リフレイン
増田朋美
リフレイン
ある日、蘭が少々夏風邪を引いてしまったようで、杉ちゃんと蘭は近くにあった、開業医に行くことにした。それでも大した診断名はなく、結局ただの風邪ということで、薬をもらって、特に点滴などはせず、かえって良いということになった。杉ちゃんと蘭が会計を待つために、病院の待合室で待っていると、突然一人の若い女性が、血相を変えて病院に飛び込んできた。そしてすぐ受付の女性に向かって怒鳴り始めた。
「あの、兄が昨日亡くなりました。こちらで診断してもらったときは、ただの風邪ということでしたのに、なんで兄は死ななければならなかったのか、理由を説明してください!」
「はあ、それは一体誰のことを話しているのですかね?」
受付はとぼけた顔をした。
「決まってるじゃありませんか。楠田ですよ。楠田茂です。ちゃんと記録も残ってます。13日の午後、ここに来て、高崎という医者の診断を受けたはずです。それなのに、昨日熱が下がらないままなくなりました。本当に風邪という診断だったのか教えてください。そうでないと私、納得できません!」
女性はそう早口でまくし立てた。それを見た病院の警備員さんが、
「あんまり騒ぐと警察を呼びますよ!」
と言ったのであるが、
「ええ上等じゃないですか!呼んだらどっちが困るか、楽しみですわ。」
と女性は言うのだった。
「早く高崎を出してください。あの診断は絶対間違っていたんです。あたしたちは納得できません。ちゃんと説明していただけないと困ります!」
そう叫んでいる女性に、蘭は車椅子で静かに近づき、
「ここで怒鳴っても仕方ありません。落ち着いた場所で話しましょう。」
と、彼女に言った。女性は車椅子の人が来たことで、えらく恥ずかしいと思ってしまったのだろうか。わっと声を上げて泣き出してしまった。
「こんなところで泣かないでもらいたいんですがね?」
と、受付はそう言っているが、蘭は泣いている女性を静かに受付から離れさせ、待合室の隅の椅子に座らせた。そして自分たちの会計をすぐに済ませると、杉ちゃんと一緒に病院をあとにした。病院の人たちは、それ以上、何も言わなかった。
「とりあえず、僕の家へ行きますか。あ、大丈夫ですよ。僕たちは怪しいものではありませんし、ここから車椅子で、5分もかからないところにありますから。」
蘭はそう言って、車椅子で道路を移動し始めた。杉ちゃんは女性を連れて、その後に付いていった。
「はい、僕の家はこちらです。何もない家ですけど、ゆっくりしていってください。」
蘭はそう言って、女性を自宅の中へ招き入れた。一方杉ちゃんの方は、悩んでいるやつは、大体腹が減っていると言って、カレーを作る準備を始めてしまった。
「それで、先程、お兄さんがなくなられたと仰っておられましたが、どういうことなんですか?ご家族はお兄さんだけですか?まず、あなたのお名前は?」
蘭は、彼女を椅子に座らせてそう聞いてみた。
「はい、私は、楠田夏代と申します。現在、父と母と、兄、祖父と暮らしています。」
と、彼女はそう語り始めた。
「随分な大家族ですね。今どきにしては。」
蘭がそう言うと、
「はい。ですが、8月の13日に、兄がとても高い熱を出して倒れてしまい、それで先程のクリニックに行ったんですが、単に風邪としか診断されなかったんです。それで、薬をもらって寝ていましたが、昨日の朝、意識もないぐらい熱が上がって、救急車を呼ぼうとしている間に、兄は逝ってしまいました。」
と、楠田夏代さんは言った。
「はあ、つまり、単に風邪ではなくて、マラリアでもかかったのかな?」
杉ちゃんがカレーをかき回しながらそういった。
「理由はわかりませんが、そうなってしまったのは確かです。だから私どうしても納得できなくて、それで高崎クリニックに押しかけました。」
「そうですか。それは確かに、なかなか受け入れられることではないですね。もちろん、結論としては受け入れなければならないんでしょうけど、それができれば苦労しないという事は、僕も知ってますし。」
蘭がそう言うと、
「はい、単に家族の一人ではなくて、たった一人の私の味方でもありましたから。私、こう見えても精神疾患があって、働くことができないんです。だから他の家族とか、近所の人に、バカにされたこともあったんですが、兄は唯一、そうしないでくれて、私の味方になってくれました。その兄が、どうして死ななければならなかったのか、私、どうしてもわからないのですよ。あのときあのクリニックに連れて行かなければ、もっと専門的な病院へ連れていけば、兄は助かったのかもしれない。そう思うと、本当に申し訳なくて、あれだけお世話になったのに、お礼の一つもできなかったのですから。」
