第三話

 夜の空には銀紗のように星が瞬き、そのただ中に弓のような形の月がぽっかり浮かんでいる。船に座し、黒光りする波間に遠ざかる島影を望みながら、藏真はどこか夢の中にいるような感覚に襲われていた。

 船尾には月明りを頼りに羅針盤を睨んでいる蒼仁の姿がある。官服を着、腰に刀を佩いた姿は、傍目には墨島に詰めている官吏そのものだ――かくいう藏真も、伸び放題だった髭と髪を久しぶりに整えて、蒼仁と同じ官服に身を包んでいる。久々に見た鏡の中の自分は、まるで別人を見ているかのようだった。

 詰所を襲撃して衣服と小物と船を強奪し、本土に帰って新王に謁見を願い出るというのが蒼仁の案だった。どうせ自分は手を貸すだけだからと二つ返事で承諾した藏真だったが、ともすれば臆病風に吹かれて立ち竦んでしまいそうな優男が先陣を切って官吏たちに突撃し、奪った刀を振り回しているさまはどこか目を見張るものがあった。さらに彼は、永遠に出られないと思っていた墨島から藏真を連れ出してくれたのだ。

「方角はあっています。このまま進めば港に着けるはずです」

 蒼仁は羅針盤から顔を上げて舵を握りなおす。藏真はその顔を見て、幼い頃の彼を思い出さずにはいられなかった。

 藏真が王位を追われたとき、蒼仁は七つか八つだったはずだ。藏真は王妃との間に子がなかったこともあり、いつか自分に代わって国を継ぐであろうこの甥っ子をひときわ可愛がっていた。蒼仁も幼心にそれが分かっていたのか、父親や藏真にぴったりくっついて話を聞きたがっていたものだ。そうでなくともよく人に懐く子どもだった蒼仁は、お気に入りの文官の執務室や憧れの武官の訓練場に忍び込み、勝手に手ほどきをしてもらうのが好きだった。

 しかし、かつての政変では蒼仁が懐いていた官吏たちも軒並み排除された。王位簒奪者である父親の越蒼裕えつそうゆうによって、皆国に仇なす不届き者だと教えられていてもおかしくはないし、自らの地位を正当化するために蒼裕がそうするであろうことは藏真にも想像がつく。だが、こうして蒼仁と再会すると、彼が自身から全てを奪った裏切り者の子であるという事実がどうでもよく思えてくるのも事実だ。

「……蒼仁よ」

 藏真は遠ざかる墨島を睨んだまま口を開いた。

「お前はなぜ、俺が墨島に送られたことを知っていたのだ」

 この問いに、前方を見つめていた蒼仁はふと頭を下げて座っている藏真を見た。

「父上が王位を強奪して十年が経った頃、幾人かの丞相が伯父上について話しているのを聞いたのです。私は驚きのあまり話に飛びついてしまって叱責されたのですが、そのとき初めて伯父上が越姓を剥奪されて墨島に送られたことを知りました。もっとも、それを知ったからといって、私にはどうすることもできなかったのですが……」

 蒼仁は言葉を濁すとため息をつき、また前方に視線を戻した。藏真はその顔を黙って見ると、再び闇に溶け込んだ墨島をじっと見つめた。

 父親が謀叛に成功し、王位を手に入れた。その瞬間から、蒼仁は伯父を亡き者として扱わなければならなかったのだ――どれだけ慕っていても、蒼真という先王を肯定すると自身が謀叛の種として摘み取られかねない。

「当時、大勢があらぬ罪状で処罰されましたが、中には父上に忠誠を誓うことで難を逃れた者もおりました。伯父上を慕っていた身としては彼らもまた裏切り者なのでしょうが、そんな彼らが伯父上のことを話す口ぶりはただ権力に媚びようという者のそれではありませんでした。とはいえ、処罰を逃れるために主君を替えた者を蒼然が認めるかと言われると、あまり期待はできないのですが」

 蒼仁は前方を見たまま、しかしはっきりと藏真に語りかける。藏真はそれには答えず、代わりに今年で何歳になったと越蒼仁に尋ねた。

「二十八です」

「そうか……」

 聞いたはいいが、どう返せばいいものか藏真は結局分からなかった。藏真が王位を追われてから実に二十年が経っていることになるが、蒼仁との二十年越しの再会を喜べばいいのか、力づくで奪った王位を命ともども失った弟の蒼裕そうゆうに憐憫の眼差しを向ければいいのか、はたまた骨肉の争いという父と同じくびきを踏んだもう一人の甥に世の無常を感じるべきなのか、墨島で悪党どもの頂点に立っていた二十年間には感じなかった思いが大渦のように胸中を巡っている。蒼仁が見返りとして差し出した王位さえも、墨島に着いた当初こそはいつか奪い返してやると復讐心を燃やしていたものの、今となっては華胥国のように儚い幻想のように思える。

「船着き場の連中は、墨島に詰めている奴らを知っているのか」

 沈黙の末、藏真はまた別のことを尋ねた。蒼仁は静かに首を横に振り、

「五年に一度の配置替えの際に名前が挙がるだけです」

 と答えた。

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