第6話
さあ、生家につくと、ちょうど門から出ようとしていたのか、兄の妻の由美子が、私を見るなりはっとした顔で家の奥に駆けていった。私の名前を叫びながら、家の奥に人を呼びに行ったようで、程なくして母が、そして随分と大きくなった兄の息子たちが、物珍しい都会人見たさに、というふうに飛び出してきた。私が家を出たときにはまだおしめをつけていた甥っ子は、もう年頃の青年になっていて、顔の四角いのなんかはもう兄の生き写しだった。そのあと話を聞くと兄には四人の息子と二人の娘がいるということが分かった。喪主を務める兄の顔は十年前と変わらぬ様子で、父親の葬儀はもちろん滞りなく進んだ。ここらで一番大きな米農家だ。馴染みの者に、そこら辺に住んでいる親戚一同がぞろぞろとやって来て、こんな言い方しちゃいけないが、葬儀は大盛況だった。そしてその葬儀場で、私はとある女性と再会した。それはもう、ひと目見たときにはただ釘付けになってしまったさ。綺麗に衿抜きされた黒紋付からすらりと伸びる首、つややかに束ねられた黒髪。まるでてまりを転がすように赤子をあやしながら、歩いていく後ろ姿と、上品な線香の煙のように耳を撫でる子守歌。こんな色っぽくて母性に溢れた女がこの田舎の村にもあったかと思えば、その女は兄嫁と親しげに話している。きっとつい最近、都会の方からこちらに嫁いできた女に違いない、そう思っていたのに、こちらを見てみればそれはどこか見覚えのある顔のような気もした。しかし、だ。おでこにちょうどいい具合にかかったカールした前髪、当世風なパリレッドのルージュ。どこからどう見ても田舎者とは思えなかった。だが私がそう思案していると、その女は兄嫁と一緒にこちらに歩いてきて、一言。「奈都子ちゃんよ。きれいになったでしょう」と。私はすっかり面食らってしまった。その女は、奈都子だった。昨晩あんなに奈都子の姿を鮮明に思い出していたのに、なぜ気づかなかったのか、いや気づくはずがない。私はきっと豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていただろう。女二人は「あら相当驚いているわ」「会うのは十年ぶりだから」とかいって笑い合い、呆然としている私の名前を、奈都子は上品なしっとりとした声で呼んだ。
なぜ私はこの女とここで身を固めなかったのか、先に立たない後悔がよぎり、帰省などしなければよかったとこのときはじめてしみじみと感じた。そして更に驚いたことは、奈都子は由美子の事を「お義姉さん」と呼んだということだ。もう分かったろう。奈都子は弟と結婚していた。しかも子供も三人こさえていた。ちょうど四年前に減反の方針が出されたとき、機転の効く父が早々に弟を奈都子の家に婿入りさせたらしく、子供らは皆奈都子の実家におり、葬儀で忙しい間は、乳飲み子の末っ子だけを連れて、奈都子が手伝いをしに来ているということだった。
その日の晩、葬儀は無事終わり火葬も終われば何が起こるかは容易にわかる。兄弟水入らずの時間だ。私は、堅物の兄に、幸運な弟と母親、その妻たちとで改めて飲み直すことになった。飲みの席には田舎臭い味の濃い料理や、品のない度の高い酒が並べられ、私に興味津々な兄の息子たちも同席していた。私は東京での暮らしぶりを尋ねられ、もう慣れたもので、さも当たり前のように舌を回した。通っていた都立の学校で助教授をやっている、家は風呂付きのマンションで、雑誌に小説を掲載している。ついで先生と慕われていて、都会での暮らしを満喫している、と。子どもたちはその話を聞いて目を丸くしたんで、私は試しに自分の書いた四千字ほどの読み切り短編を渡した。すると子どもたちはそれを互いに引っ張り合いながら我先に読んでやろうと競い合った。子供は純粋でいい。そう思った私は他の短編の下書きも引っ張ってきて、こっちにもまだある、と声をかけたが、そのとたん「あっち行って読まんか!」と兄が怒号をとばした。それを聞いた子どもたちは一瞬で、睨まれた蛙のように凍りつき、私の原稿を持ったまま、そそくさと襖の奥に消えていってしまった。兄は騒がしくしてすまないと謝ったが、私はほとほと呆れていた。この時化た空気を作り出す芸当まで兄は親父にそっくりになっているとね。
それから私は兄弟水入らずで話し合ったが、特に弟は私に興味津々なようで、最近雑誌に掲載した小説を読ませてくれというものだから、さっき子どもたちに渡そうとしていたものを取り出して渡した。すると彼はどうしたと思う。紙をガサガサと引っ掻き回して、一枚も読み終える前に「こんなもんで銭が稼げるタア、気楽でいいや」といって原稿を放り投げたのさ。もう分かるだろう、こんなもんで、だ。どんな小話にだって産みの苦しみがある。それを読みもせずに放り投げるとは品がない。相当に酔っているのだろう。するとそれを申し訳無さそうに拾いに行く奈都子。亭主の失敗をかばえるいい女だ。
それからほどなくして弟は陳腐な悩みを語らい始めた。婿入したもんで悪く言われること、今年の米の付きが悪いこと、往年の友が都会に出ていってしまったこと。ただでさえ醜態を晒しているのに、挙句の果てには机の上に突っ伏してぐうぐういびきをかきだした。この弟の恐れ知らずなことよ。十年ぶりにあった兄弟に、心ゆくまで愚痴を吐けるような人間だったら、私はどれだけ良かったか。当時は下品なやつだと思ったが、やはり奈都子と結ばれただけある男だよ。今だって、誰に一番に会いたいかって言われれば、弟の名を上げるだろう。
さあそんなふうに寝こけた弟を尻目に、奈都子は部屋の隅の方で背中を丸めて私の短編を読んでいた。さっき奈都子が拾い上げたやつだ。確か題名は『薔薇』。掟に縛られた老婦人が、些細なことからその身一つで屋敷を飛び出し、そして死んでいく。女性の自由の美しき儚さを描いた小説だった。奈都子は食いつくよう原稿をはぐっていた。その様子は女学生だった頃の奈都子を思い出させた。あの時だって私の拙い創作を真面目に読んでくれたのは奈都子だけだった。それで、私はこの奈都子の姿に勇気をもらって、兄の方に向き直った。このとき都会での生活に行き詰まりつつあった私は、いざというときに面倒を見てもらえるのかどうかを、それなりに尋ねようとも計画して今回帰省していたのだ。なにも弟の愚痴を聞きに来たのでは無い。私の言い文句はこうだ。今のところは順調だが、いつかもし融通がきかなくなれば、戻ってきてもいいだろうか。親父の遺産には手を付けないし、分け前をもらおうとも考えていない。だから生活が苦しくなれば、戻ってきてもいいか。何事も保険をかけることが大切だ。そして親父はそもそも私に遺産など残していないだろうから、はじめから謙虚な姿勢をとって、誠実さを演出することを忘れちゃならない。わたしの作戦は完璧だった。お前さんもそう思うだろう。だが残念なことに、兄は首を縦には振らなかった。「都会もんは、都会にいてもらわにゃ困る。うちのせがれたちが、お前に憧れて、都会に行くと言い出したらどうする。今はただでさえ人が足りん」それに口答えしようとする母に、兄は一言「じゃあ、おふくろはは、家のもんがみな、東京へ行ったら良いというんか」と。母は黙り、弟も酔いが冷めたようで真っ青な顔をしていた。それに加えて、助教授ならいずれは教授、ここに戻ってくるわけもない、と言われてしまえば、わたしは何も言い返せなかった。
たしかにこの頃は減反の反動もあって、田舎から都会に次々と若手が働きに出て行ったそうだ。兄もそれでこれからの経営に苦渋の選択を迫られていたんだろうよ。だが当時の私はそうは思わなかった。母に歯向かってまで私を追い出そうとする兄。人でなし、ろくでなし、田舎者は頭が固いとそればかりが頭の中にあった。この時の兄は、もはや古き良き亭主関白そのもの。腹が立てばちゃぶ台をひっくり返し、部屋から出ていく。まあちゃぶ台をひっくり返しはしないがね、景気よくダン!と机を叩いてから、部屋を出ていったさ。もちろん襖を閉める音も、玄関まで聞こえそうな勢いだった。しかも出て行きざまに奈都子の読んでいた原稿をひったくって「そんなもんを読むな」と怒鳴って出ていったんだからもう、たまったもんじゃなかった。でも愉快ではあったさ。どの辺がか、わかるか。兄はあれだけ馬鹿にした小説を、文字の力を、物語の力を恐れているってことだ。私の持つ力に怯えて逃げていく野良犬、あの半袖一丁の丸坊主と何が違う。ははは。だがこの調子のいい思い込みもすぐになくなってしまうがね。飲みの席がめちゃくちゃになったんで、居間に行ってみると、子どもたちがゲラゲラ笑っていた。目線の先にはテレビがあって、コメディアンがすったもんだしていた。わたしの小説は?誰にも見向きされないさ。「おじさんそれ持っていって」と姪っ子が言って、私はゆっくりとバラバラになった原稿を拾い上げた。私の気持ちがわかるかい。まあ、しょせん子供には理解できないのさ、と言っておこうかね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます