第6話 坂部の事情

 恋を三十八度線にたとえるとは坂部も面白い男や。確かにあそこは越えられん一線や。同じように男女も超えてはならない一線だが、それは似て非なる。どちらも周りの賛同が得られなければ親別れ子別れの悲惨な人生が待ち受けている。国と国を分けているように、一方では男女のさが、関係を分けている。どちらもその一線を簡単に越える人と苦労して超える人が居るが、どちらも越えた後には人生の試練が待ち受けている。

 なるほど、恋ほど曖昧な定義はない。それで幸福になれる人も不幸にさいなむ人も出来てしまう。

「親や周囲の反対で引き裂かれる恋ほど悲惨なものはない。でもそれを超越した強い絆が出来ると、それは時には死をも恐れない」

「なるほど、それが心中ですか」

「何だ、今更ながら知らんことはないだろう」

「知っていたが、周りの迷惑を考えない我が儘な連中だと思っていた」

 すると高村は、お前は本当の恋を知らん奴だと笑った。

「身分制度の厳しい昔は、死んであの世で結ばれると思えばこそ、変わらぬ想いを伝える手段だった」

 と言われても生きるのが精一杯の坂部には伝わらない。

「そやろか、そう言い切れる高村は、矢っ張り何不自由なく育ってるさかいや」

 高村は真っ直ぐ坂部を見据えて、暫くは様子を見たがそこには怒りはない。ただ素朴で純粋な瞳だけが輝いていた。

「そんなにハッキリ言われたのは坂部、お前が初めてや」

「気分を害したか」

「いや反対に気分がスッキリした。姉にも同じ事を云われたがいつも俺は反発していたのに、お前が云うとそんな気がしないのは、ひょっとして相当苦労してるからやなァ、そんな恵まれない家庭やと学食で一緒になって解った」

「そうや、あれは超越してはならん家庭の懐事情や」

 そやさかい、行くには一つ問題があると坂部は言い出した。

 どうやら坂部の実家では、彼が出た部屋は、もう他の兄弟が使って、帰るなら早めに連絡してくれと言われて、高村の申し出は地獄に仏で前向きに検討した。

 有り難い申し入れで、いっときとはいえ自室を占領された実家の現状を見れば頭が下がる思いだ。それほど坂部の実家は、多い兄弟の為に空けておく部屋はなかった。だが部屋数で困窮していることは高村に言ってない。この頃には昔より良くなったが、家は改築もなく現状はそのままだ。それでも実家の状態については見栄もあり、少しは無理して余裕のあるように高村には喋った。

「だからそう言う屋敷は、仕来しきたりとか作法が在るんじゃないのか」

「アホか君は、世間を知らんのか。籠の鳥か、お前の若狭も幾ら田舎でもそんな一昔前と今とはちゃうやろう」

 そうかも知れんが、昔は田畑は手に入っても、家の近所は殆どが大家の土地で、大半が借家暮らしだ。それで近所では当番制で子供達が、昔は大家の家の庭掃除をさせられた。家に上げてもらうときは行儀よくさせられた。それでもみんな黙っていた。なんせあの家に六人も兄弟が居るから二人で狭い一部屋を使って、一人で物思いに耽る場所はなかった。その所為せいでもないが、高村と同じように本だけはよく読んだ。

「別にそんな仕来りはないよ。俺の食べ方を見て判るだろう」

 洋食はナイフとフォークを使うところは、食べやすいサイズに切り分けて、あとは割り箸を使って食べていた。最初はマナーがなってないのかと思ったが、そうでもない。高村なりに食べやすければ良いと気にしていない。

「坂部、お前とはいつも学食で会って、俺が洋食でナイフとフォークを持つのは最初の切り分けでその方が食べやすいからだ。同じように飾り立てる男より、素朴な坂部の人柄が気に入って此の夏の帰郷に誘ったのだ」

 くだらん女からの噂話は聞いたと思うが、高村家はあのちっぽけな町では数百年も代々続く名門の旧家だが、戦後はなりを潜めてスッカリ変わった。それでも昔からの言い伝えは廃れることなく続いているが仕来りなんかどうでも良い。俺の家で好きに振る舞ってくれと頼まれた。高村は今までの慣習を打破したいようだ。

「それで俺に白羽の矢を立てた処で、見ての通り俺はそんなもんには無関心だが最低限の秩序は守らんと村八分にされてしまうからなあ」

 坂部の本音は、合格発表の日に乗り合わせたバスの中で十分に判った。あの時、高村が居なければ、そのまま乗り過ごすところだった。

「あれは普段の地がそのまま出てしまって、今振り返れば恥ずかしい次第だ」

 と云うが、高村のあの満員の人を掻き分ける強烈な活力には恐れ入った。

「それでどうしても此の夏は田舎へ帰るのか、まだ来たばかりなのに」

「ああ、どうしてもこまめに帰らないとうるさいんだ」

「何だ、お前でも気になるとはどんな田舎なんだ」

「だからそれは来れば解る」

 その前に、なんせ昔は小作人だった名残で、何百年と続いた地主のお前に比べれば、俺の素行は驚くぐらい悪いぞ。なんせ曾祖父の代に小さいながらも田畑だけは自分の物になったばかりだ。お前ところの様に何百年続いた名門の家柄でなく、七十年前の農地改革で狭いながらもやっと地主になった家だ。

「俺は、親の代までに都会生活はテレビで知ったにわか仕込みだから苦労するぞ」

「大丈夫だ、そんな事で咎めるものは誰もいない。ちょっと目を細める程度だ。今時そんなもんで目くじら立てる方がおかしい」

 よし解ったじゃあ行くよ。





 

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