雨空はやがて月をも覆い隠すだろう

冥夜みずき

『理想郷』

「――理想郷ってなんだと思う?」


 照明の落とされた広い部屋の中、赤みがかったほのかな電球だけに照らされたカウンター席に座る若い男が、独り言のようにそう呟いた。

 背の高い丸い椅子。それに行儀良く座りながらも、カウンターにもたれるように背を丸めるその男の手元では、グラスに入ったわずかばかりの液体が、バーの洒落た照明に照らされて輝いていた。


 そんな彼の相手をするのは、男のすぐ隣の席に座る女だ。その容姿は、いっそこの場にいることが奇妙に感じられるほど幼い。頭の位置は、隣の男より少し低い程度だが、彼とは違い、女の足は床に届いてはいなかった。それは、単に椅子の背が高いのか、それとも女の背丈が低いのか。

 おそらく足がついていない理由は後者であろうその女は、手元のグラスに入った桃色の液体を一口飲むと、ゆっくりとそれをカウンターに置いてから言った。


「……また、唐突ね。いったい何に触発されたのかしら?」


「さあ、なんだろうね。今日一日過ごして、ふと思ったんだよ。僕たちが追い求めている理想郷は、いったいなんなんだろうって」


「理想郷、ね。私たちが追い求めているのは本当に理想郷なのかしら? ――いいえ。私たちは本当に、理想郷なんかを追い求めているのかしら?」


「ある意味では、そうだと思うよ。僕たちは……そういう人間だからね」


 含みのある言い方をしてカウンターに置かれたグラスに手を伸ばす男を、女は少し細めた目だけで見た。

 男の手の内にある、少し大きめのグラス。その底に溜まった透明な液体が消えていくのを見届けた後、女は再び視線を落として自分のグラスを見やる。


 半分以上残った桃色の液体に、彼女の、自分の顔がぼんやりと映っている。ただ、色付いた液体に暗い赤い光が差し込む店の中では、それを視認するのもやっとのことだった。

 結局、グラスの飲み物は女の顔を反射する鏡にはなれず、女は少しだけ視線を上げてから話を続けた。


「……あなたは、どんな世界が理想郷だと思うの?」


「それがわかってたら、わざわざ君に聞いたりしないさ」


「ええ、そうね。でもあなたの考えを聞いておきたいの」


 女の言葉を聞いて、若い男はカウンターの上で遊ばせていた手の動きを止める。

 彼は少しの間、空になったグラスをじっと見つめていたが、やがてそのグラスを奥の方へ滑らせて「サフィさん、同じのもう一杯お願いします」と言った。


 サフィ、とよばれたバーテンダーが男からグラスを受け取り、彼は空になった自分の手元に視線を戻す。それからやっと、男は問いに答えた。


「……理想郷、か。僕にとっては、今のこの世界が理想郷だと思うけどな」


「この世界、が?」


「うん。何者にも縛られず、自分の思うように日々を生きる。『公社』の人間として過ごすこの世界の日常は、まさに理想郷そのものだよ」


「……はぁ。それ、あなたにとっての理想郷でしょう? 質問の答えとしては不適切よ。もっと客観的にものを見ないと」


 言いながら、女は男の方に向き直ってその横顔を見つめる。

 それから「それに」と言葉を継いで話を続けた。


「私たちは『理想郷を追い求めている』のでしょう? 今の答えだと、私たちはもう理想郷を手に入れていることになるわよ?」


「まぁ、確かに質問に対して相応しい答えとはいえないだろうね。結局のところ、理想郷なんてものは個人個人に委ねられるものだと僕は思うんだよ。客観的に、つまり世界中すべての人間が納得して理想郷だとよべるものなんて、存在しないと思うんだ」


「それは……確かに言えてるかもしれないけど……」


「そうでしょう? 客観的に見れば、僕たちが住むこの世界も、あの女の子が住む世界も、理想郷とはほど遠い。――それは、紛れもない事実だよ」


 そこで男は話を切り、バーテンダーから差し出されたグラスを受け取ってそれを一口飲んだ。

 透明なグラスに注がれた、透明な液体。メニュー名は『白光の果実』。男のお気に入りのドリンクの一つだが、このドリンクがメニューの中でもメジャーなものなのかは男も知らない。


