第10話


 突き抜けるような清涼感のある空気が、頭の奥から染みわたるかのようだった。

 全身がいつもより軽く感じる。ここ数日溜まっていた心の淀みまで取り除いてくれているみたいに――。


 約十年ぶりに感じるその感覚に、思わず涙が出てくる。

 名残惜しく思いながらも、レベッカは礼拝室から出た。


「気分はどうですか?」

「とても体が軽いです」


 礼拝室の外で待っていたテオドールが、レベッカの返答にまるで自分のことのように嬉しそうな笑顔を見せる。 

 すっかり無くなったと思っていた神聖力が、どうして戻ってきたのかはわからない。それでもこんなに気分が良いのは久しぶりだった。


「それでは戻りましょうか」

「はい!」


 テオドールが差し出してきた手を握り、レベッカたちは応接間に戻る。


「レベッカ!」


 礼拝室から五分ほどのところにある応接間に入ろうとしたとき、背後から名前を呼ばれた。覚えのある振り返った先に立っていたのはアンリエッタだ。走ってきたのだろうか、額にうっすらと汗がにじんでいる。一緒にいるメイドもどこか疲れた顔をしている。


 震える唇が、彼女の名前を紡ぐ。


「……アンリエッタ様」

「そこでなにをしているの?」

「えっと、あの……実は」


 返答に迷っていると、テオドールがレベッカを庇うように一歩だけ前に出た。


「申し訳ありません、お嬢さん。レベッカさんとはこれから大事な話がありますので、お引き取り願えますか?」


 テオドールの愛想のいい笑みはレベッカに向けるものとは違い、どこか貼りつけた仮面のように見えた。

 握ったままの手に気づいたアンリエッタが眉を顰める。


「レベッカ、もしかして――。最近おかしいとは思っていたの。用がないはずの本殿に出入りしているかともったら王宮魔法使いの方と一緒にいるんだもの。……やっぱり、見つかったのね」


 どこか口惜しそうな顔をしながらも、目の奥の光は消えていない。アンリエッタは水晶のような水色の瞳を閉じる。その頬を涙がこぼれ落ちる。

 突然泣き出したアンリエッタに、レベッカは戸惑う。


「大魔法使い様、騙されないでください。その子は人の物を盗む泥棒なのです」


 アンリエッタ様の叫びに、テオドールの顔から笑みが消える。どこか困ったような顔を向けてくるテオドールに、レベッカは首を振った。違うのだと訴えるように。

 テオドールがわかっているとばかりに微笑むと、アンリエッタに向き合って応接間に入るように促す。


「話は中で聞きましょう。お互いに、そちらの方がいいでしょう」

「ありがとうございます」


 嬉しそうにはにかんだアンリエッタが、先に応接間に入って行く。

 テオドールに手を引かれたレベッカも続き中に入ると、アンリエッタはまだ涙を流していた。しくしく涙を流すアンリエッタにベンジャミンが困ったようにハンカチを渡している。

 先日、アンリエッタは祖母のブローチを失くして、そのことがまだ彼女の傷になっているのかもしれない。そう思いたいのに、胸の奥がモヤモヤする自分がいた。


 向かい合うソファーに腰を掛けると、アンリエッタはその水晶のような水色の瞳でにらみつけてくる。


「レベッカは酷い人なのですわ」

「酷い人、とはどういうことでしょうか?」


 レベッカに向けるものとは違う笑顔で、テオドールが首を傾げる。


「わたくしの亡き祖母からいただいた大切なブローチを、先日何者かに盗まれたのです。そのブローチがレベッカの部屋から出てきたのですが、彼女はやっていないと嘘を吐くのです」


 実際レベッカはそのブローチを盗んでなんかいない。部屋から出てきた理由はわからないけれど、自身が潔白なのは自分が一番よく理解していた。


「彼女は神聖力が極端に少なくって、それでも少しでも力になってあげたくて、平民だけど仲良くしてあげていたのに。――レベッカは、そんなわたくしの気持ちを裏切ったのですわ!」



    ◇



 しくしくと涙を流しながら訴えるような水色の瞳を見て、テオドールは内心うんざりしていた。


 十八歳という若さで大魔法使いになってから――いや、その前から自分に向けられてくる、ただの好意とは違う視線。自分の能力だけを見てくる両親や、魔塔の魔法使いたち。テオドールの能力を妬み、ちょっかいを掛けてくる大した能力もない人々。

