う雫には気付かないふりをした。
「さっすがビアガーデンの王子ね」
インカムで先輩が茶化す声が聞こえてくる。
「女ですってば」
「ほんと、女にしとくのもったいないわ」
クスクスと笑っている先輩の声が聞こえてくる。
「ところでさ、なんで、あのお客さんが寂しいなんて分かったの?」
「……あぁ、あの人がスマホ見てるときに一緒に映っている女の人が見えたんで。で、やたらと溜息はいてたんで。もしかしたら失恋でもしたのかなぁって」
「はぁーっ!このクソ忙しいのによくそんなお客さんのこと見れるわね。さすがビアガーデンの王子」
「…………あぁ、はいはい、もうそれでいいです」
マイクに向かって小さな声で返事をしながら手早くビールを運ぶ。
すると、またインカムから「王子、10番卓お願い」という声が聞こえて来た。
だから、王子じゃないってば。
もう言うのが面倒くさいので「はい」とだけ返事をする。
「事を荒立てずに、ああいう対応できるなんて王子って何者なの」
「だから、王子が何者かじゃなくて、王子はそもそも王子なんだって」
10番卓に向かっている途中でもそんな声がインカムから聞こえてきた。
だから、私は――――。
お決まりのセリフを心の中で呟くのだった。
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