撤退の狼煙

 ──同時刻。


 ベニエス要塞、戦場。



 「─父上っ! 父上っ!!」


 ディーンがダグラスに駆け寄る。

 

 ダグラスの身体には浅くない傷が複数刻まれ、今も血を流し続けている。 満身創痍…とまでは言えないものの、出血による体力の消耗は誰の目にも明らかだった。


 「ディーンっ貴様! 何をしておるっ!? 持ち場を離れるなどっ‥」

 「父上っ! ……ガルトワが死にました。 他の者達も、もはや長くは持たない。 撤退を具申します」


 戦闘開始からおよそ二時間。 アルスト陣営の戦況は、時を刻むごとに悪くなっていた。


 故に、ディーンの上申は合理的判断の結果だと言えるが……。

 

 「バカがっ! それだけはあり得ぬっ!」


 ダグラスの黒く濁った瞳は、断固として拒絶する意思をディーンに示す。


 ただし、それはディーンも織り込み済みである。

 今のダグラスを諫めるのは簡単ではない。 そんな事は分かっている…。だがディーン達も引くわけにはいかなかった。


 「…ムルカ様ぁっ!!」


 ディーンが叫ぶと、ダグラスの前にムルカが躍り出し。 

 …そしてそのまま、ダグラスが闘っていた相手との交戦へと移る。


 「ムメアっ! …貴様っ!」

 「閣下っ! ここは私が引き受けます! 一度お戻りをっ!」

 「ふざけた事を! っ─なにをっ!!」


 尚も前へ出ようとするダグラスを、ディーンは正面へと回り込み身体で止めた。


 「ぬぅ…! やめよっ!!」

 「父上ッ! お戻りをッ!!」

 「巫山戯ふざけるなッ!! 戻れるかぁッ!! ここでっ!」


 一歩も引かぬダグラスに…。


 「ふざけるなっ?─それはこっちの台詞ですッ!!」


 ディーンも感情を昂ぶらせ、必死に対抗する。


 「なんだとッ!!」

 「貴方は誰ですッ! 指揮官でしょう!? 誰より正しく判断を下す義務があるッ!! 違いますかッ?!」


 ディーンがダグラスの眼を、逸らすことなく睨み付ける。

 どう考えても、戦場のど真ん中でする問答ではない。 今もダグラス達を掠めるように斬撃が飛び交っている。


 「ぐぬ…。」

 「父上が冷静に判断した上で再び命じた事であれば、私はそれに従います。 だから今は…お戻りを!」


 だがその狂気が、ダグラスに冷静な思考を…僅かではあるが取り戻させた。








 ──ベニエス要塞、軍議室。


 ダグラスがその巨体を椅子に預けると、傍に控えていた軍医二人が透かさず治療を始める。


 今室内に居るのは、軍医二名を除くと…ダグラス、ディーン、エリックの三人だけである。


 「…それで、撤退…と言ったか?」


 ダグラスが部屋の静寂を、その低く高圧的な声を震わせ断ち切る。

 治療の最中、身体には針さえ通していると言うのに眉一つ動かさない。 眼は真っ直ぐ、ディーンに向けられていた。


 その様子から、ダグラスは未だ激情の渦中にあれど、話は通す事が出来る状態にあるとディーンは判断する。


 「はい…。 こちらの損害は死者二名に重症者一名、軽症者は…言わずとも良いでしょう。 比べてファリウスに与えた損害は、汎用神器の使い手二人だけです」

 「では、五分と言うことか」

 「……そうでない事は父上も分かっておいでの筈。 …奴等は集団戦闘に特化している、守りを崩すのは…最早不可能です。 救援も…諸侯はまだ事態を把握すらしていないでしょう。 どれだけ早くとも、明日以降になる。間に合わない」

