2話

  6月9日(水) 20時34分

  


 強烈な違和感を感じて注意深くスマホの画面を確かめる。


「6月9日 20時34分……」


 声に出してみたが、だからと言って何かが変わるわけもなかった。

 慌ててスマホのロックを解除してネットニュースをチェックする。


『拾ったときに目を怪我していた野良猫は現在幸せに……』

『新機種発売! スペックの違いは明らか!? 今欲しいスマ……』

『大人かわいい♪ 今年の夏に着たい大人ワンピを人気インスタグラ……』


 先程まで彼の話題で溢れかえっていた画面はありふれた情報で埋め尽くされていた。


「どーなってんだよ……!」


 不意に口の中に違和感を覚える。呟いた言葉に酒気の香りが漂う。朝から飲酒をした覚えはなかった。


「昨日に戻ったってのか?」


 ひとりポツリと呟いた問いに答えてくれるものはなく、部屋は怖いくらいに静まり返っていた。あらためてスマホの画面を覗き込む。

 


  6月9日(水) 20時35分

 何かに弾かれたように秀は立ち上がると、玄関のドアを勢いよく開けて階段を駆け降りる。

 

〝助けなければ——〟

 

 これが夢でも現実でもどちらでも良かった。昨日に戻って居るのであれば、救える可能性があるのであれば、助けなければいけない。

 こんなに息が苦しくなるほど全力で走ったのはいつぶりだろうか。秀は上りきった息のまま昨夜彼が襲われていたであろう場所にたどり着いた。あたりを見渡すが、それらしき人物どころか、人ひとりいなかった。

 スマホの画面で時間を確認する。

 


  20時37分

 秀が昨夜コンビニを出てここを通ったのは50分近く。事件が起きるのはまだ先のことだった。

 スマホをポケットに滑り込ませると、呼吸を整えながらゆっくりとコンビニまでの道を歩き出す。

 自分がここに居たら三人は現れないかもしれない。それによって事件を防げればいいが、別の場所で起こってしまえば助けようがない。

 だが、前回と同じようにこの場所に三人が現れるという確証もなかった。

 コンビニ近くの公園のベンチに腰掛けると再びネットニュースを確認する。男性が殺されたという最近の記事はどこにもなかった。

 夢を見ているのだろうか。最後に覚えているのは職場で倒れたこと。今頃現実の自分は病院のベッドで横になって居るのだろうか。

 考えながらスマホの画面をスクロールするがそれらしい記事は出てこない。


「やっば……!」

 