夏代さんはまた声を上げて泣き出した。それはやはり精神疾患があるというか、正常でない人の泣き方であった。
「ほら、泣かないで、カレーを食べな。兄ちゃんは、食べないお前さんを許さないだろう。」
と、杉ちゃんは彼女の眼の前にカレーの皿をいた。夏代さんは、恐る恐るカレーを食べて見たがすぐに、
「美味しい!」
と言って、貪るようにカレーを食べてしまった。
「それで、楠田さん、あなたはどうするつもりなんですか?お兄さんがなくなられて、これからどうするのかとか、考えているんですか?」
蘭は夏代さんにそうきくと、
「いえ、、、何も考えていません。兄が亡くなったことで、それしか考えることはありませんでしたし、どうしたらいいかなんて、、、全く。」
と、夏代さんはそう答えるのであった。
「まあ、そうだよねえ。まあ確かに、そういうもんだと思うけど、家族とはどうなの?うまくいっているのかな?まあいっていれば、病院に殴り込みに行くこともないか。」
杉ちゃんに言われて夏代さんは大きく頷いた。
「そうか。ご家族ともうまくいってないんか。」
「はい。私も、病気になって働けなくなってから、ずっと家にいて、母や父と度々喧嘩してきました。嫌味とか、働けない罪悪感とか、ずっとそればかり考えていたんです。兄はそんな私と年齢が近かったからでしょうか、決してそんな事は言いませんでした。」
夏代さんは正直に答えた。
「なるほどねえ。じゃあお前さんも出かけるところを探さないといけないな。お兄さん以外に誰か相手をしてくれる人が居るべきじゃないのかな?そういうところを、お前さんも作らないと行けないんじゃないの?」
「でも、精神障害者施設も、支援施設も全て受け入れてもらえませんでした。あたしは、何処にも行くところがありません。家族には、いらない人としか扱われなくなってしまいましたし。」
と、杉ちゃんの提案に夏代さんは言った。
「まあ、行くところが無いんだったら、それなら製鉄所へ通ってみたらどうだ?と言っても鉄を作るところじゃなくてさ。ちゃんと部屋を貸しているところだけど、それでなにか仕事をするきっかけになるかもしれないしさあ。それで少し気持ちもラクになるんじゃないのかな?」
杉ちゃんに言われて夏代さんはぼんやりとした顔をしていたが、すぐなにか決断したようで、
「わかりました、行きます!」
と言った。
その翌日、夏代さんは、製鉄所にやってきた。その日はお母さんという、楠田春江さんという女性と一緒にやってきた。その女性と夏代さんが、あまり変わらない年齢に見えるのが気になる。
「よろしくお願いします。何も誰かと話をするきっかけもなかった子ですので、あまり喋るとか、そういう事は、ないかもしれませんが。」
お母さんの春江さんは、そう言って頭を下げるのであった。それは普通の人と言う感じで訳ありの人とは思えなかった。
「了解致しました。他にもそういう利用者さんは、たくさんいますから、何も気にしないで利用してくれて結構ですよ。」
製鉄所の管理人をしているジョチさんこと曾我正輝さんは、何も気にしない様子で、夏代さんに利用者名簿を記入してもらい、利用者の一人に加えた。
「よろしくお願いします。」
春江さんはそう言って夏代さんを製鉄所へ残し、自分は自宅へ戻っていった。
実際、夏代さんと製鉄所で一緒に過ごしてみると、彼女は家事仕事なら何でもできるのであった。でも確かに、他にできそうな事は何も無いのであった。何かできることはないかと杉ちゃんたちも考えてやらせてみたが、体力的に弱くて、完遂したことがない。パソコンも使いこなせないし、何をやっても失敗ばかりしてしまうのであった。それはもしかしたら、夏代さんが子供の頃、自分を肯定してくれる人が誰もいなかったという過去があるのかもしれなかった。
それでも、杉ちゃんたちは彼女をこの世で生かしてやりたいという思いがあったから、彼女にいろんな事をやらせた。生花に書道になんでも彼女にトライさせた。でも彼女が成功した試しがなかった。生花をやれば器を割ってしまって、即退場を言い渡されてしまったし、書道をやれば硯を落としてしまって、部屋中を墨で汚してしまい、また退場を言い渡される羽目になった。毎回毎回失敗して泣いて帰ってくる夏代さんを見て、杉ちゃんたちは、なんだか神頼みして見たくなってしまいたくなったくらいだ。
