第3話

 長屋の狭い一室と壁を隔てて外に一匹、そんな奇妙な生活が始まって、二週間が経とうとしていた。やはりコンクリの上といっても、蛾の羽は脆い。所々がぼろぼろになってきていた。雨が降るたびに、ちぎれた足なんかは流されていって、蛾は明らかに小さくなっていた。だがそれでも毎朝その蛾を見るのを私はやめなかった。朝起きて、窓から一瞥をくれてやり、平然と朝の準備をこなしてから、小道のところまでは自転車を押す。それでいかにも気になってないふうに空でも眺め、ああいい天気ね、だとか言いながら、ちらっと小道の方を見る。このちらっと見る前がなんとも言い難い高揚感だった。例えるなら部屋に彼女が遊びに来るわと言った日に、扉を開ける瞬間のような、そんな気分だった。蛾がいることを確認すると私は自転車に跨がり、意気揚々と大学へ向かう、立ちこぎいっぱい。私は坂道を登るときに吹き下ろしてくる風が、くるぶしに当たって少し寒いのが好きだった。空を見上げながら坂道の向こうを望む。これが私の毎朝の習慣で、その時期の澄んだ空の色は、その死んでしまった蛾の美しい羽の色に似ていてよく見とれたもんだ。

 なに?死んだ虫に対して随分な思い入れだって?お前さん人間ってもんはいざとなったら草木とだって交われるっていうじゃないか。はは、私は別にそんな感情はないがね。

 

 ただ私とその一匹との間に変化が起きたのは大学が休みの日曜日のことだった。前日遅くまで起きて論文を読んでいたんで昼頃に目が覚めた。話したとおり、私は日課として窓の外に一瞥をくれてやった。よく晴れたその日はいつもより何故かはっきりと小道のあたりが見えた気がした。そして私の目には小道の入口のあたりで三人のガキが棒切れを持ってはしゃいでいるのが見えた。アイツらは何をしている?ただのチャンバラごっこか?だがよく見ると、シャツ一枚に短パンの丸坊主が、棒切れの先に何かつけているように見えた。間違いない、あの蛾だ。私は寝着のままだったが、サンダルを引っ掛けて急いで小道の方に走っていった。見ると、さっきいった棒切れを持った鼻垂れ坊主と、紺のキャップを付けた色白の坊主、それから赤いチェックのスカートを着て日に焼けた小娘の三人組がなにやらばか騒ぎしている。「お前何してる」私はかなり遠くから叫んだが、鼻垂れ坊主はまるで豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をして「何だ、おじさん。げえ、酒臭い」そう言って逃げていこうとした。私はそれでムカついて、坊主の腕をひっつかんで「それは私の虫だ」と、たしかにそういった。だが坊主も負けじと「これはここに落ちてたんで、俺のもんだ」と鼻を鳴らしながら言うわけだ。なに、今考えればその坊主の言っていることは何も間違っていない。仮に轢き殺したのが俺だから俺のもんだ、ということができたとして、それはなんと理論が通ってないことだろうかね。今ならわかるさ、もちろんだとも。

 だがその時の私には意味がわからなかった。この坊主は、私がこの虫と二週間もの間、毎朝、毎朝、親睦を深めていたことを知っているのか、いや知る由もないだろう。その時私は創作活動の行き詰まりや『蜘蛛の絹』の執筆のことでかなり追い込まれていた。それでつい暴力的になって、無言で坊主の頭をひっぱたいて棒ごと蛾をふんだくった。坊主は「ひいい」と力なくうめいて、一目散に逃げていった。その逃げざまを見るときの私の胸の誇らしさと言ったらない。まるで聖地を奪還した十字軍にでもなった気分だった。そもそも奴らは野蛮だ。まだ五月だと言うのにシャツ一枚で外で遊んでいるトンチキに話が通用するわけがない。ここは東京だ。なあ、お前さんもそう思わんかね。

 私は見事に奪い返した蛾を家まで持って帰った。だが持って帰ってみたのは良いものの、置き場がない。一人用の湿気た布団と、汚れたちゃぶ台を置くのがやっとの部屋だったんで、あの小道に戻そうとも思いついた。だが一度手にしてみると、なんとも手放し難い。逆に今までてこでも触れようとしなかったのは、これが潰れた虫けらだからではなく、自分にとってこれが特別のものになるという恐れがあったからではないかと感じるほどだった。私は考えあぐねて、窓際に蛾を置くことにした。もちろんちゃぶ台の上においても構わなかったが、埃っぽかったんでこのときの私は気が進まなかった。だから布巾でちょっと窓際を拭いてそこに置くことにしたわけだ。

 だが家に蛾を招き入れるのは、まったくもって本末転倒であることに私は気づいた。そもそも私はこの虫がいつか自然に姿を消すのを見届けたかったのに、このままではいつまでも部屋の中にあるだけだ。それでは自然の摂理に逆らっていていけない。だが心のどこかで、このままでも良いような気もしていた。人の心は全く単純に説明しきれないものだよ。

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