  20時50分

 画面の右上に表示された数字を見て、秀は慌ててベンチから立ち上がると住宅街へと走り出す。

 三人を目撃した場所付近で一呼吸整えると、通行人を装ってゆっくりと歩く。


「…………っや……はな……て」


 前回と同様に彼の声が聞こえると同時に、秀の心臓は早鐘を打つ。

 犯人と思われる男は二人。揉め事になれば勝ち目は薄いが、秀には勝算があった。


「何してんだオメェら!」


 自分でも驚くほどの声で怒鳴る。犯人であろう男二人は慌てる様子もなく、男性を隠すように狭い路地から出てきた。


「何って、ナニ?」


 ニヤニヤと慣れているのか、二人の男には余裕が見られた。周りに秀以外いないことを確認すると勝ち誇ったような笑みを浮かべている。


「俺たち見ての通りお楽しみ中なんだよね。彼の同意ももらってるしさ、邪魔しないでくれる?」

「どう見たって嫌がってるだろ、彼を離せ」

「いやいやいや、そーいうプレイだって」


 チラリと後ろの彼に視線を移すと、涙目で首を横に振っていた。秀は後ろポケットからスマホを取り出すと、男二人に向かって画面を見せる。


  110 0:32 スピーカー


「同意だろうが何だろうがな、公衆の面前でそんなことやんのは公然猥褻こうぜんわいせつなんだよ!」


 画面を見てたじろぐ男たち。


「お巡りさん! しの木町ぎちょう四丁目八番地で公然猥褻やってる奴がいます! 今すぐきてください‼︎」


 通話用スピーカーから何やら声が聞こえるが、秀の耳には入らない。目の前のことで精一杯だった。バツの悪くなった二人の男は足早にその場から離れていく。


「はあぁ……」


 大きなため息と同時に膝をつく。どうにか上手くこの場を切り抜け、彼を助けることができたようだ。


「あの、助けてくれてありがとうございました」


 はだけた服を整えながら路地から男性が出てきた。近くの高校の制服を着ていた彼は、恥ずかしさと感謝の混じった表情でペコリと頭を下げる。

 こんな現場を見たからだろうか、男の秀から見ても細身な彼は同性から目で見られてもおかしくないと思わせる何かがあった。


「もーすぐしたら警察が来るだろ、それまでは大人しくここで待ってろよ」


 自身の彼に抱いた印象に寒気を覚え、秀は冷たく言い放つと自宅のアパートに向かって歩き出す。


「ちょ、ちょっと待って!」

「うっ……何だよ」


 腕を引っ張られ仰反ると、秀はわざとらしく迷惑そうな表情を作って見せる。


「警察が来るまでは……一緒にいてください」


 弱々しい表情ですがるように見つめられ、秀は言葉を詰まらせる。


「ひとりにしないでください……」

「……しょうがねえな」


 涙目で訴えかけてくる彼の瞳をじっと見つめる。いくら男でもあんなことがあった後に一人にするのは気が引けてきた秀は仕方なく警察がくるまで一緒に残ることにした。

 秀の言葉を聞いて男は嬉しそうに顔を輝かせる。


「お兄さん、お名前は何ていうんですか?」

三岳秀みたけしゅう

「秀さんですね! 俺は浅木叶向あさぎかなたです」

「おう……」


 安心からか元々の性格なのか、初めの印象と違って普通の高校生のような人懐っこい叶向かなたに秀は少したじろぐ。


「おーい、君たち!」


 煌々とライトを照らして自転車に乗った警察官がやってきた。


「通報したのは君たち?」

 


      *  *  *



「なんであんなこと言ったんだよ」


 苛立ちと困惑の混じった声で秀は叶向を問い詰める。


「あんなこと? 何のことですか?」

「とぼけんな。何で俺がお前の——」

「彼氏って?」

「……そーだよ」

「だって面倒じゃないですか。秀さんが公然猥褻で通報したから、俺たち男二人で現場にいるのも説明するのややこしいですし」

「そーだけども……」


 頭を抱えながら秀はスマホの画面を覗く。通知はなし。

 


  21時47分

「まあいいや、とりあえずお前もう帰れ」

「えっ!」

「えって、何だよ」

「……」


 突然黙ってしまう叶向に秀は戸惑う。


「おい、聞こえてんのか」

「……」

「……おいって」

「……やです」


 小さな消え入りそうな彼方の声は秀には届かなかった。


「なんだって?」

「帰りたくないです……」

「帰りたくないって……どーすんだよ」

「……秀さんのお家に泊めてください」

「……」


 叶向の言った言葉に理解が追いつかず、今度黙り込んでしまったのは秀の方だった。


「……秀さん?」

「いや、無茶言うなって……」

「ダメですか?」

「ダメだろ。俺は二十歳はたちでお前はまだ高校生だろ? こんな事があった後だし、ちょっとは危機感とか持ったほうがいいぞ?」

「男同士だし大丈夫ですよ」

「たった今男に襲われかけてただろうが」

「秀さんは俺のこと襲おうと思ってるんですか?」

「んなわけねぇだろ!」

「なら問題ないじゃないですか」

「問題しかねえって!」

「ほら、行きましょう」


 そう言うと叶向は秀の腕をぐいっとひっぱり歩き出す。


「おい、行くってどこに」

「秀さんのお家です」

「はぁ? 第一俺の家はこっちじゃねえ」

「あ、逆でしたか」

「だから、泊めるなんて許可してねえって‼︎」


 遠くから近づく車のライトに秀は焦りを感じる。このような住宅街で男子高校生と揉めているところを通報でもされれば、それこそ外聞が悪い。

 掴まれた腕を力強く振り解く。


「うわっ……」


 その反動で叶向は後ろに大きく仰反った。

 


 バンッ!!

 


 眩いライトと大きな衝突音と共に叶向の体が宙を舞う。激しく地面に叩きつけられた叶向の体を容赦無く車がき潰して走り去っていった。

 一瞬の出来事だった。

 叶向を轢いた車は猛スピードで真っ暗な住宅街へと消えていった。

 あまりのことに秀はその場に立ち尽くすことしかできなかった。体は硬直して動かず、頭の中が真っ白で目の前が霞んでいく。

 霞行く視界の片隅で叶向の姿を捉えた途端意識が覚醒する。


「……っ大丈夫か!」


 慌てて駆け寄ると、ぐったりと横たわったままの叶向の体を起こす。


「ひっ……!」


 抱き起こした腕にはベッタリと熱いくらいの血がまとわりつく。あたりは一面の血の海だった。

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