夏代さん本人も失敗続きで、えらく落ち込んでしまったようだ。なんだかその日は、特に落ち込んでいて、製鉄所の利用者たちも、彼女の事を心配しているようであったが、あまりにも落ち込んでいるので、夏代さんに声をかけるのはつらいような様子だった。
「夏代さん。」
水穂さんに声をかけられて、夏代さんはぼんやりした顔からハッとした顔になった。
「ごめんなさい、庭掃きの仕事しなければなりませんよね。すぐにやりますから、許してください。」
夏代さんは、急いで竹箒を撮り、中庭の掃除を始めた。そのやり方が、自分を無理やり奮い立たせようとしているのが明らかに見えたので、水穂さんは夏代さんを心配そうに眺めていた。
「夏代さん、本当に一生懸命働いていらっしゃいますね。それでなにか役にたてるといいのですけど。」
水穂さんはそう夏代さんに言った。
「でも、きっとなにか役に立てる事はあると思います。」
「それ、亡くなった兄が、いつも言っていたセリフです。兄とは、顔も何も全然違いますけど、でも同じことを言ってくれる人がもう一人いてくれたなんて、信じられません。兄は、時々冗談めいた感じでそう言ってましたが、水穂さんもそうなんですか?」
夏代さんは水穂さんに尋ねるのであった。
「いえ、冗談ではありません。今でこそ何も無いのかもしれないけれど、いつかきっと居場所が見つかるのではないかな。それはきっとどんな人にも見つかると思います。大事なことはね、諦めたり投げ出したりしないこと。犯罪に走ったり、人を傷つけたりしないことじゃないかな。それは大事なことだと思うんです。それを忘れないで、今やれることをしっかりやっていけば、きっと生きて行かれます。」
「お兄さんとおんなじことを言ってる。でも、それは綺麗事で、あたしは、もうどうにもならないんですね。」
「そうですか。お兄さんがそうおっしゃっていたんですね。でもお兄さんの言うことは、間違いではありませんよ。その通りに生きていくしか、人間にできることも無いんです。それをお兄さんは知っていらっしゃるのではないかと思います。」
水穂さんはにこやかに笑った。
それからしばらく、彼女は何をやっても失敗ばかりの日々が続いていたが、水穂さんにはいろんな事を話すようになっていった。いじめられて学校にいけなくなったことから始まって、精神疾患と診断されてしまったこと、そして家族に対して何もすることがなくて、やり場のない怒りが生じて、暴力でしか、答えが出なかったこと。祖父とは、それが原因で絶縁状態になってしまったこと。それを兄の茂さんは、黙ってみているだけでしかできず、あとになって、ずっと彼女の話を聞き続けていた事。元はと言えば茂さんは大変頭がよく、新聞社が企画した模試で一番を取ったことがあり、それが原因で勉強ができなかった夏代さんがいじめられるようになってしまったという。お兄さんの茂さんが夏代さんに優しかったのは、そのためであるのかもしれない。人間、誰かと一緒にいて、誰かと話をしないと立ち直れない生き物なのかもしれなかった。お兄さんの茂さんも、もしかして、罪滅ぼしをさせてくれと、夏代さんに態度で示していたのだろう。
そして夏はあっという間に過ぎてしまい、もう立秋も過ぎて、盆が過ぎていった。暦の上ではもう秋であった。それもまだまだ暑い日は続いていた。それに夏代さんの特技を見つけ出すということもできなかった。でも夏代さんは失敗ばかりでも、一生懸命やっていた。
その日、夏代さんは母の春江さんに部屋に呼ばれた。
「ごめんなさい夏代。あんたが一生懸命やる子だとは思えなかった。本当はね、あんたの事捨ててしまおうと思ったこともあった。それではいけないことはわかっているのだけど。茂の事を考えると、どうしてもあんたのことを受け入れられなかったの。だから、あんたがいじめにあってても助けて挙げられなくてごめんね。本当は、あんたは茂のことを恨んでなかったよね。」
夏代さんは、母からこんな事を言われるなんて思ってもいなかったので、何も言えなかった。
「これからはあんたが好きなようにやりなさい。働けなくても何も言わない。夏代として生きていればそれでいいから。」
「お母さんが、そういう事を言うなんて思わなかった。あたしは、もう何もできることはありません。いろんな事をやらせてもらいましたけど、全部だめだったんです。なんでもトライしましたけど、結局だめになってしまうんです。だからもう生きていくのは、生きるってことは、私には無理なんですよ。」
