『おとぎ話(1)』
ガタガタと、テレビや映画の中でしか聞かない音が聞こえてくる。その音に呼応するように、身体を預けている乗り物の籠が上下に揺れて、わずかに宙に浮いた尻がその衝撃を受けて痛んだ。
乗り心地は、あまりいいとはいえない。こうして身体が跳ねるほどの揺れを感じたのも、もう何度目になることか。こうも頻繁に揺られてしまっては、休眠をとることもままならない。
眠ることを諦めて閉じかけていた瞼を開き、小さな窓を通して籠の外を見る。夜闇に閉ざされていたはずの世界はいつの間にか明るくなっていて、山の向こう側から日の光が漏れ出しているのが見てとれた。
それはつまり、ほとんど一睡もせずに夜を明かしたということになるのだが、それも今回ばかりは仕方がない。はじめから、こうなることを覚悟のうえで依頼を引き受けた――否、引き受けようと思ったのだから。
視線を籠の中へと戻すと、眠気と疲れで不機嫌そうな顔をした同行者の姿が目に入った。自分と同じように身体を籠に預けるその少女は呆然と
特別警戒すべきものも何もないため休んでいていいと言っておいたのだが、彼女もこの乗り心地の中では眠れなかったらしい。
普段ならば延々と彼女を見つめていれば尖った反応が返ってくるのだが、この状況ではそういった反応を返すことすら煩わしいのか、視線を合わせ続けてもいつもの反応が返ってくることはなかった。
無感情になっている相棒から目を逸らして、再び小さな窓から籠の外を見やる。山々に囲われたこの道の景色は、昨日の夜からほとんど変わっていない印象だ。実際には長い距離を移動しているのだろうが、辺りの様子が変わらなければその実感も抱けまい。
ただ、そんな考えも、次の瞬間には吹き飛んでいた。
山の陰に隠れていた太陽がその姿を現し、朝の眩しい光が視界に入って、自分たちを乗せる籠を眩しく照らす。
エルグレア地方を分断する『大渓谷』――山を、大地を二つに分ける渓谷と、そこに架かる木製の橋に、籠は差し掛かったのだ。
籠の中からでも、地平線の彼方から昇りつつある太陽ははっきりと見え、割れた大地の底を流れる小さな川は、その光を反射して輝いている。
その光景はまさに、この旅路の終着点に相応しい――そんな間違った印象を抱いたときだった。
「――やっと、着いたのね」
差し向かいに座る相棒の少女、シエル・リアステッセイが不機嫌な態度はそのままにそう言った。自分の側にある小さな窓の外を、彼女は細い目で見据える。
そこから差し込む日の光が、彼女の姿を明るく照らし、その美しさをよりいっそう引き立てていた。
「ああ。僕らの長い旅路も、これで終わりみたいだ」
「……何言ってるの。『これから』でしょう? まったく。まだ始まってすらいないのに、こんな調子じゃ先が思いやられるわ」
軽く零した自分の冗談に、シエルは呆れた様子で腕を組む。
先が思いやられるとは、確かに的を射た発言だ。乗り心地の悪いこの籠が辿り着く旅の終着点。それは真の意味での『終着点』ではないのだから。
先の見えない長旅に、自分たちの生まれた地とはまるっきり異なる環境の世界。彼女がこの旅の行く末を案ずるのも、当然のことだった。
「街に行って、詳細不明の依頼者を探して、それでようやくスタートラインに立てるかどうか……本当に、ここまでする必要があるとは思えないんだけど」
「付き合わせて悪いとは思ってるよ。それに、付き合ってくれたことに感謝もしてる。でも、どうにも頭から離れないんだよ。あの話を聞いてからずっと、ね」
「それがただのお節介で、無駄骨と無駄遣いで終わるかもしれないのよ。大前提として、あなたの言う『依頼』は、『公社』に届け出されていないわけだし」
「こっちには『協会』があるからね。それに、『公社』が相手にするのは大抵、僕たちと同じような人ばかり――話に聞いた子も含めて、普通の人が僕たちや『公社』のことを知っているとは思えない。『依頼』が『公社』に届いていなくても、何も不思議じゃないさ」
「それならなおさらよ。もう依頼主は『協会』のほうに助けを求めているかもしれない。私たちがわざわざ出向いて世話を焼く必要は――」
そう、シエルが言いかけたときだ。前方から嘶き声が聞こえてきて、乗っていた籠が突然大きく揺れた。慣性の影響を受けて、自分とシエルの小さな身体が前へ投げ出されて、咄嗟に手を古びた座席について支える。
やがてそれが完全に収まったとき、際限なく変化し続けていた外の景色の流れも、あの乗り心地の悪い振動も止まっていた。
いったい何が、と二人同時に顔をしかめながら前方を見たとき、ここからでは見えない外の座席に座る人間の声が聞こえてきた。
「お二人さん、盛り上がっているところ悪いが、到着したぜ」
水を差したことを謝罪しながらそう言った声は男のものだ。客が乗る籠の外、ある意味では危険が伴う外の座席に座るその人間は、籠を引く生物を操り、自分たちを目的地へと導いて今、その役目を終えたのだ。