 そんな人たちと付き合うために得たのが、人を不愉快にさせないための、張り付いた仮面のような笑顔だった。


 だいたいの人はテオドールの笑顔に安心してくれたり、なにを言われても嫌な顔をしないことに侮って相手にする価値がないと判断してくれる。とても都合のいい笑顔。


 その都合のいい笑顔を向けられているアンリエッタという少女は、まるでテオドールが味方になってくれるかのように振舞ってくる。それがとても不愉快だ。


「レベッカみたいな卑しい人間が、大魔法使い様の最愛になんて相応しくありません。どうか考え直してください」


 考え直すもなにも、最愛は唯一無二の存在だ。たとえ最愛となる聖女が卑しい性格をしていたのとしても、その代わりになれる者はひとりもいない。

 それに獣化した姿だったけれど、長い間レベッカと過ごしていたのだ。彼女が優しい性格をしていることは自分が一番よく知っている。

 アンリエッタという少女も長い間レベッカと一緒にいたというのに、彼女にはわからなかったのだろう。いや、彼女は親友だと口にしているが、本心ではそんなこと思っていなかったのかもしれない。


 すうっと目を細める。獣化している時からもしかしたら本能的に感じていたのかもしれない。アンリエッタという少女の持つ神聖力。

 その香り・・は、彼女にとてもよく似ていた。


「そうですか。あなたの話はとてもよくわかりました。レベッカさんの部屋からあなたの所有する宝石が出てきたのですから、疑うのも無理はないでしょう。――ですがそれはあくまで状況証拠にすぎません。部屋に宝石を隠すだけなら、他の人でも可能でしょうね」

「いえ、それはありませんわ。いつもわたくしの部屋には必ずメイドが残っています。でもあの日は、用事があってレベッカに部屋の留守を頼んでいたのです」

「なぜ、彼女一人に留守番を?」

「それはレベッカを信用していたから。それなのに――彼女はわたくしの信用を裏切ったのですわ」


 またしくしく涙を溢すアンリエッタ。その見え透いた演技・・にいちばん不安を感じているレベッカがすがるような目で見てくるので、安心させる意味も込めて微笑む。その仮面ではない笑みに、レベッカは安堵している様子だけれど、でもやはり不安なんだろう。

 いまのところ彼女の無罪を晴らしてあげることはできない。アンリエッタや、彼女の背後に立っているメイドに自白用の魔法を使うのは容易だけれど、この王国で人を操る魔法を使うのは例外を除いて禁止されている。その例外も、国家に仇名す犯罪者を拷問したりするのに使うため、いま無暗に使ってしまえば捕まるのはテオドールの方だ。


 だけど今回の事件を収めるのは容易いものだった。

 聖女になったら最愛が見つかるまで神殿で過ごさなければいけない。だから聖女に選ばれた少女たちは、自分の住む部屋に好きなものを持ち込むことは許されている。それがドレスだったり、あるいは高価な宝石だったり、自分が管理できる範囲・・・・・・・・・・であればなんでもいい。


 だから彼女の訴えを神殿側は取り合ってくれないだろう。

 宝石の付いたブローチが無くなった。それはただの本人が自己管理ができていなかっただけのこと。それにもうそのブローチは戻ってきているのだから。


 アンリエッタ自身もブローチが無くなったこと自体は問題だと思っていないだろう。

 レベッカが聖女として欠陥のある人間であると、周囲――それも彼女を最愛とする魔法使いに知らしめたくてしているのだろうから。


 どうしてアンリエッタがそこまでレベッカのことを貶めたいのかはわからない。

 でもテオドールには薄々わかっていた。


 涙を流して訴えるアンリエッタ。

 彼女からかすかに感じる、最愛の神聖力。


 甘い、その香りに、仮面を忘れて眉を潜めてしまう。


「アンリエッタさん。よろしければそちらの指輪、見せていただいてもよろしいですか?」


 おかしいと思ったのは、レベッカがアンリエッタと会わなくなった翌日のことだった。

 いつもよりも神聖力の温もりを感じる。レベッカの神聖力は少ないと彼女自身が嘆いていて、テオドールのマナも通常よりも遅いスピードで浄化されていた。

 その浄化の速度がアンリエッタと会わなくなってから日にちが経つほど増えていた。それも通常よりも早いスピードで浄化が進んでいた。

 だからテオドールは、思っていたよりも早く人間の姿に戻ることができた。


 その違和感の正体が、アンリエッタから感じるレベッカに似た神聖力に関することなら――?


 テオドールの問いかけに、アンリエッタがわかりやすく戸惑っている。自分の右手を隠すようにしているのを見ると、その指輪の意味を理解しているのだと思える。


 聖女は自分の部屋に好きなものを持ち込むことができる。――それは幼い貴族令嬢を神殿という空間にとどまらせることに反発した貴族と神殿による取引の結果に決められたしきたりだ。

 だけど神殿側が禁止している物もあった。

 それは、魔法のこもった【魔道具アーティファクト】。

 いくら聖女でも【魔道具アーティファクト】を持っていることを知られたら、神殿側は罰を与えなければいけなくなる。


 特にその【魔道具アーティファクト】が、他人の神聖力を盗むものだったりしたら、なおさらのこと。

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