夏代さんは、春江さんに、そういうしかなかった。
「娘として、なんの答えも出して挙げられないのは、申し訳ないですけど、それがあたしの出した答えだと思ってください。あたしは、きっとなんにもできないんだと思います。」
「そうなのね。そういうふうにさせてしまったのは、お母さんのせいだからね。茂は、それを取り戻そうとしてくれたのかもしれないけど、もう茂もいないし、それも叶わないでしょう。それなら、そうとしか言いようが無いよね。受け入れるしか無いよね。」
春江さんは申し訳無さそうに言った。
「何もすることが無いんだったら、とりあえず流れに乗れば?」
「流れに?」
夏代さんが言い返すと、
「そうよ。それが一番だと思うわ。」
と春江さんは言った。
「そうすれば、あんたの一番欲しいものが見つかるかもしれないわよ。」
「流れに、か。」
夏代さんは、なにか考え込むように言った。
「そうよ。きっとなにか変わっていく。その時を待つのも必要なんじゃないかしら。お母さん、あんたが不真面目な子じゃないって、ちゃんとわかったから。あんたが自分を大事に生きてくれれば、それでいいと思っているわ。」
「そうなのね。」
夏代さんは春江さんに言った。
「自分では、真面目にやってないから、何をしても、全然だめだと思っていたけど、以外にそうでも無いのかな。あたし、まだまだ可能性はあるのかな?」
夏代さんは小さな声でそう呟いた。
その日も、夏代さんは製鉄所に言った。その日は水穂さんがちょっと容態が悪かったようで、ずっと布団の中にいた。夏代さんは嫌がらないで、水穂さんの世話をした。ご飯を食べさせたり、寝間着を取り替えたり、時には話し相手になることもあった。病人の話し相手になるというのは、結構きつい仕事でもあり、時には嫌になる人も居るのではないかと思われるのであるが、夏代さんは嫌がらずに、彼の話し相手になった。その日も一時間ほど水穂さんとお話をして、水穂さんがもう疲れたと言うまで、ずっとそばにいてくれた。水穂さんはどうもありがとうと言って布団に横になると、夏代さんは丁寧に掛ふとんをかけてあげた。
「どうもありがとうございます。夏代さん。今日は何から何までしてくれて、本当にすみません。」
水穂さんがそう言うと、
「いいえ、大丈夫です。少し眠りますか?それなら私、庭掃除があるから、部屋を出ますけど。」
夏代さんは答えるのだった。
「いえ、その必要はありません。」
水穂さんは少し咳をしながらそういった。夏代さんが大丈夫ですかというと、水穂さんは、大丈夫ですと言った。それでも、また少し内容物が、水穂さんの手を汚した。夏代さんはすぐに、タオルでその手を拭いてあげた。それと同時に、お昼だよと言って、杉ちゃんが、ご飯の器を持って入ってきた。
「なかなか痒いところに手が届くやつじゃないか。そういう上手なやつはそうはいないぜ。お前さんは、そういうところがあるな。水穂さんみたいな弱いやつを見ると、自分から寄り添おうとするところがあるなあ。」
杉ちゃんに言われて、夏代さんは顔を真赤にしてしまった。
「いいじゃないか。そういうやさしいところを、うまく生かせた仕事ができると良いな。」
「いえ、仕事なんて。もう色んな事やったけど、失敗ばかりなのは、杉ちゃんにもわかっているじゃないですか。それをまだできる仕事があるなんて、もう言えません。」
夏代さんはそう言うが、
「いえ、それは無いと思いますね。だって、お手本になる人も居たのですから、それを駆使して仕事することも可能なのでは無いでしょうか?少しずつやっていけばいいんです。焦らずに、結果を急がないことです。」
水穂さんがそっとそういったのであった。
「そうだねえ。お前さんには幸い、良いお手本が身近にいたじゃないか。歴史は繰り返すとも言うんだし、それでは、お前さんは、なんぼでも繰り返しできるのではないかと思うけど。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。夏代さんは、少し考え直してくれたようで、そうですねと小さい声でいい、
「じゃあ、水穂さん食べましょう。」
と、水穂さんの前へおかゆの入ったお匙を差し出した。
リフレイン 増田朋美 @masubuchi4996
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