第42話 美紗和の気合い

 話にのめり込んでしまって目の前の刺身が、早う食べてくれと囁いているようで、思わず箸を取って食べ出すと、彼女も合わせてくれた。どうやらこれは鮎の塩焼きの前宣伝に期待する家族のために、釣れるわけがないと、今朝、三国港で水揚げされたばかりの鮮魚を急遽取り寄せたらしい。

「じゃあ近所のスーパーじゃあなかったの?」

 スーパーに居るいつもの馴染みの人に相談すると、九頭竜川の鮎より活きの良い魚が入ったと聞かされて千里はそれにした。

「ア〜ア、釣りすぎたのか」

 と意気消沈したが「心配無用と、知っているのはあたしと千里だけだ」と言われた以上は、如何どうしても此の刺身は今晩中に処分する必要に迫られた。

「余計な苦労を掛けましたね」

「まあね、それより典子さんの苦労を思えば大したことはないわよね」

 と矢張り彼女も気にしていたようだ。此の辺りから話に夢中になり喉の渇きを潤すために呑んでいたのが、じっくりと刺身を咀嚼しながらになった。

八ヶ月程前までは遺訓どおり、高村家の有りようをそのまま受け継いできた祖父に、一番に翻弄されていたのが典子さんだ。だがその糸が切れると、コントロールを失った高村家は、表向きは平静を保っていても、内情は典子さん以上に右往左往し始めていた。これには典子に肩入れしすぎた弟を美紗和さんは心配していた。

「いったい祐介はいつから典子さんに対してどれぐらい首を突っ込んでいるのか坂部翔樹さんは知っているの?」

 ウッ? 彼奴あいつの予想が当たって来た。これは正気(翔樹)の沙汰だろうか。

「美紗和さんもそんな典子さんをどう見ているんでしょうか」

 と初めてファーストネームが混じって呼ばれて、浮いた気分は飛んでいって正気に戻った。 

「見ても弟ほど気持ちに余裕がないのよだってどうしょうもないでしょうそう謂う星の下に生まれた人なんですから」

「シビアですね」

 これには我ながら正気に戻りすぎたと深く後悔して、急いで訂正しょうとしたが、それを彼女はさせなかった処か。

「何とかして上げたいのは弟と同じ。でも、家を、高村家が傾けば会社の従業員とその家族何百人が路頭に迷うことは何としても避けたい。そうなれば典子さん一人とどっちが大事なんですか?」

 と説教された。此の地方の小都市で、それほどの雇用があるとは思えない。何家族かは関西方面に職を求めて行くか、残る家族も父親だけ出稼ぎ労働者として行けば、典子さん一人の不幸を天秤に掛けた坂部の不徳の致す処だろう。

「申し訳ない。そこまで美紗和さんもそれなりに考えて苦しんでいるとは……」

「でも弟は何とかして上げたい」

 と彼女は坂部の心情を既に遥かに飛び越えて先のことを言われてしまった。

「典子さんもそうですけれど弟もそれなりに苦しんでいるのなら黙って視てられないでしょう何とかしてあげて」

 此処が弟と真の友情に芽生える境目だと、美紗和さんは強調して頼み込んできた。

 そうかそこまで言われれば、入学発表のあの日に乗り合わせたバスから芽吹いた出会いは立派に咲かせたい。一ヶ月の別荘代に匹敵する成果をあげないと、高村への誘いに乗ったはいいが、何もしない居候では格好がつかなくなってきた。 

「それでおじいさんが亡くなってから高村を除いた家族はどうなんですか相変わらず波風の立てないような生活なんでしょうか」 

「そうでもないわよもうかなり立ってる。おじいちゃんはいないんですもの今までの静寂は何だったのかと思うほどにざわついている」

「騒ぎ立てていますか」

「それが益々複雑になって」

 それは祖父の遣り方を良しとする者と、反感を秘めていた者達のせめぎ合いが始まり、お互いの出方を窺う様子見の中で漂う静寂感だ。

「そうかおじいさんは去年の暮れに亡くなりそれから全てを指導していた祖父のご禁制が解かれて八ヶ月も経ってもまだ家族一人一人の気持ちの去就が定まらないのか」

 祖父が言いつけて混乱した家族を、何処まで最小限に抑えて実行すれば良いか、まだ試行錯誤の思案中だった。常に家族会議を開いても何を解禁すれば良いのか模索中だった。それほどおじいちゃんの残した仕組みが、複雑に多方面に絡み合っていた。だから世間との比較をするのにあなたを参考に呼んだようだ。

「参考でなく意見を仰ぎたいのだろうと彼奴あいつは思っていてもお父さんは社長でお兄さんは重役と謂う社会的地位のある者が学生風情に聞くなんてあべこべでしょう」

だから高村家に滞在するただの一介の居候に過ぎない者から聞くのは知れている。

「会社での実績と今まで祖父が取り仕切った家業とは全く相容れない別物なのよ」

 何億という取り引きが出来ても、米の炊き方も知らない者もいるように、それほど分業された世界に浸かりきっていれば、知らないのは尚更のようだ。客観的に見ればどうすれば普通の営みに戻れるか、分かりそうなものだが、残されて初めて狼狽うろたえるのは、それだけおじいちゃんが偉大なんだろう。それでも何処までも絶大にふるまっていたものでもなく、かなり柔軟に対応していた。それが証拠にもうこの遺訓に従う意義がないと自覚する日々もあった。それでも先祖の業績をかんがみれば、中々踏み切れない祖父の苦悩を、家族が継承してしまった。

「そこが問題なのだが……」

「それで父や兄は仕事で夢中だからしがらみがない翔樹しょうきに弟は託したのよ」

 彼女がわざと敬称を付けずに呼んでくれた名前が、ぐっと胸に来て逆に気合いが入ってしまった。


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