正正正正正一

@siroimoku

一枚の黒板があった

 黒板が路地裏に置いていた。前回ここを通ったときは無かったはずなのに……。

「これは、一体?」

 急いでいるはずなのに、ついつい黒板の前で足を止め、考え込んでしまう。


 ***

 

 夕焼け時。大学の授業が終わり、今日はもう予定はない。といいたいところだが、自分が熱意を込めているゲームのイベントが5時から開始する。

今は、4時48分。家までいつもの帰り道では30分ほどかかってしまい、どう足掻いても開始までには間に合わない。今回のイベントは他のプレイヤーと競い合うものなので、たとえ10分でも無駄にはしたくない。

ならばと、右手に見えてきた建物と建物の間の道へと目を向ける。あの道は狭く、雰囲気も悪い。できるならば使いたくないのだが、ここを通れば家にたどり着くまでの時間が半分以下になる。その上で走ったなら余裕を持って家に着く。とはいえ、あの道は汚い。あの道を通ると考えただけで嫌悪感を抱くほどだ。……しかし背に腹は代えられない。

そうと決まれば、人の流れに合わせて歩いていたのを方向転換。流れを裂くように進む。

歩いていると、ふと、ここを最後に通ったのはいつだろうと、どうでも良い疑問が湧き上がってきた。

……多分3週間ぐらい前かな。そう考えると意外とこの道を使っているんだな。まさか、4年後には、毎日使うようになっていたりして。はっはっは、。

数メートル進むと、大通りから狭い道へと、そして、太陽の光が届かないジメジメとした薄気味悪い道へと入った。

「よおーし、いっちょやってやりますか」

 歩きながら、体のあちこちを伸ばす。走るのは久しぶりだ。高校での体育以来ではないか。途中で怪我をしてしまっては元も子もない。例え、雀の涙程度の効果であっても、ストレッチをやっておいて損はないだろう。

 そう思っていると、ふとあるものに意識を奪われる。

 それは、別段派手な色をしているわけではない。むしろ、黒や茶色を基調としている。しかし、周りが汚れているからこそ地味な色であるのに対して、それははじめからそうあるべくしてその色をしている。特有の美しさがあった。


 それは黒板だった。サイズは学校にあるものを大体半分にした程度。近くにはチョークが箱に入れらた状態で置いてある。


「……」

 『正正正正正』と黒板には書かれている。前回ここを通ったときはなかったはずなのに……。

「これは、一体?」

 急いでいるはずなのに、ついつい黒板の前で足を止め、考え込んでしまう。

 何というか。この出来すぎている感じ。黒板にチョーク、仕舞いに『正』が5つ並んでいる。あれだろう。数を数えるやつだろう。ということは、これは25と言うことだ。

 こんな誰も通りそうにない場所で何を数えている。

 いや! それ自体が調査内容か。

 誰も通りそうにない道を、いったい何人が通っているのかを調査しているのではないか。確かにそれならあり得そうだ。

 右足に体重を掛け、手を組みながら考える。視界の左端には夕日で赤く染まった町と、疲れた顔で歩く男性が写る。

 僕も書いた方が良いのだろうか。いや、書いてしまっても良いのだろうか。例えばだよ。例えば。もう集計は終わっていて、ただ、片付けの途中だってことも考えられないか。質問事項が書かれていないのだって、そこは片付けてしまったと考えると筋が通る。

 いや、いやいやいや。そんなことがあるか、普通?

 片付けを後回しにしていたとしても、まだそんな遅い時間ではないぞ。だったら、関係者が近くに居るだろう。

 よし、書いてしまおう!

 地面に置いてある白い箱へ腰を下ろす。そして、10本の中から―なぜか赤や黄色、紫まで入っている―白色のチョークを取る。すると、なんとなく利き腕につけていた腕時計が視界に入ってきた。

 時計は短針が4を、長針が11を指していた。

 その瞬間、体中から汗があふれ出す。

 まずい。時間が、こんなにも経過している。

 本当ならとっくに家についていい時間だ。

 なぜ、なぜこんな事になっているのか。全部この黒板のせいだ。これさえなければ……。

 いや、違うか。この苦痛も悩みもすべて、僕自身が生み出したのだ。何も考えずにいられたなら、ふわふわとした時間を過ごせたはずなのに。

 チョークを持った右手を上げ、黒板にぶつける。トンっと硬質な音が響く。このまま横にずらせば終わる。

 やれ、やれ、やれ、やれ……やれ!

「はあ、はあ……はあ」

 背中に一粒の汗がツーと流れる。ここまで精神的に追い詰められたのは中学の初めてのテストで何も分からなかったとき以来か。

 終わらせよう。こんなくだらないこと。

 もう一度、チョークを持った腕に力を込める。このまま一気に!

「ふっ」

 やれ、やるな、書いた方がいい、書かない方がいい、書こう、書いたらどうなる、書け、書くな……

 ―しかし、腕はピクリとも動いてくれない。

もう、気力を使い果たしてしまった。腕から力が抜ける。まるで泥が崩れるように右腕が視界から消えた。

 脳の神経が摩耗し、思考が明滅する。物事を処理することができず、時間だけが過ぎていく……。

 どれくらいの時間が立ったのか分からないが、いきなり、ピロンとスマホから音が聞こえてきた。基本的に通知は切っており、唯一ゲームに関わる内容についてはオンにしている。

 ということは、この音は五時を告げる鐘である。

 あ、あ、あ、あ、あああああああああ。

「どうしようどうしよう」

 黒板を見る。チョークを見る。黒板を、チョークを、黒板を、チョークを、黒板、チョーク、黒板、チョーク黒板チョーク黒板チョーク黒板チョーク黒板チョーク。

 五時になっちゃった。どうしよう。もうイベント始まっちゃった。なのにまだ全然家に着いてない。問題も片付いていない。あああああああああ。

 思考が出来ない。ただ呼吸が速くなり、振動の鼓動がうるさく体の中で響く。

 どうしようどうしようどうしよう。決めなきゃ。決めないと。

 空いている手で頭をかきむしる。心はまるで落ち着いてくれいない。でも、どこか自分の人生そのものがどうでも良くなっていくのを感じる。

 くそっ。もう良い。どうなってもいい。説教されようが、捕まろうが知ったこっちゃない。

 下げた右腕をもう一度上げる。そして、一番右の『正』の隣へ置く。音は出ない。

 もうどうなってもいいや。

 心の中で呪文を唱えてから、一気に横に滑らせる。あまりにも濃い『一』が黒板に追加された。

 

その後、15分ほど掛けて家に帰った。帰ってから僕はリュックの中を整理することもなく、ベットに横になって、寝た。


 ***


 二日後

 例の裏道にて上下ジャージ姿の―おそらく3年生―大学生が歩いていた。だるそうにしており、時折頭を右腕で押さえている。二日酔いなのだろう。

 ジャージ姿の大学生が、何かに気づいたように視線を動かす。その先には、この場所には似つかわしくない黒板が置いてある。

「あったあった」

 とろとろと歩き、黒板の前に立つ。

「俺は何でこんなものを研究室から持ち帰ったんだよ」

 酔っ払いの愚行、というには少々大きすぎるだろう。しかし、真実である。

「戻さないと……。はあ」

 一言だけつぶやくと、ジャージ姿の大学生は黒板を持ち上げ、チョークを持って大学へと向かっていった。

 『正正正正正一』と書かれた黒板を。

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