【二皿目】月見里満月《やまなしみづき》
女はぽかん、と口を開けて一部始終を見ていた。
まだ何が起きたのか、理解が追い付かず、火照った顔が冷めやらない。
「大丈夫か?」
声をかけられ漸く正気を取り戻した。
「はっ、はい!あの、ありがとうございました!助けて下さって!」
女性は自力で立ち上がり、深々と頭を下げた。
(私、なんでこんな子供にまで頭下げてるんだろう。こんな性格だから、会社でだってお局にいじめられるんだ)
などと、自己嫌悪に陥っていると、さっきの少年が声をかけて来た。
「あんたも腹減ってんだろ?」
「え?」
「あれ、俺の店なんだ。寄ってけよ」
少年が指差す先には、築百年は経っているだろうか、年季の入った小料理屋である。
この辺りの雰囲気には全然似つかわしくなく、異様だと女は思う。
藍染の暖簾には白い文字で、【
◇◆◇
暖簾をくぐって店内に入ると、五人くらいが座れるカウンターに、四人がけのテーブル席が一つあるだけで、十人が入れるか入れないかの広さの店内だ。
それ以外の物は特になにもなく、客商売の店ならば必ずやと言っていい程ある、だるまや招き猫などの縁起物すらない、簡素な店内である。
女は出されたお冷やを一口飲むと、少し気が落ち着いて、ようやく料理を頼もうかと店内を見渡す。
しかし、メニュー表は見当たらないことに気付く。
カウンターを見てみるが、やはりメニュー表らしきものは全く見当たらない。
いよいよあためふためいていると、美味しそうな匂いが鼻を掠めて、目の前に料理が出てきた。
「からあげ定食お待ち!」
「えっ、私、何も頼んでませんけど…」
「これだろ?あんたが食べたかった物」
言われてみれば確かに彼女がまさに注文しようとしていた料理はからあげ定食そのものだ。
だが…
「なんで分かったんですか?!私、まだ何も頼んでないのに!」
たまたま言い当てたのか、はたまたエスパーなのかと困惑の色を隠せずにいる彼女を、少年は笑みを浮かべながら、
「さっきも言ったろ?見えるんだよ、あんたの一番食べたい物が」
と言った。
女性は何度言われても全く意味が分からず、首を傾げる。
少年は、その様子をおかしそうにクツクツ笑う。
「まぁまぁ、細かいことはいいから、冷めないうちに食いなって!腹減ってんだろ?」
もう一度言われて、女は、そういえばまだ夕飯を食べていなかったことに気づき、急に生唾が溢れ出して来て、香ばしいからあげの匂いに、たまらずゴクリと喉を鳴らす。
割り箸をパキッと音を鳴らして割り、からあげを挟もうとした時、女は唐揚げならば、必ずと言っていいほどのレモンがないことに気づいた。
(私がレモン嫌いなの知ってたみたいな…)
そんなことを考えながら、ふうふうと熱々の唐揚げを冷ましてからゆっくりと口へ運ぶ。
サクサクの揚げたての衣から、鶏肉の肉汁が滴り落ちる。
「美味しい…」
女は感極まって思わず、一粒の涙を溢した。
「あれ、なんでだろう、おかしいな…ごめんなさい…」
流星は、特に何を聞くでもなく、ただティッシュを女の前に置いた。
ひとしきり泣いたあと、女はぽつりぽつりと話し出した。
「私ね、今の会社に入ってもう三年も経つのに、未だにミスばっかりで、毎日怒られてね。最近じゃミスしてないのに怒られるの。本当、情けないよね…って、何言ってんだろうね、私…こんな話されてもわかんないよね」
流星は、いいや、と首を横に振った。
「情けなくなんてねぇさ。どんなに辛くても、今まで頑張って来たんだろ?それは、凄いことなんじゃねぇのか?」
女は、はっと息を飲むと、今日初めて笑顔を見せた。
「ありがとう。私、誰かにそう言ってもらいたかったのかも…」
それからは、女は一口一口しっかりと噛み締めながら、唐揚げを味わった。
それまではそんなに腹が減ってた訳ではない筈だったのだか、一口食べてからはこんなにも腹が減ってたのかと思うくらい、獣のようにむしゃぶりついた。
「ご馳走さまでした」
その一言を放った瞬間、彼女を包み込むように柔らかい光が現れた。
「なっ、何これ?光がっ、急に…っ!」
「お迎えみてぇだな」
「お迎え…?」
「成仏できるってことだ」
「成…仏…?」
その時、彼女は漸く全ての事を理解した。
自分がいつの間にかここにいた理由。
自分は今から一時間前、マンションから飛び降りて自ら人生を閉じたのだ。
「次生まれ変わって来る時は、もっと美味いもん食えよ」
彼女は少し驚いた顔をしてから、小さく
「はい…」と答えて、天へと昇って行った。
流星が、女を見送った時、ふと今までなかった気配が、どこからか現れた。
「成仏した見たいね」
「ああ」
その声は、腰まで伸びる黒髪に青い瞳、紺色のセーラー服に身を包んでいる。
少女の名前は
少女は、既に死んでいて一年近く経つのに成仏できずにいた。
◇◆◇
それは一年前のことである。
「
一面白銀の世界の中、長い黒髪と青い瞳、セーラー服に身を包んだ少女は、少年の腕の中で瞳に薄らと涙を浮かべながら弱々しく呟いた。
「死ぬな!