 「…………で、あったとしても…。 撤退だけは、あり得ぬ」

 「そんなっ。 何故です!?」


 ディーンはダグラスの顔を見る。 表情、雰囲気、どちらも戦場で猛っていた時とは比ぶべくもない程に落ち着いている。

 ……それはつまり、冷静に判断した上での結論と言う事を意味していて…。


 「ディーンよ…。 我らが此処に居る意味はなんだ? 父祖代々継がれしこの地を、守る為であろうが。 それを放棄し逃げ帰るなど…出来る訳がない」

 「……此処でみな、死ぬとしてもですか?」

 「そうだ…。 覚悟を決めよ。 我らは最後の一人になろうとも…戦うのだ」

 「…………」

 「それに…。 領地を失った貴族ほど、惨めなものは無いものよ。 …分かるな?」

 「……っ…」


 ディーンは、ハッキリ言って承服しかねていた。 頷きたくない。その思いが、胸中を満たす。

 だが…目の前に構えるダグラスの、有無を言わさぬ雰囲気に抗う術は無く。 ただ、腰を折ろうとした…


 その時。



 「銀嶺纏武ぎんれいてんぶはどうするんです?」



 エリックの、どこか気の抜けた声が部屋に響いた。



 「なに…?」

 「銀嶺纏武です。 父上が死ねば、当然奴等に奪われます」

 「…ぬ」


 ダグラスの意気が僅かに削がれたのをディーンは敏感に感じ取り、追撃をかけようと口を開くが……。


 「父上っ。 確かに、エリックの言う‥」

 「黙れ…! 静かにしろ」

 「──っ …はい」


 ダグラスはディーンを一瞥すらせず言葉を遮り、エリックを見据える。


 


 「…………」


 そして、静寂が辺りを包んだ。


 


 「あー、父上。 発言しても?」


 破ったのはまたしても、どこか抜けたエリックの声…。


 「……構わん」

 「え~、じゃあ一言。 ……土地は奪い返せば良くないですか?」


 エリックを見据えるダグラスの視線が微かに揺らぐ。


 「奪い、返す…」

 「はい。 奪われた神器を取り返すより、多分簡単でしょう? それに、想像して下さい。 銀嶺纏武を、父上や兄上以外の愚物が操るのを。 父上は許せますか?」


 言われるままに、その光景を想像したのだろう。 ダグラスの身体から殺気が滲む。


 「そもそも今回、父上と父上の銀嶺纏武は負けてない。 相手が恥知らずにも質より数に訴えて来たんですから。 対等な戦いでは父上は負けない。…そうでしょう?」


 エリックの長台詞をダグラスは黙って聞いている…。


 「例え一時的に領土を預ける事になっても、父上程の人物を貴族院は冷遇なんて出来ない筈です。 絶対に。 だって…今回の事、予期出来てないのは彼らも同じなんだから」


 故に、エリックは畳みかけるように言葉を並べた。


 「それに、『牧場』の事だって。 父上は誰もやってない新しい事を始めて、成功してるじゃないですか。 我が国にはまだ、父上の様な人が必要です。 …ここで死ぬべきじゃない」


 全ては、今この戦場から…逃れるため。




 「……………」


 再び訪れる静寂。


 今度は、エリックもディーンもそれを妨げる事無く、ただダグラスが口を開くのを待つ。


 漂う緊張感。


 だが、普段は見せないダグラスの長考に…エリックは自身の思惑の成功を見ていた。






 「………その通り、か」


 やがて発せられたその言葉に、エリックとディーンは心中で頬を吊り上げる。


 「父上…」

 「銀嶺纏武は失えぬ…。 撤退戦だ」

 「父上、では…ご指示を」


 ディーンはダグラスの変心を恐れてか、間髪置かずに指示を仰いだ。


 「うむ……。 総撤退の狼煙のろしを上げよ。 彼奴らにくれてやる人財など無い。…一人でも多く逃がせ」


 総撤退とは、あらゆる物資を放棄し、規定場所への迅速な移動を求める命令である。 この狼煙を目にした兵士は、自身の撤退のみならず、退路にある村落の住民にも避難勧告をしなければならない。


 「…では、その間我々は防衛を?」

 「いや、お主は此処を離れダーレンに合流せよ。 …その後デイバン砦に向かえ」

 「デイバン砦…。 確かムルカ様の領地に、ある…」

 「そうだ。 しばらくはそこで抗戦に備えるのだ。 ダーレンには、あやつの裁量で政治を任せる。 『この戦を我が領だけの問題とするわけにはいかぬ、“神将”を引っ張り出せ』とそう伝えよ」

