第8話
私の不安は、普通に考えればただの杞憂で片付けられるだろう。お前さんムスカリの植木を見たことがあるかね。あの葉が茂っていて、土の上を覆っている様子よ。植木がひっくり返らない限り、蛾はどこにも行くはずがなかった。そう、どこにも行くはずがなかった。だが奇妙なことに、蛾はすっかり姿を消していた。土をすこし掘り返しても、翅のかけらの一枚も、触覚の毛の一本も出てこない。次の日私は仕事を休んで、部屋の中から出ることはなかった。私は何もかも失った気がしていた。ただおもむろに『蜘蛛の絹』を引っ張り出してきて、まるで狂ったように文字を追いかけた。あるかどうかもわからない自分自身の才能にしがみつきたかったんだろう。醜態を晒すというのはこういう事を言う。私が『蜘蛛の絹』の組み直しをやり終える頃にはもう一週間がたっていた。その間仕事にも行かなかったんで、事務の仕事はクビになったさ。もう後戻りはできなかった。
そしてこれが本当に最後だと思って、編集部に『蜘蛛の絹』を持ち込むことに決めた。自転車に乗って、原稿がパンパンに入った馴染みの茶封筒を持ち、すり減った靴底を潰しながら駅まで行った。紀美子がいつものように花に水をやっているのを横目で見ながら、反対の道路を渡って、わざと紀美子に見つからないようにもした。もしこの原稿を受け取ってもらえれば、当初の計画通り紀美子の店で花を買って、『蜘蛛の絹』を読んでもらう。私はそう思案していた。だがどうだ、そんな日は一生訪れなかった。この日は七月二十二日、月曜日、私の馴染みの編集社が単行本を出す日で、駅には今や誰もが知っている名小説が並んだ。『絹糸の夢』岸信介作だ。私はもちろんそれが目についた。岸信介、それは前も話した通り、私を先生と慕う朝山先生の研究室生の名前だった。私の小説を熱心に読んでくれる男子生徒で、よく飲みの席でも一緒になって小説戯談を交わした。だがどうだ、私は彼が小説を書いているなんて知らなかった。おそらく同姓同名の誰か、そう思って手にとってみると、作者の説明には都立大学生哲学科専攻の文字がある。間違いなく岸くんだろう。しかもそれだけじゃない。都立大学朝山行成教授絶賛の帯も巻いてある。そんなバカな、朝山教授は一度だって私の小説を読んだことなどなかった。それなのに岸くんの小説は読むのか。だが何よりも重要なのは内容だ。題名は『絹糸の夢』と、どこか思わせぶりだがどうかね、お前さんは読んだことがあるかね。『蜘蛛の絹』と『絹糸の夢』どうも似ていると思わないかね、そう、岸信介の『絹糸の夢』の書き出しはこうだ。
鈍色の刀を袴に吊り下げて、夜の江戸の街を歩く一人の男がいた。容易く綻ばない真一文字の口元に、節くれだった大きな手。赤提灯が揺れるたびに、夜道に浮かび上がる精悍な面ざし。江戸っ子は皆彼のことをこう呼んだ。「湯川屋殿の若旦那」と。
どこかで聞いたことがないかね。そうこの話、ただ私の『蜘蛛の絹』をまったく違うように組み替えただけのものだった。人物の名前を変え、題名を変え、言葉遣いなんかも変わっているが、物語の流れも、特に私が岸くんに力説した殺陣の描写表現は一寸も違わなかった。私は駅のホームでその『絹糸の夢』を最後まで読み切った。原稿用紙六百枚はある長編だったが、私がなんとかして組み直した『蜘蛛の絹』よりも読みやすく、それでいて情緒はそのままに、傑作と言うにふさわしいものに組み上がっていた。今となれば思うよ。岸先生よ、どうもありがとう。私の作品を傑作に仕立て直してくれて、しかも今度『絹糸の夢』がテレビドラマになるとか言うじゃないか、そうなったら岸先生、どうか、私の名前を、原作のところに入れておいてくれませんかね。なに、難しいって、そりゃあそうでしょうね。不謹慎だなんだって、まあ話題にはなるでしょうけど。
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