第62話 伝説の夜叉ケ池へ

 坂部は酔いに任せて近松の作品をそう解釈して、高村の置かれている状況を分析した。説明を受けた美紗和も、尋常でないであろう弟の精神状態を、近松の作品に似通っている点を見付け出して理解したようだ。

「貴方の言う違いは理解しても現世でどうにもならないものがあの世に有るわけがない生きて生き抜いてこそ愛は手に入るものでしょう。でもまさにいい加減な生き方を好む弟には近松の作品は都合のいい解釈なのね」

 この解釈で高村の考えに何処まで迫れたか推量した。

「でも人は追い詰められるととんでもない事をしでかす奴となるほどと思わす行動を取る者とに分類されるが彼奴あいつはどっちなのかまだ決めかねているんですよ」

 それは典子さんへの思いが、果たしてどれほどのものか、伝わってこないからだ。そこを踏み誤ると益々あいつの考えから遠のいてしまう。その点について美紗和さんの意見も聞いてみた。

「そうねー、ぶっちゃけて弟と話したのは中学生までで高校生になるとそんなものは仲の良い友達にぶっ付けていたようなの」

 あの冬枯れに似た木に舞い降りるのは死臭に集まるカラスだけなのか。

「高村にそんな友達が居るようには見えないし居れば久し振りの帰郷に訪ねて来ても良さそうなものなのに……」

 それとも止まり木を見つけても深い森を目指すように、此処の家の敷居はそれほど高いのか。それならメールか電話の一つで済む話だが。いまだにそんな友達からの便りが来た雰囲気には接していない。矢張り彼奴あいつがそれどころじゃないのは、典子さんの存在かも知れない。ならばどれほどの思いをどちらか、あるいは双方が寄せているのか知る必要があった。同じ屋根に暮らしている家族全員が気付かないのなら何もなかったのか、あるいは二人の隠蔽工作が絶妙だったのか。どうもあの二人を見る限りどっちにも当てはまりにくいほど二人の行動は淡々としていた。側に居る姉さえも欺けるほどの気の利いた才能があの二人に在るとも思えない、そんな二人に果たして恋はあるのか。それとも祖父の意向に殉じていただけで、思いは別物なのかも知れない。それほど二人の判断を見極めるのは難しく、しかも外れるととんでもない事態に陥る。

「美紗和さんはもう部屋へ戻って寝たらどうですか」

「もうー、そんな暢気のんきな事をよく言えるわねでも内面はそれどころではないのかしら此の焼酎をあれほど呑んでも気が晴れないのがその証拠でしょう」

「まあ此の焼酎は悪酔いしないから少し呑むと益々と頭が冴えて困ったもんだ。それより高村は部屋に居るんだろうか美紗和さんの部屋は隣だから判るでしょう」

「家の造りは和風だけれど特にあたし達の部屋は丈夫な壁で造ってあるから余程大声を出さないと無理なのよ」

 そこが襖一枚で仕切られた我が家との違いかとうらやんだ。とにかく夜の明けないうちに彼女は戻った。

 翌朝には、夜遅くまで議論して呑んでしまった美紗和と坂部は、スッカリ寝過ごして起きたのは朝の九時を過ぎていた。坂部は慌てた美紗和さんに叩き起こされた。二人はまだ食堂に居た千里さんに尋ねると、典子さんは今朝早く出掛けたそうだ。

「一人で?」

 席に着くなり出された珈琲より先に訊いた。

「ううん利貞ちゃんを連れて」

「子連れで? 裕介は?」

「裕介さんは一緒じゃあなかったけれど食事に呼びに行った時にはどうも留守で出掛けたらしいの」

「一人で?」

 二人は砂糖抜きの珈琲をたしなみながら同時に訊いた。息の合った二人に千里さんは笑っていた。

「それが一人で出掛けたようだけれど……」

 聞いた二人は珈琲処ではないと顔を見合わせた。

「多分どっかで典子さんとは待ち合わせをしたのか呼び出したのか判らないけれど利貞ちゃんを連れ出した以上はどっかで落ち合っていると思う。多分一緒のところを家の人に見られたくないから別々に家を出て行ってもう一緒に行動しているはずじゃないかしら」

 謂われてみれば今朝六時過ぎに出たのならもう三時間ほど過ぎていた。

「何処へ行ったのだろう公認の親子なら遊園地辺りだが訳ありの親子ならとんでもない所でなきゃあいいんだが……」

 美紗和さんは言葉尻が気になり、直ぐに坂部と一緒に裕介の部屋に調べに行った。部屋はいつもと変わりがなかったが、机には読みかけの本が一冊残っていた。その本を美紗和は手にとって暫く落ち込んだ。その本を坂部も手に取ってみた。昨夜か今朝か判らないが高村が読んでいたのは泉鏡花いずみきょうかの『夜叉ヶ池やしゃがいけ』だった。追い込まれた彼奴あいつは次第に幻想的な本に陶酔していったのか、余りよい兆候じゃあないが……。

「きっとここへ行ったのだわ」

「近いんですか」

「同じ福井だけれど岐阜との県境にあるの」

 そんな山の中にある池に一人なら趣味かも知れないが、典子さん親子も一緒なら何しに行くんだ。

 千里さんには今すぐに夜叉ヶ池に行くと告げた。

「亡くなったおじいさんから聞いたけれど山道で軽装じゃダメ。それにお腹に何か入れておかないと体力が持たないわよ」

 と直ぐにお握りを作ってくれた。

 山道だと聞いて典子さんと子供を心配すると、千里さんは彼女は少し修行を積んで、子供は二歳だけどおじいちゃんに鍛えられているが、それより何もしていない裕介さんの体力を心配していた。

 とにかく今はそこしか手掛かりがなかった。よしそこへ探しに行こうと、二人は赤いコンパクトカーに飛び乗って出掛けた。途中で千里さんが作ってくれたお握りを頬張りながら夜叉ヶ池に向かった。



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