紫陽花が咲くころに君と
くろいゆに
1話
株式会社ミーブル自動車。ここが
六月九日(水) 7時20分
スマートフォンの甲高いアラーム音で秀は気だるげに
冷蔵庫の中から昨夜コンビニで買った焼きそばパンを取り出し、温めることなく口に頬張るとペットボトルの天然水と一緒に一気に喉の奥に流し込む。
軽く身支度を整え、今にも壊れそうな錆びれたアパートの階段を降り、愛車のシルビアSー13のエンジンをかける。
8時07分
彼の世界の全てである株式会社ミーブル自動車に到着し、事務所のドアを開けると従業員に軽い挨拶を済ませタイムカードをきる。事務所の隣に建てられた工場で自動車の
この仕事に特別なやり
18時10分
工場での作業を終え、事務所で簡単な書類作成をこなす。片手間にスマホの画面をチェックするが通知はなし。初期設定のままのロック画面が時間を知らせる。
18時40分
定時ジャストにタイムカードをきる。軽い挨拶を済ませると愛車に乗り込み、どこによるわけもなく真っ直ぐと錆びれたアパートの駐車場へとハンドルをきる。
19時16分
「ただいま」
誰もいない1Kに秀の声が響く。服を素早く脱ぐと洗濯機の中に放り込む。
シャワーを手短に済ませ、タオルとジェルボールを洗濯機へ入れてスイッチを押し、掃除機をかける。一人暮らしの長い秀には、仕事帰りのルーティンは完璧に出来上がっていた。
一通り掃除を済ませると冷蔵庫の中からビールを取り出し一気に半分ほど飲み干す。相変わらず通知のないスマートファンのロックを解除すると、だらけながらネットサーフィンをするのが秀の寝る前の日課になっていた。
『拾ったときに目を怪我していた野良猫は現在幸せに……』
『新機種発売! スペックの違いは明らか!? 今欲しいスマ……』
『大人かわいい♪ 今年の夏に着たい大人ワンピを人気インスタグラ……』
当たり障りのない記事をぼんやりと眺める。どれも興味をそそられるものはなく、ただ充電と時間を消費するだけだった。
20時34分
「腹減った」
ポツリと呟くとソファから立ち上がり、冷蔵庫へと再び手を伸ばす。中には水とビール、ソーセージが一袋あるだけだった。真っ先にソーセージが目に止まったが、気分ではなかった。
20時49分
徒歩5分のところにあるコンビニで弁当と明日の朝食分のメンチカツサンドを購入して帰路へと着く秀がいた。
六月上旬の夜は薄暗く、ほろ酔いで歩いただけでも汗ばむ体に心地のいい夜風が頬をなでる。星空をぼんやり眺めながら珍しく秀は鼻歌まじりに夜の散歩を楽しんでいた。
「…………っや……はな……て」
突然聞こえたか細い声に、秀はあたりを見渡す。気のせいだろうか? 誰かの声がした気がした。
「やめ……ほん……やめてくださ……」
先ほどよりもはっきりと聞こえたその声に、言いようのない胸騒ぎがした。閑静な住宅街にそぐわない異様な声。レジ袋を握る手に力が入る。
あたりを警戒しながら歩く秀の目に一瞬、狭い路地に身を隠すようにして居る三人の男が視界に入った。秀の視線に気付いたのか、二人の男は奥の男を隠すように体制を変える。
その違和感に、秀は隠された男に視線を移すと吸い込まれるように視線が合った。慌てて目を逸らすと、なるべく足音を立てないように歩調を早め逃げるようにその場から離れる。走り出したい気持ちを必死に抑え、平静を保とうと試みるが体はその場から離れることに必死だった。
気がつくと錆びれたアパートの玄関前に突っ立っていた。呼吸は荒く、心臓はやけに早くやかましい。鍵を開けよにも手が震えてうまく鍵穴に挿すことができない。もたつきながらも鍵を開けると、急いで部屋に入りドアに鍵とチェーンをかけてその場に座り込む。
あたりには秀の荒い息使いが響く。
「……っ最低だ」
目が合った瞬間の男の表情は涙を浮かべて助けを求めていた。その表情が秀の脳裏には焼き付いて離れない。
〝助けを求めていたのに、俺は——〟
買ってきた弁当に手をつけることなく、秀は逃げるようにベッドに入った。
6月10日(木) 7時10分
甲高いアラームの前に目を覚ました秀は忙しなく身支度を整える。昨夜のことが頭にこびり付いて離れない。
いてもたってもいられず愛車に飛び乗ると、乱暴に鍵を回してエンジンを回し、昨夜の通りを避けるように遠回りして出社した。
7時43分
いつもより早めに会社に着いたため、タイムカードをきるまでの間、事務所のソファでぼんやり壁時計を眺める。事務所では事務員の女性社員が朝から楽しそうに世間話に花を咲かせていた。
「ねえ、ここの店長さんフロントの森住ちゃんと不倫してるって本当?」
「えぇ! そうなの? いくら枯れてるからってあんな地味な子相手にするかしら?」
「ほんとよねー。そういえば、今日のニュース見た?」
「見た見た! ここら辺も物騒よね。子供達今日集団下校ですって!」
「ほんと、物騒よね〜。まさか殺人事件が起きるなんて——」
「殺人事件!?」
思わず声を荒げ、会話に割り込んだのは秀だった。珍しく大きな声を出した秀に女性達は驚いた表情を浮かべながら視線を秀に移す。
「そうなのよ。朝のニュースでね、この近くで男性の遺体が見つかったんだって」
男性、その言葉に心臓が跳ね上がる。
「そうなんですね、ちょっとネットで見てみます」
スマホを取り出し検索をかけると、その事件はすぐにヒットした。
『閑静な住宅街で男性の死体発見』
事件現場は秀が昨夜コンビニ帰りに男性三人組を見た場所と一致していた。
「
「えっ? あ、ちょっとニュース見てうちと近いなって……」
「あらそうなの? ご近所さんでこんなことが起こるなんて……三岳くんも気を付けてね。男の子だからって一人で夜に出歩かないようにね」
「はい、気をつけます」
再びネット記事に目を通し、事件内容をスクロールしていく。
『被害者の男性の体からは複数の男性の体液が検出』
『男性の遺体は衣服を纏わない状態で発見』
『絞殺』
『輪姦』
『強姦』
『レイプ』
スマホの画面から映し出される感情のない文章に冷や汗と動悸が止まらない。体に力が入らず、座って居ることすらままならなくなり秀はそのままソファから滑り落ちる。
「三岳くん! 大丈夫!?」
「救急車呼んで!」
「店長! 三岳くんが——」
かけられる言葉が全て靄が掛かったように遠くの方から聞こえた。視界が涙で滲んでいく。今更後悔したってどうすることも出来ないと分かっていても、罪悪感で押しつぶされそうだった。
自分のせいで、自分があの時声をかけていれば彼は死なずに済んだのではないか。辱めを受けずに済んだのではないか。自分のせいで、自分の、自分、俺、俺の、俺の——
「俺のせいで!!!」
勢いよく顔を上げる。先ほどまで感じていた圧迫感は薄れ、思い通りに体には力が入った。
「え?」
先程まで事務所にいたはずだが、あたりを見渡すと見覚えのある1Kに居た。
「俺の家だ……」
握り締めたままのスマホの画面を見る。
6月9日(水) 20時34分
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます