第5話
その日は夏の入りだった、いろいろなことが重なったんで覚えている、金曜日、七月十二日。私はまた彼女のところへ花を買いに行った。その日花屋にはひまわりが飾ってあった。私もひまわりぐらいは知っているし、彼女が今日入ったばっかりなんですと嬉しそうに言うから、ひまわりにしてくれと頼んだ。別に家に持ち帰るだけだからいいというのに、彼女は一輪のひまわりにビリジアンのリボンを飾って、そしてそれを仕上げながら一言「一体何のお仕事をされているんですの」と。私は面食らった。今まで彼女は私に質問をしたことなどなかった。彼女が名前を言ったついでに自分の名前を、彼女の出身を聞いたついでに自分の出身を、そういうふうだったのにだ。仕事、今の私の仕事は事務作業と日雇い、ちくしょう、どんな小さな仕事でも雑誌に掲載されるんなら続けていればよかった、そうすれば今、記者だとか、ライターだとか言っても嘘にはならないのに。私は彼女の前で、間違っても日雇い仕事で働いてるとは言いたくなかった。そうすると彼女はこういった。「私、あなたのことどこかで見たことがあるわと思って、そしたらいつの日か、この駅の近くで、先生、先生と呼ばれているのを見た気がいたしましたの。それに毎朝自転車でどこかに行きなさるから、わたし気になってしまって」私はピンときた。それはおそらく私が助手をしていたときの研究室生だろう。何度か気前良くここらの飲み屋を奢ってやったこともあった。その時は酔っていたし、大声で、先生、先生、と騒いでいてもおかしくはない。これ以上黙っていても仕方ない、私は都立の大学で助手をしていると話そうとしたが、それでは彼女もピンとこないと、助教授をしているのだと言った。そしてさらに専攻は哲学で実存主義学派を主に研究していると付け加えもした。彼女は目を丸くして、「やっぱり先生と呼ばれる方って、すごいのね」と言いながら、ひまわりの花を差し出して、「早く小説見せてくださいね」と一言添えた。わたしは彼女にいくつも嘘を重ねていた。小説家だということ、出身は九州でも都会の福岡だということ、仕事は大学の助教授で、家は風呂付きのマンション。人間は一度嘘を付き始めると、どうも歯止めが効かなくなるらしい。嘘を隠すために嘘を付き、何が嘘だったのかさえわからなくなる。だが嘘とはときに甘い物だ、わたしはこの時まだ嘘に酔いしれていた。彼女が私を見る眼差しにすっかり酔ってしまっていたんだ。だがその脆さもなんとなくわかり始めた頃だったろうか。ひまわりの花を自転車のかごに入れて、長屋に戻ると、父親が亡くなったという知らせを大家から受けた。その日の昼頃に電話がかかってきたらしい。
私はためていたすこしの銭、鞄には原稿用紙と万年筆、タバコとマッチも入れて、都会風の出で立ちを意識しながら、翌朝の朝一番の電車に乗り込んだ。故郷にはしばらく帰っていない。私が哲学の研究を志し、いつかは物書きになるのだと夢を語ったとき、まず一番はじめに反対したのが父だった。それはもう今となればずいぶん昔のことになる。まだ中等部に通っている頃だったろうか。そしてもし私が長男なら父もこんな戯言は頑として許さなかっただろうが、私には三つ上の兄がいた。しかもよくできた兄で性格は質実剛健、故郷の女学生にはもれなく大人気で、私が進学を志したときにはもう二人の男児にも恵まれていた。かたや私は母の情けで十数万だけ渡されて破門同然に家を出され、弟と当時私の恋人だった奈都子は自分らもついていくんだと言って聞かなかった。そう、奈都子、奈都子についても話す必要がある。奈都子は兄に嫁いできた由美子の知り合いで、私よりも五つ若かった。お下げ髪と笑窪のよく似合う一重の娘だったが、鼻筋が通っていて、自分がすこし男勝りなのを気にかけている可愛らしい娘だった。私の文学趣味に理解もあってよく一緒に小説を読んでは議論に勤しんだものだ。頭の切れる娘で、田舎から出てこられるなら嫁にしてもいいと本気で思っていた。だが年の程を考えればもう二十九、とっくの昔にどこかに嫁いでいってしまっただろう。
私はどこか億劫だったが、ほとんど十年ぶりの帰省をどこか楽しみにもしていた。前話した、九州の故郷を舞台にした小説『帰路』は、私が東京に出て来て程なくして書いたもので、その創作の熱量は望郷の念だった。なに、簡単に言えばホームシックさ。自分で飛び出してきて十年は戻らなかったのに、胸が熱くなるもんだから、その時私は故郷というものに魔術的側面すら感じたよ。
私は電車に揺られ、駅に到着したのは夜の九時を回った頃だった。私の家へは駅からまたバスで三十分ほどかかり、歩けば二時間ほどだったんで、なんとか夜どうし歩けば通夜の終わり頃には間に合っただろう。だが、私の足は思うように動かなかった。電車に乗って疲れているということもあったが、それよりも面食らったことがあった。それは私の故郷の駅とその周辺の変わりぶりだ。粗末な産屋みたいだった駅はレンガと鉄筋の堅牢な建物に建て替えられていて、駅の周りには電線が張り巡らされ、黒塗りの街灯が並び立っている。道にはアスファルトが敷かれていて、馴染みの飲み屋以外に和洋折衷風の建物もいくつもあった。今考えれば当たり前のことだが、その時の私はなにか言い得ぬ恐怖を感じた。その正体は故郷が自分の想像とあまりにも違っていたからなのか、それとも自分が描いた『帰路』と全く状況が違ったからか。一流の小説家なら、この経験さえも写実的な作品の創作に活かせるやもと気持ちを奮い立たせるのかもしれないが、私はその恐怖の前にあまりにも無防備だった。自分の描いた『帰路』のあまりにも浅はかで、リアリティの無い描写に絶望したのだ。あの小説はもう二度と人前に出すまい、と神に誓ったさ。そうでもすれば自分の無能さが世に知れ渡るという恐怖があったからだ。面白いだろう、まだ世に有能であるということも示せていないのに、何を恐れているのだろうか。こう、無駄に年だけ重ねた人間は、変に矜持が高くってならない。そういう知り合いが一人はいるだろう。お前さんほどの年になると、そういう知り合いとは段々と縁を切るもんだ、なぜかって、そりゃあお前さん。扱いがめんどくさいからに決まっているだろうに。
その日、私は駅の近くの宿に泊まって、早朝のバスに乗って生家を目指した。駅の周辺は都会風だったものの、生家の近くになると、道はまだ砂利道で、どこまでも田畑が広がる風景に私の心は癒やされた。だがすこし目を凝らすと、青々とした田の中に鎮座する真っ赤な重機は異星からの脅威と思え、地面から生えた電柱は私の心を針で刺すようだった。今となってみればすこし敏感になりすぎていたと思うがね。それほど気が立っていたんだ。特にスーツに付いていた一本のシワ。なんの手違いでついたかわからないが、目につくところにあってね。どうも気になったのをよく覚えているよ。
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