金色の三つ編みの髪に、紫の瞳を持つ少年が叫ぶ。
しかし、その叫び声は虚しく響き渡り、黒髪の少女は息を引き取った-…。
◇◆◇
「暖簾下げて来るわね」
「それはいいけど、店の外に出る時は気を付けろよ?」
「はいはい、分かってますって」
心配性なんだから、と笑いながら戸を開ける。
するとそこにはまた、新たなお客様が立っていた。
「いらっしゃい。せっかくだけど今日はー…」
「いいよ、せっかく来てくれたんだから入って貰え」
「わかったわ」
月見里は、カウンター席に少年を通した。
「えっと…」
小さな肩を竦めながら、少年はやっとの思いで口を開いた。
「なんでボク、ここにいるのか分からないんだけど…」
目の前にいる二人の少女は、にこやかな笑みを自分に向けている。
「大丈夫、もう分かってるから」
「え…?」
一体何が分かっているのだろう?
そしてここはどこなんだろう?
なんで自分はここにいるのだろう?
少年は全くもって意味が分からなかった。
ふと、店内に嗅いだことのある匂いが広がって、ようやくここが飲食店なのだと言うことが理解できた。
でもまた新たな疑問が少年の脳裏をよぎる。
(何も注目してないのに何故、料理なんてしてるんだろう?
それになんであんな子供が、店の厨房で料理をしているんだろう?
そういえば、料理屋にしてはメニュー表もないし…)
などと考えれば考える程、疑問が増えるばかりだ。
「ハンバーグ定食お待ちどう様!」
「ハンバーグ定食…」
少年は驚愕していた。
それもその筈。
何故なら何も言っていない上に全く見ず知らずの人間に、自分が今一番食べたい物を当てられたからだ。
単なる偶然だろうか?特別な力を持っているのだろうか?
色々なことを考えたが、空腹の前ではそんなことはどうでもよくなった。
慣れない手つきで割り箸を割り、ハンバーグを切ると肉汁が溢れだして来る。
堪らなくなって、ふうふうと冷ましてから口の中へと箸を進める。
するとたちまち、デミグラスソースとミンチ肉の旨みが、口内に広がった。
「美味しいっ!」
少年はぱぁっと表情を輝かせる。
「あんたのママが一番得意な料理だったんだろ?」
そうなのだ。
共働きでいつも忙しいくて料理なんて滅多にせず、粗末な外食やスーパーの惣菜なんかで済ましていた母親が、月に一度だけは手作りで作っていたのがハンバーグだった。
味も不思議と母親の味に似てる気がした。
「ご馳走さまでした!」
少年は礼儀正しく手を合わせて、食べ終えた合図をした。
その瞬間、店内に目映い光が生まれた。
「なっ、何?!かっ、体から急に光が…っ!」
「お迎えみてぇだな」
「お迎え?」
少年は、なんのことか分からず首を傾げる。
「成仏するってことだ」
「成…仏…?」
その時、今まですっぽり空白だった記憶が全て思い出された。
そう、少年は先程事故で亡くなったばかりで、つまり自分は幽霊だと言うことを。
「次に生まれ変わって来る時は、もっと美味いもん食えよ」
返事はなかった。
だが、少年の表情は苦しみなどはなく安らかな物だった。
「可哀想ね。あんな年で死んじゃうなんて」
「最近多いからな。子供の事故。でもだからこそせめて、死ぬ時には美味いもん食って心穏やかに成仏させてやりてぇってもんだろ」
「そうね…」
流星は、空になった皿を下げて、流し台へ移動した。
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