第7話
私は母が用意した静かな部屋で執筆を再開した。だがどうだ、子どもたちの笑い声と虫の鳴き声のうるささったらない。酒も入っているし頭も回らないし、寝そべって書けば万年筆のインクが飛び散ってすったもんだとそんなところに奈都子が『薔薇』の原稿を持ってやってきた。そして感想を一つ二つ言った。「前に読んだのと違うわ。すごく上手くなったもの」彼女はそう言って私を褒めた。まあ当たり前さ、十年も経っているんだから。私は得意げになったよ、だって誰も私の腕が良くなったなんて言わないからね。そして彼女は『薔薇』の主人公が掴んだ自由とは何なのか、そして「彼女はずっと家の中に居たほうが幸せだったんじゃないの」と私に尋ねた。やはり彼女は賢い。一言目にこの小説の真髄をついたことを吐き出す。私達はこの議題を元手にすこしの間話し込んだ。大学で学んだ哲学の知識も見せびらかしながら、私はできるだけ賢く見えるように振る舞った。そして私は、彼女は変わっていないのだという根本的な事実にたどりつき、ある作戦を思いついた。それは新しく構成し直した『蜘蛛の絹』を彼女に読ませることだった。『蜘蛛の絹』。私はどうしてもこの小説にこだわった。長編で組み直したものの三分の一ほどしか手元になかったが、それでも良い。どうしても彼女に読んでほしい。私はハッとした顔をして、彼女に長編小説を読まないかと提案した。もちろん答えは「YES」だ。彼女はきっとすぐに、続きを読ませてくれと言うだろう。私はそう考えると嬉しくなって新しい話など書こうと思わなかった。家に帰って『蜘蛛の絹』を編成し直してここに送る準備をしよう。頭でそう考えながら浮足立って布団に入った。
だがね、お前さん。私の心はなかなか安らぐ暇がない。久方ぶりの生家での眠りも意外な形で妨げられることになった。蛾だ。しかも大きな緑色のね。そうここまで言えばわかるかね、それはオオミズアオだった。窓の外で蛍光灯の周りをチラチラ飛ぶもんだから、瞼の裏が痒くなって目が覚めた。私は一瞬その姿を見て、例のあの、今私の家にいる蛾の生きている姿だと興奮してすぐに外に飛び出した。見ると電線を引いてある木柱につけられた蛍光灯の下を重たそうに飛んでいる。大きな翅はボロボロで、図鑑で見たのとは違うようにも見えたが、間違いない。それは生きたオオミズアオだった。私はしばらくその電柱の下に立っていた。偶然手に止まらないかと、バンザイしてみたりもした。そうするうちに蛾もこちらの存在に気づいたらしい。その蛾は私の伸ばした手の上に、カエデの種子のようにくるくると降りてきて止まると、ゆっくりと翅を広げた。私はとてつもなく愛しい気持ちになった。蛾に雌雄があるのかも知らないくせに、これは女なのだと直感で悟った。だから私は彼女と呼ぼう。そう彼女は、まるで舞姫のように私の手の上にちょこんと止まったのだ。その体の軽さは、トウシューズで舞う踊り子のようだった。私はゆっくりと翅を震わす彼女の息を感じ、鼓動を感じ、そして躍動する彼女の筋肉を、シルクのような体の産毛と、翅の鱗粉の一つ一つにきらめきを感じ、そして魅了された。彼女の形は、私がこの数カ月間苦楽をともにしたあの蛾によく似ていた。このまま手の中に押し込んでしまいたい、その欲望が私の体の中で弾けそうになっていた。しかしその欲望の片鱗が、指先からすこし漏れ出して震えに変わると、とたん、不意に風が吹いて、彼女は……、魅惑的な彼女は……、空高く、吸い込まれるように舞い上がって行ってしまった。私は必死になって暗闇の中に彼女の姿を追いかけた、だがその姿はじめじめとした重たい闇の中に溶けて、綺麗さっぱりなくなってしまった。そうして彼女を見失ってからは呆然と立ち尽くしていたが、ふと我に返ると、私は突然不安に襲われた。それかどんな感覚か、身体中の至るところがいきなりざっと粟立つような、そんな感覚だった。気がかりになったんだろう。外に置いてきてしまったムスカリの植木が。猫が通って、植木を落としてしまったら、激しい風が吹いたら、ムスカリの花の根元に静かに横たわる彼女も、どこかへ行ってしまうかもしれない。所詮生きたオオミズアオなどまやかしに過ぎない、そう自分を説き伏せながら、私は唯一無二の存在である彼女に想いを馳せた。
東京に戻るにしてもこんな深夜にバスも出ていない。私は部屋に戻り、早朝には出られるように荷物をまとめるつもりでいた。だが、居間の前を通った私の目には、そこに有るはずのないものが見えた。暗い部屋の中、長机の上に、原稿用紙の束が積み上がっていた。それは私が奈都子に渡したはずの『蜘蛛の絹』だった。ああ、おめでとう、兄貴、どうやらこの家の人間は、私のような志で都会に来ることはないさ、そう笑い飛ばせるね。今となれば何もかも。だが当時の私はそうでなかった。息をするのも忘れて、机の上にある原稿を手に取った。指がおもむろに震えだし、蛾に対する思い入れが更に強くなって、いても立ってもいられなくなり、深夜に家を飛び出した。あぜ道を歩いて駅に行き、始発に乗り込んで東京に戻った。
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