第4話

 思えば、こうして虫との距離を詰めたのが私にとって裏目に出たのかもしれない。その翌日、私は昼頃になって朝山先生に呼び出された。制度が変わって資格を持っていなければ助手をできなくなったらしい。そして個人的に私に払っていた給金ももう払えないと告げられた。この時私の頭に何が浮かんだが、故郷のおふくろの顔だったろうね、それと親父と兄貴と弟の顔、これはまとめて浮かんできた。仲良く並ぶ団子みたいに。私は先生に泣きついた。でも先生は首を横に振るばかりで私に見向きもしなかった。ただ「残念だ。残念だ」というだけだった。どんな悲劇の主人公のような顔つきをしていたか、さながら「神は死んだ」ともっともらしく誤用したくなったのはこれが初めてだった。この日、私は職を失った。返しきれていない奨学金もまだ残っている。作家になってこんなものイチニのサンで返してやるよ、と大口をたたいていた大学時代の私よ、見ているかこの惨めな姿を。そう考えながら家路をたどった。だが私は存外諦めの悪い生き物で、その日から一週間ほど毎日大学に通っては朝山先生に頭を下げに行った。だが努力は必ずしも報われるとは限らない。私の場合これは努力でなくてただの悪あがきだが、七日目にはついに警備隊まで配置されて、私は完全に不審者兼要注意人物として大学側に目をつけられることになった。何が言論の自由だ。私はただ教授の研究室の前で四六時中叫んでただけじゃないか。

 ついに警備隊に取り押さえられた私は、家に帰ってから、何を思ったか、窓際にあるあの蛾をひっつかんで床に叩きつけた。だがそれで羽がもげると、自分でやっておきながらいっそ死んだほうがマシと思うぐらいに胸が苦しかった。海で溺れた子供が海面に顔を出してはすぐに波に巻かれて水底に引きずり込まれるような、そんな息苦しさに、私はもだえて這いつくばった。笑えるだろう、だって相手はすでに死んじまっているのにだ。痛くも痒くもないはずさ。なのに私のこの痛みは一体誰の痛みなのかと。それで悟ったさ、「ああ私は、こういう人間なんだ」とね。そのあと私はのりを使ってもげた翅を胴体にくっつけた。破れていた翅も直してなんとなく綺麗にすると気持ちが安らいでほっとして床についた。


‎ それから私は、毎朝潰れてボロボロになった蛾に「おはよう」だのと語りかけながら、その日ぐらしで生活していた。そんなある日だ、何か職につこうかと漠然と思いながら、気も乗らない私はまだ『蜘蛛の絹』の手直しをして、有るはずのない希望を燻らせていた。そして、駅の前を通った時、あの花屋が目に止まった。いつか話しかけると決めたイケた彼女は変わらない様子でブーケを作っていた。ピンクのガーベラにカスミソウ、サテンの真っ赤なリボンがよく映える。やはり美しい女性とはセンスもピカイチなのだと遠くから眺めていると、きらびやかな生花の前に枯れかけた紫っぽい花の植木があった。かなり草勝ちで、明るい色のニラのような葉が植木から力なく垂れ下がり、その真中に背の低いぶどうのような形をした花が五、六本ほど生えている。私はピンときた。あの虫を自然に還す方法。それは植木の土の上に寝かせてやること。しかもこの植物、葉が多く、土の上をおおっているんで、あの虫は風に飛ばされることもなく、土に還ることができそうだ。私は何もかもがしっくり来てその植木を遠くから見つめた。しかもこの植木をこの店で買えば、あのイケた女と話すことだってできる。バラの花を買うわけではないが、きちんとした理由をつけて彼女と話すことが出来るわけだ。私はすこしだけ居住まいを正して、自転車をゆっくり押しながら花屋に近づいていった。ふとその女と目が合う。その目線はまるでテスラコイル。私は体にビビッときてしまったが、ここで尻ごんでは男がすたる。「この植木をくれないか」そう言って、目一杯かっこつけてみせた。気持ちはまるでハンフリー・ボガート、あのときなら葉巻三本でも吸えたね。そんな銀幕スターにレディーは一言「その植木、枯れかけちゃって、売れないんですの」彼女は今日もゴールドのピアスがよく似合う。その香水はシャネルかい、心のなかで何度も小粋に声をかけた。ただ実際に彼女に言ったのは「構わない。言い値で買おう。この花、なんて花ですか」ってなことだった。かなり小粋だろう。私もそう思うよ。そのときの私は夏用のグレーのジャケットにオーデコロン、ネクタイピンはシルバーの洒落たものでね。大人の貫禄というやつか、到底、職のない人間には見えなかっただろうよ。身なりを整えるということは一番気をつけていたことだったからね。

‎‎ なに、結末かい、彼女は私に花の名前と、育て方を教えてくれたよ。花の名前はムスカリ、球根植物で暑さにも寒さにも強い、水さえやっていれば、毎年春から初夏にかけてきれいな花を咲かせる。ムスカリ、良いだろう。私は都会風な洗練された何かを感じたよ。その割に根性は田舎娘ばりだが、ああ、今思えば都会の女のほうが田舎娘よりも根が強いかも知れないな。違いない。あと、言い値とは言ったがなんていったって金欠だったんで、結局彼女に言い負かされたふうにして、二束三文でもらってきたのさ。それとついでに、私はしがない小説家なんだとも彼女に嘘をついてきた。あくまでも売れっ子じゃなく、仕事の片手間に小説を書いているというような言い方でね。そしたら彼女、読書が趣味だから今度読ませてくださいね、ムスカリを引き取ってくれたお礼ですよ。なんてこと言うから、私は天にも昇る気持ちだったよ。いつか必ず小説家になると決めていたんだから嘘を言ったわけじゃないさ。しがない、と言っていたしね。

 このムスカリの花は、家に持って帰って、窓の外の柵の内側の出っ張りに引っ掛けるようにして置いた。葉をかき分けて蛾を土の上に寝かせると何という満足感か。私はあのイケた彼女とも話せたし、男の一人暮らしに花を添えるというのは意外といい効果をもたらした。水をやるために朝は早く起きる。草をかき分け、虫の状態の確認。駅前の花屋で週に一度は花を買うようにして、その花代のためにと気が進まなかった日雇いの仕事にも応募した。この時私は、隣町にある工務店で簡単な事務をしながら、小説の執筆、土日は日雇いで銭を稼ぐ暮らしを送っていた。やってみると家賃と奨学金の返済で手一杯にはなったがそう悪くもない。世にいう最低限度の文化的生活は保証されていたよ。まあそれは、私が食い物に執着がなかったためかもしれないがね。隣町へは自転車で三十分、毎日駅前を通っていたんで、顔なじみになっていた私はあのイケた彼女に目線を送ってやることも多かった。颯爽と自転車で走ってゆきながら、ダリアやホワイトローズに水をやる彼女をちらりと見る。胸元にはシルクのスカーフと、四センチほどの低いピンヒール。そんな彼女は私に気づいて、あら、と言って手をふる。まるで映画のワンシーンじゃないか。

‎ 彼女と話すのは金曜日、週に一度だけ。花を選んでお互いにすこしだけ自分のことを話す。何もかもおおっぴろげにしちゃカッコがつかない。かれこれ一ヶ月で彼女から聞き知った情報は、彼女の名前が紀美子だということ、東京出身で大学は女子大を出て、アメリカへの留学経験も有るということ。どうだ、知れば知るほどイケた女だろう。私の故郷のものがみたら驚くだろうよ、西洋かぶれ、などと言われるかもしれないがね。

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