第64話 典子逝く
岐阜からの登り口は福井に比べてかなり厳しい岩場もあったがブナやナラ、ケヤキの広葉樹の樹林帯が広がる山道をひたすら歩いた。やがて標高千百メートルの広葉樹の山あいに周囲二百三十メートルの池がひっそりと神秘的な雰囲気を醸し出していた。
二人は池の岸辺を周回し始めた。向こう岸に何かが浮かんでいる。それは高村と典子さんと利貞ちゃんの三人だった。坂部が池に飛び込んで岸まで引き寄せて三人を引き揚げた。
三人とも意識不明だった。美紗和さんが一刻を争うと電話口で激しい口調でヘリコプターでの救助を要請した。ヘリコプターと救急車で南越前の今庄の病院まで美紗和さんが同行した。坂部は岐阜側の登山口まで引き返して、そこから二時間ほど掛けて赤いコンパクトカーで病院へ到着した。
結果は裕介は息を吹き返したが、典子さんと利貞ちゃんは帰らぬ人となった。二人は典子さんと利貞ちゃんを引き取ると、後部座席の後ろのスペースに乗せた。高村は後部座席に座らせて、坂部が助手席に乗り美紗和さんの運転で、五人を乗せた車は夕刻に高村の屋敷に戻ってきた。連絡を受けて待ち構えていた葬儀社に依って手際良く屋敷は祖父の時と同じ葬儀会場になった。祭壇と安置された遺体は奥の離れに場所を変えていた。そこで典子さん親子の通夜がひっそりと夏の終わりを告げるように行われた。喪主は美津枝さんだが越前大野藩から賜った遺訓と共に、彼女で高村家の直系はこれで終焉を迎えようとしていた。
通夜の弔問客は主に近在の人々で、会社関係や名士らは明日の葬儀に参列する予定だ。
通夜の読経の中で焼香を終えた地元の人達は色々と囁き合って屋敷を出た。
「あれは行きずりの恋が産んだ女だと噂を立てられていたそうだ」
「親といい娘といい相手はとうとう判らずじまいだと」
これが高村家に災いした始まりと終わりがやって来たかと、屋敷から遠のくと誰の口からともなく弔問客の間に広まった。これで高村家が安泰になればこの町にとっては幸いなことだと囁き合って、供物を抱えた町の人々が家路に就いた。
翌朝の葬儀は十時から始まり、娘の葬儀には美津枝伯母さんが、淡々として弔問客を迎えていた。
前日に引き続いて僧侶の読経中に弔問客の焼香が終わり、喪主の美津枝伯母さんが最後の挨拶をして終わった。同時に前日に大急ぎで各場所に設置されたスピーカーから曲が流れ出した。良く聞くと谷村新司の昴の前奏部分だった。直ぐに親族や大勢の関係者が棺を取り巻いて、抱え始めて動き出す頃に歌が流れた。
目をとじてなにも見えず
かなしくて目をあければ
こうやにむかうみちより
ほかに見えるものはなし
典子さんと利貞ちゃんの棺は、静かに奥の離れに安置された祭壇の前から、玄関に向かう長い廊下を淡々として進んでいく。
嗚呼さんざめく名もなき星たちよ
せめて鮮やかにその身を終われよ
我はゆくこころのめいずるままに
二番の終わりに近づいたときには、大小ふたつの棺は玄関の車寄せに近付いた。
嗚呼いつの日が誰かがこのみちを
我は行く青白き頬のままで我はゆく
さらば す ば る よ 〜
外車を霊柩車仕立てされた車が、玄関脇の車寄せに待期していた。後部が観音開された車の中へふたつの棺は収まった。ゆっくりと車は石畳の緩い傾斜を下がって、鉄製の門柱に向かって進んだ。その後から大場さんの運転するシーマが、祖母と伯母と両親を乗せて付いていく。その後を貸し切りの黒いハイヤーが二台続いた。四台の車列を玄関で千里さんと千早ちゃん、それに坂部が見送った。
「あ〜あ、利貞ちゃんがいちゃったせっかくの遊び友達だったのに何だか悲しくなっちゃうのにどうしてお母さんは一緒に連れて行ったの?」
車列が全て走り去ると千早ちゃんが千里さんに尋ねている。
「千早のように利貞ちゃんに悲しい思いをさせたくないから典子おばさんは利貞ちゃんを連れて行ったのよ」
「そうか典子おばさんの気遣いか」
三歳の子供には丁度説よい説明だと思うが、小さくても人格を認めている千里さんはやらないだろう。
「みんな火葬場まで送りに行ったのに処でどうして坂部さんは一緒に行かなかったの」
「高村が深夜に独りで典子さんの棺の前に長いこと居たのを目にして驚いたから火葬場ではそんな高村を見たくないだからそっとしてやりたいんだ多分俺には見せたくないんだろう」
「そうだったのあれで結構センチメンタルな処があったのね」
これに千早ちゃんがセンチメンタルってなーにと反応した。
「もう坂部さんが誤解するでしょう」
千里さん言うセンチメンタルは、典子さんへの愛情とは、別もんだと思っているようだ。
「美紗和さんはそんなにセンチメンタルじゃないわよあの人はずっとクールだから」
これにはエッと驚いた。
「外面はね、でも内面は裕介さんよりナイーブよそこが付け入り処よ」
「それをどうして見分けるんですか」
「もう坂部さんは見分けているんでしょうそれよりどうして裕介さんは典子さんの葬送曲にあの曲を選んだのかしら?」
「そこが親としての自覚に目覚めたんじゃあないんでしょうか」
「昴がねえ〜。それよりせっかく居残ったんですから手伝って下さる」
「此の家で僕に出来るのは留守番以外にはないでしょう」
「それなの、一同が帰ってくれば此処で骨上げ法要が有るからその準備をしておかないとそれでこの子の子守をして欲しいのよね」
どうやらもうみんな家を出払って、千早ちゃんの面倒を視られるのは、もう坂部しか残っていなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます