4-2
「小春、ダメ」
声を出せないことに気づいたときには、どこからともなく現れた由希斗が、小春を後ろから強く抱き締めていた。
神嫁、つまるところ由希斗の眷属である小春は、由希斗が言葉を封じれば、逆らうことはできない。
小春は小さく息を吐いて唇を閉じた。今、由希斗の力は、乱れた感情に引きずられて暴走しかけている。彼の感情の向かう先のほとんどが小春だ。だからその力は、小春を締め上げるように全身にまとわりついてくる。
「剣崎……! やっぱり、お前が!」
小春をその胸に収めるように抱いた由希斗は、鬱陶しそうにゆるりと顔を上げる。
小春の視界の端で、白銀の髪が揺れて輝く。
「小春は僕のものだ」
「お前を殺せば、菅原は自由になれるんだ!」
「小春は望まないよ」
有無を言わせない声音だった。いつも小春の気持ちをうかがってばかりの由希斗が、このときは小春を気にかけるそぶりさえみせず、言い切った。
「お前に菅原の気持ちがわかるってのかよ?」
あなたに言われたくないわよ。
つい、そう言い返したくなったのに、由希斗がますます小春を強く抱くものだから、胸が圧迫されて声が出せなかった。
「……小春の気持ちなんて、わかるわけないじゃないか」
強い風が吹きつけて、空気が騒がしく鳴っている。でも、由希斗の掠れたつぶやきは、彼に抱かれている小春には届いた。
思いがけない言葉に、とくん、と心臓――の代わりの霊力が跳ねる。
「だけど、絶対に、どこにも行かせないから……」
由希斗の感情の乱れを映して、霊力が大きく荒れていた。このままでは街の天候や、人の心にも影響が出てしまう。
小春は由希斗に締め付けられてほとんど身動きがとれないまま、首を少しだけ動かして由希斗を見上げようとした。体格差のせいで、実際は小春のこめかみが由希斗の肩を擦った程度だが、小春の身じろぎは、由希斗の気を引くには十分だった。
「ユキ、うちに帰りましょう」
「諦める必要なんかないんだ、菅原!」
室井が叫ぶが、彼のことなど、今の小春には眼中になかった。
荒れて苦しいだろう由希斗を思えば、一刻も早く、彼が安らげるところへ落ち着きたい。
「帰るの。わたしたちの家に」
繰り返し言い聞かせると、由希斗は小春をいっそう強く抱き寄せて、そこから小春は一瞬の浮遊感を味わった。
瞬きのあいだに、由希斗は小春を連れて家に戻っていた。
見慣れたリビングで、相変わらず由希斗は小春を後ろから抱いたまま、その力は緩むどころか強まってゆく。いっそ小春を彼のなかに仕舞い込みたいかのようだ。
小春はあらがわず、体の力を抜いて彼に任せていたが、さすがに息苦しくなってかすかに首を振った。それを抵抗と感じたのか、由希斗がますます腕に力を込める。本当に息ができない。
そんなふうにしてしまうほど、由希斗が苦しい思いをしているのだと思えば、小春は何も言えなくなってしまう。
せめて窒息だけは避けたいと、できるだけ優しく、自分を締め上げている由希斗の腕に手を添えた。
「……あのとき、小春が生きたいと願ったんだよ」
「……っ、え……」
「違うなんて言わせない。僕、嘘は言ってないもの」
小春は、単に息苦しくて声を詰まらせただけなのに、由希斗には反論に思えたのだろうか。
彼はまた霊力で小春の声を封じて続けた。
「小春が生きたいと願ったから、僕が叶えた。僕たちのあいだにあるのは、正しく『契約』なんだ」
「……」
小春には、生きたいなどと願った記憶はなかった。
人々の信仰を失った野良神が小春の家族を襲い、小春も重傷を負った。かすんだ視界に赤い血を眺め、薄れゆく意識のなかで、自分も父や母と同じように、まもなく死ぬのだと悟った。あのとき、思っていたことはただそれだけだ。
「……ユキ?」
ふと、由希斗の力が弱まり、声が出せるようになる。少し余裕ができたおかげで、由希斗の呼吸が荒く乱れて、その体が震えていることに気がついた。
「ユキ」
呼びかけても、由希斗は小春を抱き締めたまま、返事も、身じろぎもしない。
だがひどく苦しげな様子だけでも彼の異状を察するに十分だった。小春は、それが何であるか知っていた。
「ユキ、歩ける? せめてソファに……」
「……だいじょうぶ……部屋に、戻るから……」
小さな声で答え、小春を放そうとした由希斗に、小春はみずから寄り添った。
