第四章 代償

4-1

 由希斗との関係は長いこと小春を悩ませているものだが、ファントムペインに関する調査も、行き詰まりをみせていた。


 何にしろ、情報がない。


 市長の話では若者を中心に広がりつつあるとのことだが、高校生たちは平和そのものだった。日常生活で神さまの話をすること自体がそう多くはないし、たまに話題になるときは、みな正しく畏れている。


 昔に比べると信仰の度合いが薄れてきているとはいえ、この街では、まだ誰もが神が本当に居ることを感じ取っているのだ。


 高校生にまで広がる噂ではないのかもしれないと考えた小春は、放課後に、市内唯一の大学キャンパスへ足を運んだ。

 キャンパスは、通学にはやや不便な、街の東側の山裾にある。実験用の農地や貯水池など、総合大学に必要な土地を市内でまとめて確保するためには、利便性を犠牲にするしかなかった。

 キャンパスの奥から続く山は、由希斗が暮らすところではないが、やはり神域とされている。


 キャンパスには市民に開放されているカフェテリアや食堂もあるため、小春が制服姿で歩いていても咎められはしない。学生たちが雑談するのに聞き耳をたててみようかと、ひと気の多い場所を探していたら、途中で後ろから声をかけられた。


「小春ちゃん!」

「あら、絵里奈ちゃん」


 内心で、やや面倒に思った気持ちを隠し、振り返る。帰りのホームルームのあと教室で別れたはずの絵里奈は、制服のまま、教室では見なかった大きなトートバッグを肩から下げていた。


「どうしたの、その荷物」

「ここの図書館から借りた本なんだ」


 絵里奈がバッグの口を広く開けて小春に中身を示してみせる。のぞき込んだ小春は、サイズや厚みが違う本が、五、六冊は入っているのを見て取った。それらのタイトルを見て、一旦は「重そうね」と軽く返したものの、頭の中では、適当な雑談をするつもりだった考えが吹き飛んでいた。


 本は、どれもこの街の歴史や民俗、信仰に関するもののようだった。

 思わず顔を上げ、絵里奈の顔をまじまじと見る。


「……この本、絵里奈ちゃんが借りたの?」

「ううん。健太くん……室井先輩。返却日なのに、家に忘れていったって聞いて、届けに来たんだよ」

「え……」

「室井先輩のお母さんが言ってたんだけど、先輩、帰ってきてからこういうことばっか調べてるんだって。それがなんか、ちょっと……」


 絵里奈は浮かない顔でトートバッグを揺らす。普段なら、小春は彼女の悩みを聞いてあげられた。だが今は、すぐにでも立ち去ったほうがいいような予感がした。


「ねえ小春ちゃん、この街の神さまは、悪い神さまじゃないよね?」

「それは、もちろんよ」


 心からうなずきつつも、小春はこの場を立ち去る言い訳を探した。

 だが、間に合わなかった。


「ごめん、絵里奈……と……。……菅原……?」


 久方ぶりに聞いた声が、戸惑いを帯びる。

 絵里奈を見つけて駆け寄ってきた室井健太は、小春に気づいてひどく驚いた顔をした。


 由希斗の術が効いているなら、彼は小春を忘れているはずだった。

 何らかのきっかけで術が解けてしまった、というよりは、おそらく誰かが術を解いた。室井が借りたという本のタイトルを思い浮かべ、小春は良くない想像がふくらんでゆくのを感じた。


「菅原、お前、その制服……」

「えっ、小春ちゃんと知り合い……?」

「お久しぶりです、室井先輩」


 室井の態度に困惑する絵里奈の視線に気づかないふりをし、他人行儀に頭を下げる。室井にとって小春は同級生であったから、彼はまごついて動きを止めた。


 その隙に、小春は絵里奈を振り返った。


「わたし、待ち合わせをしているから、もう行くわ。『二号館の、カフェテリアで』」


 一瞬、室井に目配せをする。彼はそこまで鈍い人間ではなかったはずだ。


「それじゃあ、絵里奈ちゃん、気をつけて帰るのよ。先輩、失礼します」


 ふたりに何かを言う暇を与えず、小春は小走りで彼らから離れた。二号館を目指しながら、明日、絵里奈にどう言い訳をしようか考えようとして、その前に、室井と彼の借りた本が思考に引っかかる。