 「承知しました。 ですが父上、持たせるつもりなのです?」

 「……徹底した防衛戦なら、今暫くは釘付けにしてくれるわ」


 ダグラスは具体的な時間を示さなかった。 それは…現在の戦況の深刻さを物語るものであり。

 ダグラス自身も、今から兵士領民全員の避難など考えていない事を意味するものであった。


 ディーンもそれは理解している。 それが出来るならそもそも撤退を選ぶ必要がないからだ。

 つまり、兵士への撤退命令などただの体裁ポーズ。 領主としてのなけなしのプライドを守るためのものでしかない。


 だからこそディーンは安堵した。 今の解答が、偽りなく本心を語っていると確信を得た為である。


 「分かりました、父上。 …御無事のお戻りをお待ちしています」


 …故にディーンも、今度こそ本心から頭を下げる事が出来た。



 「エリックっ!」

 「っ、はい」


 ディーンの言葉に首肯したダグラスは、エリックへと素早く向き直る。


 「お前はミルコと共に牧場に戻り、男女十組の選別をするのだ。 それ以外は処分しろ。 後はディーンと同じ…選んだ連中とデイバン砦に向かえば良い」

 「処分…。 もったいなくないですか?」

 「全員移動させる時間はないのだ。 彼奴らにくれてやる位なら、処分せよ」

 「……分かりました」


 一度撤退すると決めたダグラスに迷いは無い。

 エリックが不承ながらも頷いたのを確認すると、すぐさま椅子から立ち上がり…。


 「では直ぐに動け。 これよりは時を何よりたっとぶっ!」


 そう声を張り、二人を部屋から追い出した。





 ──ベニエス要塞、正門前。


 「エリック、助かった。 私ひとりじゃ父上を説得出来なかっただろう」


 ディーンが馬の最終調整を行いながら声を掛ける。


 「ディーン兄さんは真面目過ぎるんですよ。 もっとダラッと考えないと…。 そもそも父上が銀嶺纏武を手放せる訳がないんですから」


 エリックも、同じく鞍の調整をしつつそれに答えた。


 「ふはっ、かもなっ。 よし、行くぞ。 まずは牧場だ。全力で馬を飛ばして、潰れたら走る」

 「え? ちょっ、ディーン兄さんは本邸に向かう筈でしょう?」

 「どうせ、途中にあるのだ。私も手伝うさ。 下民とは言え、百人以上殺すのは大変だろう?」

 「え~、そんなことないけど…」


 馬に飛び乗ったディーンの、当然のようになされた提案に…エリックは露骨に不服の意思を表す。


 「なんだ不満か? まあなんと言おうが、お前に拒否権は無いぞ?エリック」

 「…………」

 「ミルコっ。 お前は殿しんがりを頼む」

 「はっ。 承知」

 「よし…。 エリックっ、さっさと馬に乗れ。 遅れるな?」

 「分かってますって…」


 三人が乗馬したのを確認すると、ディーンは先頭で二人に振り向く。


 「ここからは強行軍だ。出来るだけ早く任務を遂行する。 ミルコは戦闘の負傷もあるだろうが、意地を見せてくれ。 ……では、出発だ。 ハイッ!ヤッ!」

 「…………」


 馬がいななき、地を蹴り駆ける。


 


 「…言ったそばからクソ真面目じゃねえか」


 言うだけ言って、後は振り返る事なく進発したディーンの後ろ姿を見ながら、エリックが呟いた。


 「お楽しみが無くなっちゃいましたね?」


 エリックの呟きに、ミルコが律儀に反応を返す。


 「……まったくだよ」

 「まぁ、仕方ありません。 それより我々も行きませんと。 ディーン様を待たせる訳にはいきません」

 「わーてるよー」


 そして、数秒遅れてエリック達も馬を駆る。



 戦争開始から僅か二時間。


 二百年続いたバーゼルの支配に…終わりがもたらされようとしていた…。






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