果て

明里よしお

果て



 青空がいつもの様に広がっている。


 空は美しかった。空だけが、美しかった。


 私は身支度をすると、最後のお弁当を作りはじめた。雫が溢れ落ちないように楽しいことを必死に思い浮かべて意識を逸らすが、二度と帰らないであろう思い出が溢れ、堪えきれない。

 どうにかして完成させることができた。容器に包む手が震える。

 物資が足りていないので簡素なものしかできなかった。それでも、あの人は喜んでくれるだろう。

「おはよう」

 いつもと変わらない優しい声がした。袖口で涙を拭う。

 私もおはよう、と返した。

「ごめんね。本当は一緒にごはんを食べられたら良かったんだけど、もう行かなくてはならないんだ」

 私は何も言わずにお弁当を差し出した。どんな小さな言葉でも発したら泣き出してしまいそうだった。

 上手く笑えているかな。

 彼はありがとう、と言うとそれを受け取って丁寧に荷袋に仕舞った。日常の動作を一つ一つ噛み締める様に。

 突然、目の前が暗くなった。私はすぐにそれが彼の胸元なのだと気づいた。

力強い抱擁に、私も精一杯の力を込めて抱きしめ返す。

 ボーン、ボーンと柱時計が時間を知らせる。流れるにはあまりにも速すぎる時間を。

 ゆっくり腕を解いていく。お互いの瞳を見つめ合い、唇を重ねた。

「おあよー」

 その声で勢いよく体を離す。それはまだ足取りもおしゃべりもおぼつかない、私達の大切な大切な息子の声だった。どうやら時計の音で目を覚ましてしまったらしい。

 すぐ後ろに小さな息子よりもさらに小さい、これまた大切な大切な娘もついてきていた。

「辛くなるから、昨日で別れを惜しんだつもりだったのにな」

 彼は子供達を抱き上げると顔中にたくさん、優しいキスをした。

 二人ともくすぐったいのか、きゃっきゃっと笑っている。息子も娘も、まだ彼との別れを理解できていない。

 名残惜しそうに息子を降ろし、娘を私の腕に渡すと、彼は最後に二人の頭を撫でて私の頬にキスをしてから家を出た。

 危険だから外に出ないようにと言われていた。私も、それを理解してはいた。それでも、私はどうしても、最後の一瞬まで彼のそばにいたかった。だけど、子供達をそれに巻き込むわけにはいかない。

 ありったけの暖かい服に包ませて、二人を家で一番安全な地下室に連れて行った。すぐに帰るから、それまでこの地下室から出ないようにと言い含めると、まだ幼いのに息子は聞き分け良く聞いてくれた。さらに幼い娘も、ただ兄を真似しているだけかもしれないが、こくりと泣かずに頷いた。それが二人にとても申し訳なかった。

 すぐ帰るからね、ともう一度言って二人を強く抱きしめると、私は彼の後を追った。

 今ならまだバスに乗っていないはず。

 息を切らしながら走ってあたりを見回す。彼の姿がバスに並ぶ男達の中にあった。彼の名を叫ぼうとしたその時、何か大きな音がしてそれに声が飲み込まれた。

 なんだろう?

 その音とは別に、ひゅんひゅんとものが素早く飛んで来る音がする。

 黒く大きな塊が空からいっぱい、降ってきた。まるで雪が舞い落ちるかの様にゆっくり降るそれらは、地面に着くと激しい音と共に赤い花を咲かせた。

 爆弾。

 その二文字が私の頭に浮かんできた途端、スローモションは終わった。

 大粒の雨の様にたくさん、速く、容赦なく、降って来た。あちらこちらで赤い花が咲く。

 彼が並んでいたバスにも。

 金切り声が爆音の響く空間をつん裂く。それは私の声だったのか、誰か他の人の声だったのか、わからなかった。

 必死で彼がいたところに向かって走り出す。もう全てが遅いとわかっていても、そこに向かって走った。

 ふっと息子と娘の顔が脳裏を掠めた。

 そうだ、行かなきゃ。二人を守らなきゃ。彼の分までも。

 私の顔は汗と涙と煤で汚れ切っていた。無造作に起こる爆発の影響で熱風がたちこもり、声はガラガラになっていた。

 家が見える。無事だ。ああ、良かった。

 硬ばっていた表情が自然と笑顔へと崩れた。走り続け、すっかり感覚のなくなった足の動きを少し緩める。

 二人とも、遅くなってごめんね。

 早く二人と共にシェルターへ逃げようと足取りをまた速めた時だった。

黒い物体が我が家の真上から放たれた。

 やめて!

 声にならない声を絞り出す。

 いやだ。

 いやだ。

 いやだいやだいやだ。やめて。その子達だけは。


 何よりも真っ赤で、鮮やかで、残忍な花が家に咲いた。


 なんで私だけ。

 なんで私のところにだけ落ちてこないの。私の思い出の場所、小さな日常、どんなものにも変えられない大好きな私の家族。

 私の大切なものは全て奪われたのに、どうして私だけが生き残っているの。

 とうに枯れた涙と潰れた声で泣き叫ぶ。誰にも届かないと分かっていても。

 もう何かをする力もなくなり、地べたに寝転ぶ。相変わらず爆弾は私の上には落ちてこない。

 ぼやける視界の端に空が映る。

 この壊れた街で唯一美しかった空も、炎と煙で赤黒く燻んでいた。

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果て 明里よしお @akesatoyoshio

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