 ファントムペイン。由希斗を邪魔に思っているらしい組織。


 答え合わせはすぐだろうが、やっと尻尾を掴んだ高揚よりも、かつて室井が由希斗に対して見せた憎々しげな表情が、小春の胸を騒がせた。





 室井は小春が意図した通り、ひとりで二号館のカフェテリアにやってきた。カフェテリアの入り口近くにいた小春は、彼が自分を見つけたことに気づいてすぐ、ゆったりした足取りでカフェテリアを離れ、実験棟などが並ぶひと気の少ない区画を進み、さらにキャンパスの裏手に広がる雑木林に踏み入った。


 このまま雑木林を抜けたら禁域である。山に向かって少し傾斜のついた雑木林を進んでゆけば、山との境界を示す二本の夫婦杉に行き当たる。夫婦杉の間には太い注連縄が渡され、こちら側とあちら側を区切っていた。


 境界のすぐ手前で足を止めた小春に少し距離を置いて、付いてきていた足音が止む。


「久しぶりね、室井くん」


 小春は半身だけ振り返り、穏やかな笑みを室井に向けた。対する室井は、困惑をあらわに、目を見開いて小春を凝視してくる。


「卒業以来だから、三年ぶりかしら」

「そうだ……卒業……なのにお前、なんで、その服」

「あなたには、もう懐かしいでしょう」


 制服を見せつけるように、軽く腕を開いてみせる。高校一年生である今も、三年生に紛れていたかつても、いつでも変わらず、小春の身の丈ぴったりの白いセーラーワンピース。


 合服期間になり、夏服にカーディガンを羽織る女子生徒も増えていたが、小春はまだ長袖の制服を身につけていた。蒸し暑くなってきていても、小春は気候の暑さ寒さに苛まれにくい。由希斗が、小春に快適に過ごしてほしいと思うあまり、街の霊力がほんのり小春にだけ優しいからである。


