第57話 典子の話

 坂部が夏休みから逗留している部屋は、和室旅館の佇まいに冷蔵庫が運び込まれた。あとは座卓と座椅子だけで隣の書斎で疲れたときに寛ぐだけの部屋だ。しかも庭に突き出した茶室の二階なので、本宅と建て増しした奥の離れの境目にあり、まさに誰が言うでもない隠居部屋だった。そこでいざ一人で待つとなると、随分と長い時間に感じられたが、実際はそれほどでもなかったようだ。やって来た典子さんは真由さんとの話が弾んだのか、帰りの車中より元気になっていた。これなら何を訊いても心配ないと思えたが、ひよっとして坂部から何を訊かれてもいいように、元気づけに真由さん所へ駆け込んだのかと余計な詮索をしてしまった。

「何やろう帰って来るなりお台所はええさかいにここへ行くように千里さんに言われたけれど……」

 と坂部の出方を見透かすように取って付けた物言いに呆れてしまった。此処で単刀直入に切り込んでくる美紗和さんや千里さんとの違いをまざまざと見せつけられた。これでは高村から先に手を出したと結論づけられるが、先ずは真由さんの様子を訊いた。真由さんとは高校時代の思い出話に終始して気分を落ち着かせたようだ。そこまでして心の準備があれば良いだろうと切り出した。

「天守閣のあのはしゃぎ廻る子供たちに紛れて訊かされた一件ですけれど……」

「それがどうしたんですか」

 凄いバリケードや高村はこれを踏み越えたのならば。

「これは大事なことやさかいハッキリさせんとあかんでしょう典子さんもそのつもりで云う切っ掛けを探していたように思ったんですが違いますか」

「そやねェ」

 そう謂うと典子は真面に坂部の顔を見据えてきた。危険ラインを越えると此の人はホテルの前でも躊躇出来ない程に脆いのかも知れない。

 彼女にすればまだ此の話は広まってない。それはあたしの意見を聞いて、納得感がなければ此の人は沈黙を守る人や、と思ったから気を落ち着けていると見た。ならばトコトン話してみよう。

「いつからですか」

「千里さんが家に来てからおじいちゃんはスッカリあたしには厳しいことは言わんようになって張り詰めていたもんがスーと無くなって何か一本芯が抜けて気持ちがだらけてしまって……」

「そうか千里さんを見初めたときからおじいさんは方針を変えたんか」

 正直言うと変えさせてしまった。

「もうあたしはええ人を見付けて此の家を出て行くさかいおじいちゃんはもう内に関わらんといて欲しい」

 と言ったときにはもう向こうは渡りに船やった。

「おじいさんにはもうその時には千里さんの存在があったんやなあー」

「そうや、でもその時は誰も知らんかったそりゃ当たり前や婿さんの克之さんも知らんのやさかい内が知るわけがない」

 そうなると遠いところから励ましていた裕介がえらい身近な存在になってきた。と謂うか祖父の干渉がなくなると、裕介はしんみりとしてきた。まあ小さいときからずっと一緒に居た遊び相手だから、その延長で一緒に居ても周りの人は普通に見てくれた。それが幸いしたのか裕介から誘われても、誰も気付かないうちにズルズルと深入りしてしまった。その頃には妊娠した千里さんがどうも女の子やと解ると、また祖父があたしに関心を持ち出した。

「どんな風に」

「おじいちゃんが何か催し物があると裕介をいつも連れ出していたのがあたしも一緒に誘うようになった。それどころか適当なところでおじいちゃんは遊行費だけ渡してサッサと帰るようになってから裕介にホテルに誘われた」

 祖父はまだ高校生の高村に金と暇を与えている。それはどう見ても祖父が後押しして、あわよくば後継を望んだと思われても仕方が無い。実際に千早ちゃんと利貞ちゃんは年子のようにして生まれた。

 それから妊娠が判りそれが男の子だ知ると、直ぐに遠い所の知り合いに預けられた。

「そうか誘ったんは裕介かそれにしてもおじいさんは何でそんな急に忙しなく動いたんやろう」

「渡り鳥の刷り込みや無いけれどちゃんとした跡取りとして道筋を付けようと思えば十年は掛かると言ってました」

「すると祖父はもう八十半ばになるんかそりゃあ慌てるわなァ」

 美津枝さんの子供が男の子ならもう楽隠居なのに。

「それでおじいさん亡き後は典子さんはどうするんですか」

「それは裕介のお父さんやその家族が決めることであたしはそれに従うしかないでしょう」

「でも利貞ちゃんは裕介の子供何でしょう。なら粗略には出来ないでしょう」

「でも裕介は次男です。それに会社のことは何も知りません」

 付け加えるのなら今年大学に入ったばかりの一回生で年下のお坊ちゃんか。

 当然典子さんは裕介に真っ先に相談したいのだろう。祖父から子供を当家の後継に頼まれた典子さんだが、祖父亡き後四代目の意味がなくなる事に独り悩んで居る。此の現状に裕介は頼りにならないと悲観しているようだ。

「まあなァ。それに彼奴あいつは柳のように風任せな処もあるからなあー」

「どうすればいいんです」

 頼る相手が違うだろうと思ったが、知った以上は彼女を抜きにして、彼奴あいつとトコトン話を煮詰めるしかないか。

「判った取り敢えず高村、いや裕介と腹を割って話してみる」

 それを聞いた典子さんはホッとしたように頬を緩めて夕食の準備に部屋を出た。

 静まり返った障子を見詰めていると「しかしひょっとして高村が俺を実家に誘ったのは此の尻拭いをさせる為なら真っ平ご免だ」

 まさかと想うが此の高村らしからぬ一つの仮説が頭にこびり付いた。



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