『雪の夢』

 冷たい風が吹き抜ける冬の空、小さな雪の結晶が舞い落ちる。

 それは瞬く間にこの星を白く染め上げて、静寂なる銀世界を作り出した。

 積もった雪の大地は、すぐに人々の足跡と、彼らの営みの跡によって彩られていく。

 だが、なおも雪は降り止むことを知らず、姿の変わった大地に刻まれたそれを、次から次へと元の銀色へと戻していた。


 ――それも、都会の喧騒から離れたこの場所では、関係のないことだった。

 ここには、積もりゆく雪が隠してしまうほどの足跡も、際限なく降り注ぐそれによって埋もれてしまうモノも、なにもないのだから。




 ※※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※




 ――白い息を吐きながら、シエル・リアステッセイは舞い落ちる粉雪を見つめていた。


 頬はほんのりと赤く、シエルの周りを渦巻く冬の外気は無情にも冷たいものであることをうかがわせる。

 雪景色は美しいものであるが、この寒さの中でそれを見るためだけに外に留まる価値があるかどうかは意見が分かれるだろう。

 当のシエルがどう思っているかは本人以外に知れないが、少なくともシエルがここで一人、落ちゆく銀色を見つめているのは待ち人のためだった。


 シエルにとって、銀色に染まった世界はなにも特別なものではない。ただしそれは、雪国出身であるとか、銀世界に見慣れているからとか、雪景色に大した感想を抱かないからとか、そういった理由があるという意味ではない。

 シエルにとってはこの雪景色も、そうでない普通の星模様も、忘れられない思い出の一つであるということは変わらないのだ。

 雪には特別な思い出があるとか、雪の日はなにかいつもと違ったものを感じるとか、そんなことを待ち人の彼は言っていたけれど、シエルにとっては、どの瞬間も特別なもので、だからこそこの雪景色も、普段となにも変わらない日常の瞬間なのだ。


 だから、シエルは今も、いつもと変わらず、忘れられないあの時に思いを馳せながら、舞う雪結晶を見る。

 白く、どこまでも続く雪原に落ちる白を目で追いながら、頬と瞼を熱くする。


「…………」


 ひんやりとした空気が素肌を撫でて、シエルは無意識に身体を縮こませた。

 かれこれ十分は経っているが、待ち人はまだ空き家から出てこない。外にいると言ったのはシエルのほうだが、この寒い中で乙女を待たせるのはいかがなものかと思う。それに、すぐに済むといったのは彼のほうだし。


 二人は今、とある地方の住宅街――というにはあまりにも寂しい、田舎のような場所に来ていた。

 目的があったのは待ち人の彼のほう。シエルはその付き添いだ。元々別の用で外に出ていた二人だったが、その帰りに彼が寄りたい場所があると言い出したのが始まりだった。


 そうしてやってきたのがこの空き家だ。一見してごく普通の家だ。昔の様式でもなければ、朽ち果てた廃屋でもない。本当に、ただの空き家だ。空模様のおかげで屋根に雪が積もっているが、その重みで家が潰れる様子もない。

 なんの変哲もないこの家で、待ち人はなにを求めているというのだろうか。


 はぁ、と白い息をついて、シエルは手を口元で温める。複雑な感情の入り乱れた熱い吐息は、ほかの誰にも見られることなく曇った空に消えていく。

 溶け込んで見えなくなったそれをシエルは見上げる。いつかの思い出の中の自分と、同じように――。


「――お待たせ」


 と、空き家のドアが開いて、ようやく待ち人が姿を現した。

 ――ユイ・ルミエール。シエルと同じ『公社』という組織に所属し、彼女の唯一無二のパートナーである男。


「お目当てのものは見つかったの?」


「いや、見つからなかった。……ここじゃ、なかったみたいだ」


 彼は少し眉を下げながらそう答えると、手に持っていた鍵で扉を閉める。

 こんな人気のない地方にまでやってきて、最初は盗みでもするのかと訝しんでいたシエルだったが、ユイがこの空き家の前で鍵を取り出したときは驚いた。

 本部から離れたこんな場所に、ユイの家があるとは。


「正確には、『僕の』家じゃないけどね。昔住んでいたわけでもないし。鍵は、セラから借りたんだ」


 言いながら、ユイは軽く鍵を空中に投げたり、キーホルダーの輪に指を通して回したりしてそれを見せびらかす。

 ここが彼の、本来の意味での『家』ではないのなら、いったいこの空き家はユイのなんになるのだろうか。

 聞いたところで、納得のいく答えは返ってこないだろうと思ったし、そもそもこれにアレセラが絡んでいるのならなおさらだ。

 そう思って、シエルはとくになにも聞こうとしなかった。


「じゃ、行こうか」


 無言でもって返したシエルに、ユイは特段変わらない調子で歩き出す。

 空き家の庭に積もった白い雪原に次々と足跡が刻まれ、それは意外と深く踏み込まれていた。

 手で掬い取れば、それなりの量が手の平に集まるだろうか。


「…………」


 ふと、シエルが身を低くして、足元の雪を掴み取った。

 手袋もなにもしていない彼女の手に集まった雪は当然、彼女の体温を奪ってその手を冷やしていく。

 片手の上に乗る雪を、シエルはもう片方の手も使って丸く形を整えていく。


 ――そして、ほとんどなにも考えずに、目の前を歩く男に向かって投げた。


 力を抜かれて飛ばされた雪玉はゆるやかに空を飛び、ユイの後頭部に当たって砕けた。

 痛みはないはずだ。それでも砕け散った雪の破片はユイの髪や首元に残り、その冷たい感触が彼に刺激を与えていた。


 間抜けな声を上げて振り返ったユイと、真顔で雪玉の行方を追っていたシエルの視線がぶつかる。

 二人はしばらくのあいだ、そのまま見つめ合っていたが、やがてシエルのほうからその沈黙を破った。


「――ぷっ」


 吹き出すように、小さく笑い声を漏らす。それが合図だったかのように、シエルは滅多に見せない笑みを零した。


「――あははっ!」


 なにがシエルの心に笑いをもたらしたのかはわからない。

 それでもただ一つ言えることは、こんな些細なことで笑い合えるのは、二人にとってはとても幸せなことだ、ということだった。


「……やってくれたな」


 そう言うユイの顔にも笑みが浮かんでいる。心の底から笑う相棒の姿を見て、彼はどこか安堵しているようだった。

 それとは別に、ユイはゆっくりと身を屈めると、足元の雪を掬って細かく砕き、花弁を飛ばすように――なにがそんなにおかしいのか問いたくなるくらいに笑うシエルに向かって雪の雨をお見舞いした。


 「ひゃっ」と年頃の少女のような悲鳴とともに、シエルが思わず身をすくめる。

 それを見て満足した様子のユイは、背を向けて庭を駆けだした。


「あっ……このっ――」


 やられっぱなしでは終われないシエルだ。彼女はまた足元の雪で綺麗な弾丸を作り、白く冷たい花の雨をかけてくれた男に向かって――今度は勢いよくそれを投げる。

 同時に駆けだし、少女は先行した相棒の後を追う。


 いい年をした男女が二人。誰もいない雪原の中で雪合戦。

 きっと、ここでしかできないことだ。この場所の、この瞬間にしか、できないことだ。

 そして、二人が見せているその感情も、今この瞬間だけのものだ。


 ――雪はいまだ、止むことを知らない。

 刻まれた足跡も、掬われて凹んだ雪原の跡も、すぐに元の姿へ。

 そして、ここにいた二人の人間の足跡も、まるで夢のように掻き消していく。



 ――投げられた雪玉が一つ、またぶつかって弾けた。


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