 室井は混乱を抑えるように大きく息をついて首を振り、顔を上げた。その視線が、小春の上から下までを二度ほど往復するあいだ、小春はじっと黙っていた。


「……菅原、お前はあの頃と少しも変わってない……。そう見えるだけか? それとも、オレはやはり幻覚を見ているのか」

「わたしが変わりないのも、あなたが今見ているわたしも、どちらも本当で、本物よ」

「三年経っているんだぞ。本当なわけあるか」


 室井が顔を歪めて、嫌悪をあらわにする。そして、それを隠すようにぎこちなく笑った。


「あの人の言ったことは、本当だったんだな」

「あの人?」

「オレにこの街の真実を教えてくれた人だ」


 小春に向けられた室井の目に、哀れみのようなものが浮かぶ。


「この街はまやかしばかりだ。神の恵みなどと言って、街の人たちは支配されていることに気づかない」

「神さまのおかげでこの街が恵まれているのは、本当のことでしょう。みんな幸せに生きられるわ」

「そんな幸せなんか幻想なんだ。自分の力で得たものじゃない幸福に浸って、己の意思を捨てている」


 由希斗も、似たようなことを言った。

 それでも小春は、それが幸せであることは間違いないと思う。


「幻想だとして、それを壊して不幸になるのは、嫌だわ。室井くんは、そうじゃないの?」


 ファントムペインと名乗り、この街の神とその恩寵を幻想だと主張する教団。

 室井との繋がりをほとんど確信しながら、そ知らぬふりで室井の話をうながす。


「本当の幸せじゃない。みんな、神とやらに騙されているんだよ。お前だって気づいてるんじゃないか? その姿、神に捕らわれているからなんだろう」


 室井は顎をしゃくって小春を指した。


 神に捕らわれている。


 言い方を変えれば、確かに、今の小春はそうとも表せるのだろう。小春自身も、ほんのわずかだが、そういうふうに感じている。

 けれど、それを室井に言われると、自分でも不思議なほど拒絶したい思いがこみ上げてきた。


 捕らわれてなんかいない。


「菅原、お前はそれで、本当に幸せなのか?」

「……」


 室井の言葉を、否定するつもりだった。否定できると思っていた。

 それなのに、小春は薄くひらいた唇を、何も言わぬまま閉じた。


『僕のお嫁さん』


 慈愛を乗せて、由希斗は小春をそう呼ぶ。それがどんな愛であれ、愛されていることは確かなのに――それを信じられるのに、由希斗に呼ばれるたび、胸のどこか奥のほうがとても苦しい。


「……あなたには関係ないわ」


 小春が幸せじゃないとしても、由希斗は何も悪くない。小春が、神さまの巫女だという立場を踏み越えて、由希斗を求めてしまうようになったせいだ。


 室井を前にしていても、小春は由希斗のことしか考えられなかった。


「オレが、お前をこの街の幻想から救ってやる」

「どうやって?」

「神とやらを、殺す」

「……っ」


 小春は、一瞬で強ばった体をほぐすように、細く、長い息を吐いた。


 由希斗は、室井なんかに殺されたりはしない。

 大丈夫。


「無理よ。あなたに彼は殺せない。誰にも、そんなことはできない」

「彼?」


 室井が、はっと何かに気づいたそぶりを見せた。それを黙殺して、小春は続ける。


「でも……」


 あることが、小春の脳裏にひらめいていた。

 由希斗は殺されたりしない。彼の力を預かっている小春には、そう確信できる。だが、眷属である小春くらいなら。


「わたしを救ってくれるというのなら」


 室井本人はともかく、彼の背後には、由希斗の霊力にいくらか抗う力をもつものがいるはずだ。

 小春は夢の終わりに気づくときのような、寂しさと、ほんの少しの安堵を感じながら微笑む。


「わたしを、殺してくれる?」


 衝動的な思いつきだった。由希斗を貶す室井への苛立ちと挑発でもあり、本気かどうか、小春自身にも曖昧だ。


「は……?」

「あなたがわたしを救ってくれるというなら、それだけが、あなたにできるかもしれない唯一のことよ」

「馬鹿言うなよ!」


 愕然として一瞬棒立ちになった室井が、我に返った途端、大股で小春に詰め寄って来た。


 だが、小春が数歩後ずさり、ローファーの踵を禁域との境界に掛けそうになると、室井はぴたりと立ち止まって、焦った声を出す。


「菅原、それ以上下がると……」

「神さまを幻想だと言うのに、禁域は恐れるのね」

「恐れているわけじゃない。でも幸福で目を眩ませて人を支配するような奴だぞ」

「偽物の幸せよりも、本物の不幸のほうが良いって、そう思う?」


 小春はその場から動かず、禁域を示す注連縄を見上げながら室井に尋ねる。


 もし、自分が由希斗の思いに気づかないままでいられたなら、それは幸せなことだったろう、と思うのだ。


 何も知らないままだったら、『僕のお嫁さん』と呼ばれるのに、嬉しさだけを感じていられたはずだ。


 自分の存在が由希斗を苦しめていると気づかなければ、彼のもとで過ごす日々には、喜びだけがあったろう。


「本物が、不幸とは限らないだろ」

「……わたしにとっては、そうなの」

「お前を神から解き放って、オレがお前を幸せにしてやる」


 小春が笑ったことに、嘲笑の意図はなかったが、室井にはそう見えたかもしれない。そのせいで、室井は対抗心に火がついたかのような勢いで身を乗り出した。小春が動かないことを確かめてから、さらに近づいてくる室井に、小春はふたたび告げた。


「わたしを救うと言うのなら、わたしを――」


 殺して。


 そう言おうとして、唐突に声が出なくなった。


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