第10話 美紗和
裕介の部屋が判った以上はこっちから出向いてやるか、それともやって来るのを待つか。久し振りに実家へ戻って来たのだから、両親に報告を兼ねて顔を見せに行ってるのかも知れない。暫くこの部屋の周囲を観察しょう。隣の書庫にはどんな本があるんだろうと廊下に出た所で、背格好も典子さんぐらいの女性とカチあわせした。違いは典子さんは白のブラウスに渋めの臙脂色のフレアースカートなのに、彼女はジーンズに紅い丁シャツで胸には横文字が入っていた。こっちも驚いたが向こうもびっくりしていた。しかしそれでも坂部より体勢を立て直すのは早かった。此の時は宙を舞った虚ろな瞳が、一瞬にしてしっかりと目尻を閉じ直して元の切れ長の眼に戻った。でもその表情からは想像できないぐらい、感情の籠もった優しい言葉が飛び出して坂部は眼を丸くした。
「あなたが裕介のお友達の坂部さん?」
ハイ、アッ、そうです。としどろもどろに返事して恐る恐る美紗和、さん、ですかと訊ねた。
「そう、部屋へ入って良いかしら」
「良いも悪いも此処はあなたの家でしょう」
「でもそこは裕介が決めたあなたの部屋」
そう云われれば今日から暫く俺の部屋になるのかと招き入れた。畳一畳分の座敷机が真ん中にでんと置かれて、中央の壁には組違いの床の間に、良く解らない水墨画の掛け軸が掛けてある。まるで旅館と変わらない雰囲気だった。
そこの押し入れに布団があるから、と云いながらも彼女自身で座布団を出して来て机の向こうに座った。
「裕介が言ってた通りの感じの人ね」
喋り方が緩やかで消えかかる語尾が、尻切りにはならずにスーと少し上がる処が心地よく聞こえた。
「裕介はどんな風に言ってたんですか」
ウフフと笑うとそうねおっとりした感じだって聞いたそうだ。
「それは多分最初の合格発表を見に行くバスの中でじっとしていたからそう思ったんだ」
「あらそう、それは初耳で聞いてないわよ」
とちょっと意地悪っぽく笑った。それで、と誘導尋問を受けて、裕介が人混みを掻き分けて突破口を作ってくれた。
「それでバスから降りられたって言うのね」
まあそんな所だと曖昧にした。
そこへよろしいですか、と木枠の間仕切りが入ったガラス障子の向こうから声がして、美紗和さんが勝手にどうぞと返事をした。
典子さんがお盆に果物を載せて持ってきた。彼女は開けるなり、あらっ、と美紗和さんがどうしてと云う顔をした。典子は奥様に言われて良く冷えた桃を切って差し入れに持たしたようだ。お盆ごと置いて典子は部屋を出て行った。
「家の人は気が利くようだけれど裕介はどうしてこない、今どうしてるんだ」
「久し振りに帰ったからあちこち顔を出しているからそのうちに来るわよ。だから一人で淋しい思いをさせないように代わりに来てあげたわけ」
「それは良いけれどいつまで話してるんだ」
「勉学には気難しい両親だから長いわよ」
「両親がどうしても帰ったばかりの裕介に詰め寄ってそんな話をするんだ」
「それが裕介の持って生まれた使命だから、あの子は厳格な祖父の尊厳を一身に背負わされて来たからよ」
「どうして長男を差し置いて末っ子の裕介が」
と言いかけて今朝、乗せてくれた運転手の大場さんがおじいさんが気に入っていたシーマの車検を聴いていたのを思い出した。何で親や兄でなく裕介だったのかを。
「典子さんのお母さんを引き取ったのもおじいさんですね。全てはその亡くなったおじいさんが去年まで差配していたんですか」
「知らないところをみると裕介から何も聞いてないのね」
美紗和は少し畏まったように姿勢を正した。そもそもこの町は越前大野藩の藩主土井家から当家は江戸時代から任されてきた由緒ある家系の末裔だ。それをおじいちゃんは意識して振る舞ってきた。そのおじいちゃんが手塩に掛けて育てられて逆らえなかったのが裕介なのだ。しかしそんな古い話を今此処で持ち出されてもピンと来ない。この町の長老から聞かされればウ〜んと唸りたくなるが、それを思想の先端を行っている人から聞かされても、眉唾物だと頭の中では取り次がない。
「それは両親も納得しているのか、第一そんなもんを立証する系図なんかはあるのか」
それは祖父の権力は絶大で、家系に関して当時は鵜呑みをするしかなかった。それに先ずこの家の規模と町から慕われている事実が実証している。祖父にそう言われればみんなはそれ以上はぐうの音も出なかった。
でもそれは戦後の高度成長期を巧みに乗り切れたからで、けして先祖の恩恵を余り受けてない。それは曾祖父の実力の賜であって、それを祖父がどう解釈しょうと裕介には関係のない話だ。とまで話した処で美紗和さんから、いったい裕介からどんなことを吹き込まれたのと呆れてしまった。終いには今日はともかく明日にでも、家の蔵を探してみれば何か出てくるかも知れない。どうやらあの蔵は祖父が亡くなるまでは、誰も出入りが許されなかった。それが裕介の今回の帰郷で、祖父の主張の根幹が揺れ出すと、祖父が一度は封印した蔵を開けて中を検分する必要が生じた。
「だからこれからどうすべきかコンコンと話を詰めて居るところなのよ」
「どうして裕介だけを祖父は可愛がる、目に掛けるのだろう」
「さあそれは両親に聞いても解らない、末っ子だから可愛がったんじゃないの」
と言われたが、直接高村に会わないと、それだけではどうも腑に落ちなかった。
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