Tips.少年の記憶
はるより
第1話
雨がしとしとと降る夜のことだった。
そんな空模様にも関わらず、薄く伸びた雲の裏から、月の光が嫌に明るく帝都を照らしていた。
少年は、使いから帰る途中であった。
行燈の油が切れてしまったので、油屋までの通い慣れた夜道を走っていたのだ。
そんなもの、今日は早々に寝てしまって明日にすれば良いじゃないかと家人は言ったが、少年はどうしても書物に読み耽りたかったのだ。
容器に入った油をこぼさない様に、両手で抱えて歩く。
道は水溜りだらけだったが、すでにぐしょ濡れになった足袋と下駄の前には、そんな事はもう関係のないことだった。
小さな水飛沫と、からころという音を立てながら少年が歩いていると、どこか近くから人の叫び声が聞こえた。
尋常ではない様子のその悲鳴に、少年の足が止まる。
続いてごぼごぼと、まるで水面に顔をつけられてもがき苦しむ様な音。
少年は、嫌な想像をする。
喉を捌かれた人間が、自身から吹き出したその血潮に溺れて死に至るまでの様子。
そのまま走り去って仕舞えばいいのに、少年は少し迷いを見せはしたものの、声の聞こえた路地裏へと吸い込まれるように歩み寄る。
その時の少年が抱いていたのは、恐怖。
それから、その恐怖を圧倒する好奇心……。
そこで、少年は『鬼』を見た。
返り血と雨が混じった液体を、前髪からぽたりぽたりと垂らしながら、足元に転がる亡骸に目をやる人影。
額には、人にあるまじき角が生えている。
音はほとんど立てなかったはずなのに、『鬼』はくるりと首だけを少年の方へと向けた。
少年は声にならない悲鳴をあげて、尻餅をつく。
転んだ拍子に手放してしまった油の容器が地面へとぶつかり、ばしゃり、と派手な音を立てて中身を撒き散らした。
『鬼』は、可笑しそうに笑うと、少年へと言葉を投げかけた。
「小僧、人でなしを見るのは初めてか。」
少年は、歳に対して聡明な人間であった。
それは周りの大人達から褒めやそ続けて来たことであったし、彼自身も自覚し始めた事であった。
だから、咄嗟に目の前の存在を受け入れることが出来なかった。
鬼など……妖など、不安定な人の心に巣食う幻でしかないと、そう思っていたからだ。
しかし目の前の存在の額には、確かに血を固めて作った様な角が、皮膚の内側から筍の様に突き出している。
そして、肌で感じるその気配。
……人の気配であってあってたまるものが。この様に、悍ましいものが。
「げ、幻覚だ」
「何?」
「居るはずがないんだ……鬼なんて、妖怪なんて!」
『鬼』は、少しの間その言葉の意味を考えているようであった。
しかし数秒した後に、まるで面白い冗談を聞かされた様に手を打って笑う。
「なんだ。たった十数年生きた中で、識者にでもなったつもりか」
人でなしは、表情を変えた。
それこそ物語に出てくる鬼の様に、怒りの形相をしてくれたのであれば……まだ少年は、その日の出来事を自身が見た夢だと錯覚もできただろう。
しかし、それが浮かべたのは間違いなく、寂寥と哀れみの表情であった。
「箱庭で飼い慣らされてた鼠には、酷な話だったな。」
「鼠……」
「早く帰れ。もう直ぐ人間達が来るから、見つかると面倒だぞ」
『鬼』はそれだけ言うと、拾い上げた死体を引き摺りつつ通りの奥へと消えていった。
続いて人間の慌ただしい足音が聞こえてくる。
確かに嫌な予感がした少年は、油の入れ物を慌てて拾い上げると、その場から逃げ出した。
鬼に遭った夜から五年が経ったころ。
少年は、この帝都の外に『異なる世界』が存在することを確信する。
きっかけはあの鬼の、『箱庭で飼い慣らされた鼠』という言葉だった。
その言葉をきっかけに、少年は度々この世界への疑問を抱くようになった。
まるでそれは閂のかかった扉の隙間から滲み出てくるように。今まで全く意に介さなかったことが頭に浮かんで離れなくなる。
少年は人目を盗んでは、自宅の蔵に仕舞い込まれていた古ぼけた書物や、財産として保管されたがらくたを漁るようになった。
好奇心は尽きない。同世代の子供と比べて聡明だった少年は、自分の全く理解の及ばない存在に対する興味に取り憑かれていた。
そしてある日見つけた記述で、『桜花教』という宗教の存在に歪さを覚える。
家族とは違い、熱心に桜花教の教えに従っている訳ではない少年にとって、年に何度かある桜花神社への参拝は酷く退屈なものだった。
だから、神社に自らの意思で出向いたのはその日が初めてだった。
少年は長く伸びる石段を上る。
登り切ったその瞬間、春一番とも呼べる突風が吹き、石畳に降り積もっていた桜の花びらが舞い上がった。
被っていた学生帽を慌てて抑え、少年は下を向く。
やがて、風が収まった後……鳥居の先へ目を向けた少年は、小柄な人影を見つけた。
竹箒を持った少女。
少女は、きょとんとした顔で少年のことを見ていたが、やがて彼が参拝客であることに気が付いたのか淑やかな仕草で礼をする。
ようこそ、おいで下さいました。
少女の醸し出す柔らかな印象とは裏腹に、凛として芯の通った声。
少年は少しの間、自分がここに来た目的すらも忘れて呆けていた。
そして苦笑する。まさか、自分が。
目の前にいる人間の事を、まるで桜の精のようだ、などと非現実的な事を考えるなんて。
その日少年は少女と語らい、友人となった。
季節が巡り、少年が他者に決して話さなかった『異なる世界』の存在についても、少女は馬鹿げていると笑わずに聞いてくれた。
神社で少女と話しているその時だけが、生家の長男でもなく、教師達から期待と好奇の目を向けられる学徒でもなく、ただ一人の少年として振る舞っていられる瞬間だった。
少年は、彼が『少年』で居られなくなるその時まで、ひと時たりとも途切れなければいいのにと……そう思っていた。
Tips.少年の記憶 はるより @haruyori
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