第54話 祖父・利恒の意義
三人は登り始めると道は城の防御を兼ねて、幾十にも曲がりくねった山道が続いてやっと天守を前にして左の山道に入った。前回はこのまま真っ直ぐ行ったが少し遠回りするようだ。そこで最初に見えたのが七代目の藩主土井利忠の銅像だった。此処の東屋には幕末の大野藩主利忠が遺した偉業が記された長文の案内板が掲げられていた。
「此処は天守の最短コースから外れて関心のない人は寄らないだろう」
「そこだ!」
高村は祖父といつも連れ添って色々な所で見学を広めた。お陰でその祖父とは一番近いところに居た。それだけに此処は一人で訪れた時には、簡単には素通り出来ない場所だった。
「なぜ前回は寄らなかったか入れば解るだろう」
「いったいこの狭い東屋の中には何があるんだ」
「あの幕末当時としては他藩が尻込みする偉業をなし得た藩主の功績だが、もう誰も見向きもしないのならもうあの覚え書きに執着すべきだろうかとおじいちゃんは思ったが此の城を見るたびに『いや、そうじゃあない先人の
と先ず高村が東屋に入り典子と坂部が続いた。
利忠の業績が記された案内板には年代と簡単な経歴が書かれていた。
先ずは幕府が諸藩に蝦夷地開拓の参加を呼びかけた。各藩が尻込みする中でこれにただ一藩、越前大野藩が樺太の開拓を願い出て安政三年に許可された。これに依って大野藩は安政五年(千八百五十八年)から開拓に着手した。場所は北蝦夷地(樺太)北緯四十九度近くの
藩は此の大野丸を使って蝦夷地の海産物と内地の物品との交易を通じて藩の財政難にも一役買った。
坂部はそこで利忠が樺太開拓での業績を初めて知った。
「此の大野藩の樺太開拓でうちの先祖は大いに貢献したんだそれで明治になって廃藩置県で越前大野藩は幕府から認められて開拓した樺太の領地を新政府に返上したその折に藩から樺太開拓に尽力した高村家に報いるために希望した藩主の名前を名乗る事を許されたって訳だ」
「それが今から百五十年前の覚え書きか」
「おじいちゃんからの又聞きで覚え書きじたいは見ていないがだいたいそんな風な約束事が記されているはずだ」
「身分制度が厳しい封建社会の当時としては藩主の名を頂くことはどんなものにも代え難いものだと思うが……」
と坂部は価値観が多様化している現代社会では受け容れがたい問題だと認識したが、これに振り回された典子さんはどうだろう。彼女はまだ業績が記された案内板の前に立ちすくんでいる。これには坂部も高村も掛ける言葉がなかった。けれどいつまでも此処に立ち尽くすわけには行かない。高村が黙っていれば坂部が言うしかなかった。
「典子さん、どうだろうそろそろ此処を出て天守へ上がって気分転換しませんか」
彼女は坂部の声にようやく利忠の経歴が掲げられた案内板から目を落として振り向いてくれた。
「あたしの人生ってこのために費やされたんですか」
典子さんは高村に思いの丈を打っ付けた。
「……」
高村は瞑想するように腕組みしてもう一度、利忠の記録を黙読した。
「それを聴いて一つの不安が払拭されましたもう此処を出ましょう」
黙読する高村にとっては何とも形容しがたい坂部の声に「歴史その物が不安なんだ」と無粋に独り言を云う高村にも、坂部は此処を出るように促した。坂部の声にようやく高村は踵を返す前に、それでも立ち尽くす彼女の肩に手を添えて外へ向かうと彼女はやっと歩き出した。
「今の天守は利忠の業績を払拭する所でなく将来に向けて何かを思い起こさせる場所だから此処で思い煩うより新たなものがすんなりと受け入れられると思う」
だから天守に向かうようにと坂部は典子の気持ちを和らげるように言い掛けた。
「それで祖父の行動が払拭出来ればいいですね」
と応える典子さんの穏やかな表情を見て坂部も一息吐けた。これでもう祖父から受けたものは、彼女には想い出として、心の深い闇に葬られたと坂部は思ったのだ。だが高村は今までの苦労がそう簡単に繕えるものじゃない、と言わんばかりの渋い表情を見せていた。
三人はそれぞれの思いを秘めた足取りで天守に向かって歩き出した。
「典子さんは地元に居ながらにして城を見上げるだけで城から見下ろしたことはないんですね」
「あの城はあたしにとっては長いあいだ踏み込めない聖域でしたから」
それは祖父が、先祖代々仕えてきた藩主への忠節心から、城に足を向けさせなかったからだろうか。それほど利忠の功績が偉大なのか、それとも凡庸なのか。それが此の高村家では、平成の世の中まで問われることもなく、延々と続けられた意味は何処に有るのだろう。
確かに幕末の我が国で、ただ一藩だけが幕命でなく自ら進んで極寒の地を開拓した。その利忠の業績は絶対に闇に消し去ってはならない。その思いがあの家には藩主の名と共に脈々と受け継がれてきた。その重責と現代社会の発展を通して、高村家の祖父は葛藤の中で遣り掛けた遺訓の結論を出す前に生涯を閉じた。藩主利忠の開拓精神、それを受け継ぐかどうかは、此の事実をどう受け止めるかに掛かっていた。
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