 その、二杯目のグラスを見つめながら、男は話を続けるように女に尋ねた。


「シエは? シエにとっての、理想郷って?」


「私にとっての、理想郷……」


 女――シエはそう呟くと、身体の向きを戻しながら自分のグラスを見つめて黙った。

 グラスに注がれた液体『桃月の果実』。四分の一ほどまでに減った桃色の液体をじっと見つめていた彼女は、しばらく経ってから――男のグラスの中身が、半分ほどにまで減ってから、口を開いた。


「……幸せになれる世界、かな」


「……幸せ?」


「うん」


 意外そうに聞き返す男に、シエは目をグラスからそらさず静かに頷く。

 「幸せ、か」と感慨深く言葉を繰り返す男は、再びグラスの中身を一口飲んだ。


「人はみんな、自分の幸せのために生きているんだろうけど、君が言う『幸せ』には、なんだか深い意味がありそうな感じがするね」


「それはあなたの勘違いだと思うけど」


「あれま。でも、『幸福』って、理想郷の定義としてはなかなかいいと思うよ」


 目を少し細め、頭を傾けながら男がシエに笑いかける。

 彼女の反応は微々たるものだったが、男はまったく気にする素振りを見せずに正面に向き直った。


 男のその言葉を最後に、バーは再び沈黙に包まれる。店の中で聞こえてくるのは、グラスが持ち上げられ、傾いて中の液体が消えて、再びカウンターの上に置かれる、その音だけだ。

 男はじっと正面を、女は肘をついてぼんやりとくうを見つめている。動きが激しいのは男のほうで、数分前に頼まれた二杯目の『白光の果実』は、もうグラスの中に残ってはおらず――シエが沈黙を破ったのは、その男のグラスの中身が空になったときだった。


「――あなたの言うとおりね」


「――?」


「理想郷なんてものは、その人間にとって一番都合のいい世界のことでしかない。この世界に存在する人間の数だけ、『理想』が存在する。誰かにとっては理想郷だとしても、別の誰かにとっては暗黒郷かもしれない。――私たちみたいなものね」


「――――」


 小さな手の内にあるグラスが傾いて、女の口元へ。

 店の赤色に照らされたその唇が淡く輝き、『桃月の果実』がシエの喉元へ落ちていく。


「……最初の言葉を訂正するよ。――僕たちは、理想郷を追い求めてなんかいない」


 その言葉を聞いて、シエはゆっくりと男の方を見る。

 彼女の瞳がその横顔を捉えると、男はゆっくりと言葉の続きを口にした。


「僕たちが追い求めているのは、理想郷なんかじゃない。僕たちが追い求めているのは……ただの、その場限りの『幸せ』、だ」


 「それも、ひどく身勝手な」と最後に付け加えて、男は席を立った。

 女はグラスの底に残った最後の一口を飲み干してから、優雅に地面に降り立った。

 二人並んで数歩歩き、男はカウンターの奥に立つバーテンダーに声をかける。


「サフィさん、ごちそうさまでした。お会計、お願いします」


「いつもありがとう。話は円満に終わったの?」


「どうでしょうか。とりあえずの結論は出た、って感じですかね」


「なんだか難しい話をしてたみたいだけど……あんたたち素面だからそんな雰囲気は感じられないね。相変わらず、『公社』のお客さんは変わっている」


「サフィさんもノンアルの飲み物に好き好んでそれっぽい名前付けてるんだから、おあいこですよ」


 流れるように『白光の果実』と『桃月の果実』がノンアルコール飲料であることをカミングアウトするサフィに、男は苦笑する。

 代金を払い、サフィの「また来てね」という声を背中に受けながら、男はシエと一緒にバーを出た。


 頭上にあるのは、闇。その闇の中に、弱く、小さい光が、いくつか見える。

 辺り一面に並ぶ建物の明かりが眩しいこの世界では、その幻想的な光はほんのわずかにしか見ることができない。


「――かの魔王サマは、ありもしない理想郷を追い求め続けているんだろうか」


「あいつを引き合いに出すのはやめなさい。あれが何を考えているのかなんて誰にもわからないわ。わかりたくもないし」


 独り言のように零した男のその言葉に、シエが鋭く切り込む。しかし男は彼女の言葉には何も答えず、ただ「帰ろう」とだけ言って歩き始めた。


 「ユイは、この後どうするの?」――シエにそう聞かれて、ユイと名を呼ばれた男は再び空を見る。

 時刻はまだ早い。夜はまだ始まったばかり。だが、今日のユイにはなぜだか――、



 ――今日はなぜだか、早く朝を迎えたいような気がして仕方がなかった。



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