第2話
さあ、話は変わるが、私の実家は村一番の米農家で、四季の味わいも、全部稲様の実り具合だった。生まれたときから米、米、米、ヒキガエルと赤とんぼの尻を追いかける生活も悪くないが、いまここに来てパンパンガールの尻を追いかけ回してちゃあ、なんてつまらない遊びかと思うよ。なに、そっちのほうが哀れだって?お前さんそれは言わない約束だ。さあ、でも私も若いうちは米を作る気でいた、それしか能がなかったんでね。だが高校を出て何年か土塊をいじっても釈然とせずにだんだんと嫌気がさしてきたんで、数年して東京へ出た。九州の田舎育ちの私にも、一つ都会風の趣味があって、それが読書だった。いつか自分も物書きになるんだと夢見て、都立の大学に入って哲学を学んだ。そしてかの文豪たちが愛読したという哲学書を紐解いては、拙いものを書くのが私の何よりもの生きがいで、これが自分のするべきことだと確信するのに、多くの時間はかからなかった。この頃になると、私の作文は小さな雑誌の片隅に載るぐらいにはなっていた。そしてその作文を、今度はしっかり連載してみないかと言われたもんだから、浮かれていたのか心待ちにしていたのか。何にせよ長屋の一階にある大家の部屋の電話が自分宛てにいつかかってこないかと浮足立っていた。私には拙い作文でも自信があったのが三つあった。一つ目は九州の田舎を舞台にした、半分私小説のような『帰路』、二つ目は哲学科で影響を受けたカフカの『変身』を自分なりに解釈した『藁の手』、そして最後が、壮大な歴史作品で一番自信のあった『蜘蛛の絹』だった。この小説は江戸時代の日本を舞台にしていて、武士の主従関係と禁断の恋を描いた壮大な大河ドラマでね。もちろん連載の話があったときに私はこの『蜘蛛の絹』の原稿を渡した。この小説、実は大学の研究室の中でも密かに人気があった。朝山先生はもともと私の小説は読まなかったが、毎年入れ代わり立ち代わり入ってくる研究室生が、私の小説を読んでくれていた。私は六年も助手を務めているんで、生徒たちからは先生と呼ばれていたんだ。そしてその中でも四年の岸という生徒は、特に熱心に私の小説を読んで褒めてくれたんで、この『蜘蛛の絹』を編集者に渡すときは、一世一代の大勝負といったものの、どこかでこんな大作が編集長の目にかなわないはずがないとたかもくくっていた。これが私の大切なことだ。若者はこの期待に命をもかけた。自分の矜持と薄っぺらな顔の皮も全部かけてやった。
私はそうして日々期待に胸を膨らませながら、教授の助手を務めた。そしてもう一つ、私には楽しみにしていることがあった。それは駅のすぐ側にある花屋の娘を見ることだった。その娘、強くかけたパーマに大きなゴールドのイヤリング、目元は黒く塗って西洋風で、真っ赤な口紅が似合うのに、声は優しく丸みを持っていて当世風の、いわゆるイケた女だった。女学生だろうかはたまた彼氏持ちかいやはや、私は二十四で大学へ入り、四年で卒業して助手をする身、金もなければ顔もイケてない三十路半ばの男。もし小説が雑誌に掲載されれば、彼女に声でもかけてバラの花でも買おうと作戦をねったものだ。帰り道、行き道、彼女の姿をちらりと見られれば、どれだけ心が嬉しかったか。私は本当に初心だったんだ。どうだ、可愛いと思わんかね。
だがね、神は無情なもので、編集者から返ってきた返事は「NO」だった。私はこの事を早朝の電話で知った。
今ならわかる。自分の身の丈にあっていない台本は読み手に感動を運べないどころか難解で退屈なものに変えてしまう。私が『蜘蛛の絹』を読んだならこう言っただろう「もうこいつが書いた小説は二度と読まん」とね。今でも忘れもしない。その書き出しはこうだ。
鈍色の刀を袴に吊り下げて、夜の江戸の街を歩く男がある。決して綻ばない真一文字の口元、血筋の通った大きな手。赤提灯が揺れるたび、その顔は夜道に消えたり浮かんだり。江戸っ子は皆彼をこう呼んだ、大川屋殿の若旦那と。
この若旦那が主人公の、大川屋六兵衛。一流の武士で人情に厚い男。今思えばなんとも紋切り型の男だ。そんでもってこの男の許嫁が向屋敷の美女、お菊。見た目も教養も申し分のない美女だが、六兵衛は普通の男じゃない。別の女を選ぶわけだ。誰を選ぶかって、そりゃあ、別に美人でもない女さ。まあ、こんな三文小説の話は、また後で。
さあ。それで私は小さく分厚い矜持もすっかり面食らった。大学へ行く気なんて尽き果てて、抜け殻みたいになって部屋に戻って、窓から外を見た。すると今まで気づかなかったが、窓からちょうどあの小道の入口あたりが見えた。今頃あの蛾は蟻の餌になっているだろう。私が自転車で轢き殺してから、すでに三日が経っていた。もう流石に跡形も残っていないだろうと思って外へ見に出たが、蛾は道の入口のところになおもへばりついていた。この細道は自転車では通れないし、ドブ川の臭いもひどい。後で知ったが、小学生らには幽霊が出ると噂されているときて、この小道は誰も通らないらしかった。それでも誰かが川の中に捨てるか、あるいは風で飛ばされるだろう。そう思っていたのに、虫は何も変わらぬ様子で地面にひっついていたわけだ。土にも還れずに白いコンクリの上に。お前さんならどうする、つまんで川に捨てるか?もしそうできていたら、私の人生は変わっていたろうよ。
その日は結局、昼から大学へ行った。朝山先生は私が小説の落選で面食らっているとわかると研究生を招いて宴会を開いて下すった。今考えても朝山先生はなんと素晴らしい人物か、とにかく先生と私とで酒を飲んだよ。私の小説のフアンだった岸くんもやって来ていたか。そうして朝まで飲んで始発で長屋に戻ると、あの小道につい目が行ってしまった。わかるだろう、アイツのことが気になるんだ。
いたよ、いたいた。相変わらずへばりついていた。私はフッと鼻で笑い飛ばしたよ。そしてそれからは毎朝、その蛾を見ることが、私の日課になった。別に愛着が湧いたわけじゃない、気になってならないんだ。雨の日なんかは心がざわついて、次の日にそいつがいてホッとした。いつか自然と風か雨かに流されるまで、見守ってやろうとしたわけだ。虫けらでも殺してしまったのは私の責任だろう。なに、小説の話?私は打たれ弱くてね、自分の作った『蜘蛛の絹』これが傑作だと疑わなかった。すこし書き直して、また別の雑誌社に持ち込んだよ。だが、どこからも帰ってくる返事は「NO」。ここまで来たら笑えてくる。この頃にはすっかり板についた雑誌の端のエッセイもやめてしまったんでね。
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