第9話
さあ、お兄さんがた、もうそろそろこの長い話も終わりだ。人は心の支えを失うと怖いね、心が死んじまって、何も考えつかなくなる。このとき私の唯一の希望は、花屋の紀美子、彼女だけだった。私は『絹糸の夢』を読み終えると、その本を買って、電車にも乗らずにそのまま駅を出た。そして彼女に話しかけた。もう日は落ちていたし、もうすぐ店をたたむと言ったんで、私は電車賃にするはずだった金で花を買って、彼女を家に呼んだ。わたしの小説が本になったんです。家にあるので、読みに来ませんか。とね。彼女は嬉しそうに笑っていた。髪を染め直したのか、前よりも明るくなっていたのが更に当世風で眩しかった。黒色のスカーフに、マリンブルーのタイトなロングスカート、ヒールの付いたシルバーのサンダルに、ダルメシアン柄のシャツ、そんな彼女と歩く紳士風な私、これからボロい長屋に行くとは思ってもみないだろう。なに長屋暮らしだからすぐにバレるって?お前さん、私が饒舌なのを忘れたのか。嘘をついたさ、風呂つきのアパートは改修工事中で、ホテル代をもらったが、それも貯金しようと長屋に入ったとね。最低限のものしか持ってきていないが、君のくれたムスカリはちゃんと持ってきたと。ほら好印象だろう。持ち物が少ないのがこんなふうに役立つとは思わないよ。全く何が良いように作用するのかわからないものさ。だから彼女は嫌そうな顔もしなかった。一間しかない畳の長屋に、こんないい女が入ってくるとはね。私は以前、衝動的に買ったイギリス風のロイヤルブルーのティーセットを出してきて彼女にアールグレイを淹れた。そして彼女はそれを白くネイルした細い指で、上品に持ち上げて茶をすすった。その周囲だけがまるで欧風な風に包まれているようだった。全く今想像しても、あの光景は異様だった。それとともに、私を今でも高ぶらせるね。あの異様さは、恍惚として語りたくなる。空気の震えの細部までもなにか詩的なものが宿っていたよ。まあ、でも彼女はここに小説を読みに来たわけだから、もちろん私はカバンの中に手をつっこんで小説を探すふりをした。茶色い封筒と、装丁された単行本。どちらも内容は変わらない。ただ駄作か、傑作かの違いだった。これがあの、憧れのイケた女でなかったら、奈都子だったら、私は茶封筒を出しただろうか。
お前さんならどうする。やっぱり、傑作の方を取り出すんじゃないのか。本当は私の作品はこうなるはずだった。本当なら私の小説の帯に朝山先生の名前が書かれるはずだった。そう思うだろう。だから私は、ほんの小さな弾みから、岸信介の『絹糸の夢』を取り出して彼女に見せた。そして自慢げに、これがわたしのデビュー作さ、初めて単行本になったんだ、といった。だがこれが全ての間違いの始まりだった。私は彼女のブラウンの瞳を見つめ、赤いルージュのついた唇を見つめた。そうしてすぐにわかった。彼女が私のことを疑っているとね。私は何度もこれが自分の小説で、どんな主人公が出ているのか、どんな恋愛や、どんな葛藤があるのかを必死に説明した。あの時の私は、すこし躍起になっていたかもしれない。だって彼女は説明すればするほど、だんだん顔色を曇らせたのだから。なぜだと思う。なぜ私の嘘はバレたのだと思う。これはね、本当に、後世まで語り告げるような偶然だよ。彼女は言ったんだ、冷たい声で「その小説は、兄が書いたんですのよ」と。紀美子は、岸くんの妹だった。この小説を書いたのが岸くんだって知らないはずがない。しかも小説家だという私と仲良くなったのも、兄のためというから、笑わせてくれるじゃないか。私は必死で弁明しようとした。だが一度離れてしまった人の心はどうしてこんなに取り戻しづらいだろうか。もう何もかもおしまいだった。嘘はメッキのようにボロボロと剥げて、私の心はまた不安でいっぱいになった。そしてムスカリの草の根本から跡形もなく消えてしまった蛾の姿が私の頭によぎり、体の奥底で、なにかがパチンと弾けた心地がした。シャンパンゴールドのアイシャドウをつけた紀美子の目元がキラキラと光り、長いまつげが震えていた。そう、まるで生きているオオミズアオのように。
私はどんな顔をしていただろうか、ブラウンの小さなバックに手をかけて立ち上がろうと身をよじった彼女に、いったいどんな眼差しを向けていただろうか。彼女の顔が何かに怯えるようにひどく歪んだのを覚えている。その一瞬はまるで私の指先から彼女が飛び去っていくのに似ていた。私ははっとして腕を伸ばした、そしてそのしなやかで細い腕を私は確かに強く握りしめた。その肌のしっとりとした質感、細い腕、彼女が身じろぎするたびにオオミズアオの鱗粉のように甘いムスクの香りが部屋に満ちていった。
「蜘蛛の絹」も「紀美子」だって、全部岸くんに奪われたんだ、と私はそう思ったわけだ。なにお前さん、不思議でないだろう。私は彼女にまで逃げられるのは耐えられなかった。誰かに私の「蜘蛛の絹」を読んでほしかった。
何、お前さん、私の書いた『蜘蛛の絹』が読みたいって?
残念だ、全部燃やしてしまって残ってないよ。その日、原稿はすべて燃やしてしまったからね。こんなものがあってはいけないと思ったのさ。こんなものが、あってはいけないんだ。とね。
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