第8話 毛筆の達人

爺様の趣味は、高尚だった。書道の腕前もなかなかで、書き留めた文字を、板に貼り、刻字をしていた。その作品は、いろんなコンテストで、賞を取っていたが、今では、すっかり部屋の隅っこに重ねて置いてある。

「どう書けば、いいんだい?」

筆を持たせると、決まって、爺様は、そう聞いてくる。

「こう書くんだよ」

聞かれると兄は、張り切り、爺様に字の書き方を教える。

「これでいいのかい?」

兄の真似をして、筆を取る爺様。文字には、見えないが、そう言われれば、そうとも見える。崩した立派な文字になる。

「体が、覚えているのかね」

婆様は、不思議そうに爺様の書いた文字を見る。デイサービスで、染めてくる塗り絵も得意だったが、最近は、2色のみ、染めるだけになっている。少し前までは、綺麗に塗り分ける事ができていたのに、今では、塗り分けるのが、大変になったらしい。2色に、塗り潰された桜の絵が、爺様の認知症が進んでいる事を知れせている。

「よく、書けたものだ」

婆様は、兄に習った書いた爺様の習字を、懐かしむように、壁に貼って、見せた。

「誰が、書いたんだい?」

婆様が、爺様に聞くと

「わからない」

そう答えた。短期記憶が、無くなっている。兄は、自分の書いた書道も貼ってくれよと婆様にせがみ、かくして、2人の書道は、玄関を入って正面の壁に、貼られ、客人の失笑を買うことになった。けど・・・・。世の中、どうなるか、わからない。それを見た爺様の通うデイサービスの職員が、コンテストに出してみないか?と声を掛けてくれたのだ。我が家では、一大事の事件となった。介護サービスの月刊誌で、定期的に行なっているコンテストで、ちょっとした賞金が出るのだ。雑誌の取材を受ける事になる。家族の緊張が爺様に、うつり、爺様は、ちょっと不穏になっていった。

「いつもと、同じでいいんですよ」

職員に声をかけられるが、書くことができない。

「どう書くんだい。どうすんだい?」

爺様は、オロオロして先に進まなかったらしい。

「どうしたんでしょうね」

帰ってきた爺様は、元気がなかった。

「そういえば・・」

僕は、思い当たる節があった。

「兄ちゃん、今度、見学に行こうよ」

僕は、兄を誘って、爺様のデイサービスに行く事になった。レクリエーションの時間に、兄とデイサービスの年輩の方と、書道する事になったのだ。爺様は、兄が来たので、少し、得意げだった。嬉しそうに、声を立てて、笑っていた。

「ビューンて、投げるんだよ」

兄が、言う。兄は、墨をたっぷりつけ、用紙の上を走らせる。

「ビューン?」

爺様は、笑いながら、筆を走らせる。

「気持ちいいな」

兄が言うと

「気持ちいい」

爺様が、笑い、職員さん達が、笑う。なんだか、何を書いているのか、わからない文字が、出来上がっていく。

「これこれ、これでいいんですよ」

職員さんが笑う。爺様が笑う。兄が笑う。兄は、爺様を見下さない。いつも、同じ目線でいる。家族の中で、爺様と兄は、兄弟の様に繋がっている。2人の大作が、この月刊誌の表紙を飾る事になった。

「偉い先生が、家には、2人もいるんだね」

婆様は、笑いながら、届いた雑誌を大切そうに、仏壇の前に備えた。

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