「菫、紫苑」
名を呼ぶと、音もなくふたりが姿を現す。彼らは心配そうに自分たちのあるじを見つめたあと、小春に視線を移した。
「タオルを何枚かと、お湯と、氷水を、それぞれユキの部屋まで持ってきてくれる?」
「はい、姫さま」
さっと早足に洗面所へ向かうふたりを見送り、由希斗を支えながら、家の一番奥にある彼の部屋へ連れていく。
二階にある小春の私室は、この家の外観通り、現代ふうの普通の部屋である。
いっぽうで、由希斗の部屋は特殊だった。
入り口は一双の襖で、それを開くと、建物の大きさを考えれば、高さ、奥行きともに明らかに大きすぎる空間が広がっている。板敷きの部屋の中央には、大きな御帳台があった。
部屋の敷居を跨ぐと、空気が変わる。この先は、本当に神域なのだ。
部屋に入ってから、由希斗は覚束ない足取りのまま小春から離れて、御帳台の中に倒れ込んだ。小春は制服のままだった由希斗からジャケットを脱がせてやり、乱れた髪を指で梳いて、汗ばむ額をそっと撫でる。
由希斗がうっすらと目をひらいた。
「小春……もどって、いいよ」
桃色の瞳は宙をさまよい、あまり見えてはいないようだった。無理はしないでと言う代わりに、彼のまぶたに指を添え、閉ざしてやりながら、ささやくように答える。
「そばにいるわ。もともと、神さまに寄り添うのがわたしたちの役目で、それに、わたしはあなたのお嫁さんだから」
由希斗の不調は、強すぎる力の反動だ。
何万という人口をもつ街を支え、あるいは、それを一瞬にして消し去ることができる強大な力。先ほど、彼は感情のままに爆発させかけて、寸でのところで押し止めた。その負担が彼を苛んでいる。
「ごめん……小春、ごめん……」
うめくように言う由希斗の手を取る。
「あなたは何も悪くないわ」
「ごめんね……僕のせいで……」
「ユキが謝ることなんて、何もないの」
由希斗に、小春の声は聞こえていないようだった。彼は疲れ果てて眠るまで、うわ言で小春に謝り続け、小春は、聞こえていないとわかっても、そのたび彼に答え続けた。
由希斗の呼吸が落ち着き、深く眠ったことを確かめて、そっと息をつく。
「謝らなくていいのよ……」
小春は、彼に怒りも恨みも、謝罪を受けるような感情は何ひとつ抱いていない。
小春を生かしたことを悔やんで、罪悪感に苛まれ続けている由希斗を、解放してあげたい。
――でも、由希斗はそれを望まないのだろうか……?
『どこにも行かせないから……』
由希斗は優しい神さまだ。だから、身勝手で生かしてしまった小春に責任を取ろうとするし、自分の都合でさっさと始末したりもしない。長くともに過ごしているから、それなりに情もあって、特別に大事にしてくれているのだろう。
だが、ついさっき聞いた由希斗の声に滲む感情は、小春が思うより根深いもののように感じた。
『小春が生きたいと願ったんだよ』
由希斗は、小春が室井に『殺して』と言ったことを咎めた。
でも、小春が願ったから叶えたのだと言うなら、小春に対価を求めていたはずだ。小春には、彼に何かを渡した記憶もなかった。
「ねえ、ユキ……」
長く一緒にいて、由希斗が言葉にしない後悔も罪悪感も、わかっていた。由希斗だって小春の思っていることは、なんとなくでも知っていただろう。
けれど……。
『小春の気持ちなんて、わかるわけないじゃないか……』
苦しそうに吐き出された声は、まだ耳に残っている。
静かな呼吸を繰り返す彼の唇にそっと指先を触れさせた。霊力で構成される彼の身体は、呼吸を通じて酸素ではなく、霊力を循環させている。それでも、人間と変わらず湿って温かな息が出てゆく。
「わかるわけない……それって、知りたいってことよね」
ごめんなさい、とつぶやいた。
お互いのことは、お互いになんとなくわかっていると思っていた――実際、わかってはいるのだ。
けれど、それが自分たちのすべてではないと、気づいていなかった。
「わたしの知らないことと、ユキの知らないこと……。それが何なのかもわからないけれど、わたしも知りたいと思うわ……」
由希斗の眠りを妨げないように、でも、その夢のなかへ届くように願って、小春は由希斗に額を寄せてささやいた。
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