『大渓谷』に架かる橋を渡った辺りという中途半端な位置で籠は停まった。目的の街に行くにはここからしばらく歩く必要があり、それを加味すると男は自分の役目を放棄したと、そう捉えることもできなくはない。が、少なくとも自分にとっては、彼を責める理由も権利もありはしない。
半日ぶりに立ち上がって伸びをする。睡眠不足で少しふらつく足元をなんとか支えながら、古びて窮屈な籠の中から抜け出した。
エルグレアの大地へと降り立ち、後ろに続く相棒の姿を目の端に捉えながら、正面に立つ生物の雄姿を見やる。
半日間乗り続けていた籠を引いていたのは『馬』だ。馬の後部には、人一人分座れる座席があり、そこには当の男が座っている。
故郷ともよべる自分の世界には存在しない『馬車』を見つめながら、御者台の男の言葉に耳を傾けた。
「もう少し金を出してくれれば、街まで乗せてってやるんだがなぁ」
彼がそう零すのは、自分たちが出発前に彼に渡した路銀の量が、彼の望みよりも少なかったことからくるものだ。
たとえそれが御者付きの馬車だろうと、乗せてもらえる距離と払った金銭の額が比例するのはタクシーなどと同じ。故郷のそれと違うのは、運ぶ側が時には危険な場所への護送を頼まれることがあることにくわえ、この国では馬車を手軽に使えるようなものではない影響で、料金が故郷のそれと比べて割高であることか。
「ここからなら、徒歩でも街まで辿り着けるでしょうから、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「……悪いな、兄ちゃんたち。本当は乗せてってやりたいんだが、契約は契約……俺も仕事でやってることだ。決まりは曲げられねえ。いくらここから街までの安全が確保されててもな」
「気にしませんよ。そもそも、無理を言って乗せてもらってるのはこちらですから。それに、仕事で一度例外を作ってしまうときりがなくなりますからね。――僕が言えたことではありませんが」
「いや、兄ちゃんの言うとおりだよ。仕事でやってる以上、取り決めは守り続けなきゃならねえ。そうでないと、いろいろと困ることになるからな」
丁寧な言葉で理解を示すと、御者台の彼もほっとしたような顔で応える。
男もまた、客商売をやっている以上、いろいろと思い悩むことがあるらしい。もっとも、その悩みの中に、自分と共通しているものがあるとは思えないが。
「じゃ、俺は行く。お二人さんも、気をつけてな」
「ええ。どうもありがとうございました。道中、お気をつけて」
互いに言葉を交わし、男は手綱を使って馬を走りださせる。
そのまま、自分とシエルを乗せてきた馬車は反転して来た道を引き返していった。その後ろ姿はどんどん小さくなり、やがて蹄の音も聞こえなくなる。
残されたのは自分と、傍で目を閉じて腕を組む小さな相棒だけ。
その相棒の態度はいつもと変わらない――ように見えて、今日は一際不機嫌そうだった。
「ユイ」
「――。なんだい?」
冷ややかに自分の名前をそう呼ばれて、シエルの方に向き直る。
彼女は目を閉じたまま一度息をついて、それから片目だけ開けてこちらの目をまっすぐに見つめてから言った。
「ここから歩くっていうの?」
「……そうだよ」
「……。馬鹿じゃないの?」
「……僕だって、まさかこんな状態で歩く羽目になるとは思わなかったよ。まさか、馬車の乗り心地があんなにひどいとは」
「はあ。あそこでお金を渡して、街まで乗せてってもらえばよかったのに。そもそも、なんのために値切ったわけ?」
ある意味真っ当なシエルの意見には、何も言い返せない。
ただ、誰だってあの値段を提示されれば少しは渋ると思う。他国ほど文明が進んでおらず、主要な交通手段である馬車でさえそれなりの値が張るとは聞いていたが、まさかあれほどの金額を求められるとは思わなかった。
一応、この世界で使えるお金は限られている。できるだけお金を使わずに済ませたいのは、自分も同じだ。街まで歩いて行ける場所で降ろす代わりに対価を安く済ませられるなら、そちらを取るのは自然だった。
とはいえ、最終的に徒歩で街に向かうという予定を立てたのは、あくまで馬車の中で休息をとれると思っていたからだ。件の馬車の中で休めなかったのは、完全に計算外――。自分もシエルも、長旅の疲れを馬車で癒せずに、むしろあの乗り心地のせいで余計に疲れてしまっていた。そんな中歩かなければならないと聞けば、シエルが不機嫌になるのも当然だ。
さらに悪いことに、今回の『仕事』はある意味時間との勝負だ。ゆえに、街に着いたらそのまま『仕事』に入らなければなるまい。
それはつまり、街に辿り着いたところで、ゆっくりと休息をとる暇は自分たちにはないということだ。
本題に入る前だというのに必要以上に疲労せられ、そのうえここから街まで歩かなければならず、挙句の果てに休むことは許されない。
『依頼』の開始地点にすら立っていない今回の旅路は、前途多難に見舞われていた。
「……おぶろうか?」
眠気を堪えながら、少女を気遣ってそう言ってみると、無言で蹴りを入れられた。
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