第63話 泉鏡花の夜叉ヶ池

 夜叉ヶ池に向かうルートはふたつあった。一旦福井市に出て高速道路で、北陸道、長浜から一般道路で北へ上がる。これはかなり遠回りだが、大半が高速道路になる。もう一つは岐阜方面の山道をひたすら走る。こちらは三十キロほど福井市経由より短い一般道だが、大半が山道で同じく二時間半ほど掛かった。運転経験の少ない坂部は遠回りでも大半が高速道路の方が安全で楽だと主張した。だが美紗和さんは最短の曲がりくねった山あいの一般道を走ると決めた。先ずは九頭竜川沿いに山に向かって走り、平坦な道は坂部が運転して、彼女が先ず腹ごしらえをした。山間部に入ると交代して坂部がお握りを食べた。

 彼女に言わすとこのためにオートマでなくマニュアル車を選んだ。山間部の登りも下りもギアチェンジを頻繁に繰り返して、ほぼノーブレーキーで走破する自信が有った。即ちエンジンブレーキだけで速度を調節するのだ。直線でシフトアップして加速する。カーブに差し掛かるとタイミングを計って、シフトダウンしてノーブレーキで曲がると、また直線でシフトアップして加速する。此の連続操作で曲がりくねった山道を彼女はひたすら走った。

「電車なら福井に出でJR北陸線に乗り変えて敦賀の手前の今庄駅で降りて登山道を歩く。電車で一時間半、今庄駅から三時間は掛かるでしょう」

「じゃあ、あの三人が夜叉ヶ池に行ったとすればまだ登山道を三分の一しか進んでないわね」

「それじゃあ同時に着けるのか」

「それは無理、駐車場は池の二キロほど手前だけどそこから一時間以上は山道を歩かないと着けないわよ」

「美紗和さんは裕介が夜叉ヶ池へ向かったってう確信はあるんですか」

「翔樹さんの推論から泉鏡花に辿り着けばもうあの夜叉ヶ池しか残らないでしょう」

 どうして典子さんは利貞ちゃんまで連れて行ったのか。それとも高村がそうさせたのか。これは美紗和さんに聞いても、答えたくなかったようだ。

「それはあの伝説を知っているからですか」

「噂はね、龍神伝説でしょう」

 夢枕に現れた龍神に雨乞いの祈りが叶って、現れた龍神の化身である若武者に約束の娘を嫁がしたが、龍神に生贄にされた娘が龍になって現れる。また他には、此の池に身投げした夫婦が、龍になって現れるというのが、此の池にまつわる数多い伝説のようだ。

 泉鏡花のは大正年間を舞台に此の伝説を基にして書かれている。池には龍神が封じ込められて、毎日鐘を鳴らせば池の水が溢れずに村を守ってくれると一人の老人が鐘をいていた。これを信じて美しい娘と一緒になった夫婦が老人亡き後に鐘をいていた。此の言い伝えを守ると謂うが、こう日照りが続くといつの間にか村では、これが伝説なのか現実なのか見境が付かなくなる。鐘が鳴らなければ池の水は溢れて洪水になるのは、此の日照り続きに結構なことだ。そこで此の娘をいけにえにして雨乞いをしょうとするが、娘は自害して夫も後を追って鐘を撞く者がいなくなり、龍神の怒りに触れてしまう。

 この村に古から伝わる風習、伝説を何故守るかと人々が悶々とする。これが裕介には高村家に三代に亘って伝わる遺訓に喩えれば自ずとリンクしてくる。

「亡くなった祖父からどう受け継ぐか考えたのねあの子は」

「正面向いて真面に考えるより如何どうすれば避けられるかを思案する高村が思い詰めればそこへ行き着くのは当然の成り行きだろうなあ」

 しかも此の根源は本当に典子さんの為なのかおじいさんの為なのか、本人しか預かり知らずに自ら招いたものだ。その祖父が亡くなれば根源の利貞ちゃんは、完全に宙に浮いてしまう。それを完璧に仕切るのが、父親である裕介の甲斐に掛かっていた。しかし彼奴あいつにその自覚が乏しければ如何いかがしがたい。まして今は一人でなくあの親子も一緒なら何としても思い留まらせる必要があった。その思いを乗り移らせた赤いコンパクトカーは、峻険な山道を走っていた。助手席の坂部は、彼の真意を読み取るために、何度も泉鏡花の本を読んで見た。

「どう、それで共通点が判ってきたの?」

 萩原はぎわらと謂う伯爵家にゆかりのある男が夜叉ヶ池にやって来た。そこには五十年にわたって明け六つ、暮れ六つ、丑満うしみつ、と一日三回、池に閉じ込めた龍神が暴れ出すのを防ぐために老人は鐘を撞き続けてた居た。その老人の鐘撞き小屋に泊めて貰った。此の爺さんが丑満つの鐘を撞いて急病で倒れてしまった。伝説を聞いた彼は明け六つだけは撞いて、此の村に爺さんの遺言を伝えて鐘撞きを委託して去ろうする。しかしもう此の村ではそんな伝説を誰も信じなかった。それでも関わりを避けて村を出ようとした。その時に美しい娘、百合に出合う。もし村が水没すれば此の娘は死ぬ。萩原は此の娘の為に村に残り一日三回の鐘を撞き続けた。そこに日照りが続いて村は娘を犠にして雨乞いをするが、娘はこばんで自害する。萩原も後を追うと、鐘を撞く跡継ぎをこばんだ村は、龍神の怒りを買ってしまった。

「朝の鐘だけ撞いて行こうとする処があの子の考えそうな事だと思わない?」

 坂部の話を聞きながらも、美紗和は見事に次から次へとカーブに差し掛かると、ギアを的確に切り替えている。此の人は頭と視覚は、完全に分離していると感心させられた。

「なるほど裕介のやりそうなことだ」

 と坂部は頷いた。彼女が聞き終わった頃には登山口の駐車場に着いた。直ぐに二人は無言で車から降りて夜叉ヶ池に向かう山道をひたすら登りだした。

 


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