(12) 虚ろの無

         ***

 三日後の早朝。

 雫がやや改まった感じで「明日時間ある?」って訊いてきて一瞬心臓が止まるかと思った。

 あのことだと一瞬で悟った。

 自分から言おう。そう決意して息を吐く。

 雫にきつい言葉を吐かせるなんて絶対に駄目だ。

 苦しむのは僕だけでいい。

 改まって二人ソファーに並ぶ。

 本当はここから今すぐにでも逃げ出したい。そしてこの曖昧な関係のままずっとずっと過ごしていきたい。けれど、そんな願いも虚しく――

「あ、あのさ、これからのことなんだけど……」

 ドクン、ドクンと鼓動が速まっていく。

 僕が言わなきゃ。僕から――

「――あ、あの!」

 雫と過ごした何にも代えがたい全ての幸せな時間がちらつく。

「――えっ」

 遮るように言葉を発し間髪入れずに重く暗い言葉を胸の奥から吐き出す。

「……僕、ここを出るよ」

「えっっ」

 ギュッと反射的に瞑っていた目をそっと静かに開く。

 雫は口を開けてぽかんとしていた。

「――え?」

「えっ、えっ、ちょっと待って? なに言ってるの? れい」

 わけが分からないというようにおろおろして、不安に揺れた瞳は右往左往していて僕を捉えられないかのようだった。そしてさっきまでの表情とは打って変わって血の気が引いていた。本当に少しずつ少しずつ。

「……話したいことって……そのことじゃないの?」

 僕も混乱したままの頭で思いつく限りの回答を考えたが何も浮かばなかった。

「ち、違う」

「え……」

 違う?

「じゃあ、何についてだっ」

「そんなことより!」

 いきなりの大声に体がビクッと震えた。自分でも驚いたのか少し目線を下げて、改めて僕の方に向き直る。

「さっきのどういうこと?」

 落ち着かない様子で緊張気味に訊く、というよりかは尋問の方が近い。

 思わずその雰囲気に怖気ついてしまう。

「い、いや……な、なんでもないよ」

 口を吐いて出たのはそんな言葉だった。

「ほんとう?」

 雫は訝し気に僕を見つめる。

「た、ただの冗談だよ」

 そして数秒の後、

「そう、そうなんだ。良かった」

 とまるで自分に納得させるように呟いた。

「もう……やめてよね。そういう質の悪い冗談は」

 雫は無理やり固くなっていた表情を和らげるかのようにあからさまに頬を膨らませる。

「ご、ごめんって」

「もう許してあげない」

「それより雫の話って何?」

「無視? それに、「それより」ってなに? ひどくない? ほんとに許さないよ?」

「あ、い、いや、ご、ごめんなさい」

 思ったよりも強めに言われて思わず頭を下げて謝る。

「ふふ、よろしい。いいでしょう」

 少しいたずらっぽく笑うから思わずこっちもにやけてしまった。

「何にやけてんのよ」

「に、にやけてなんかいないし」

「ふふ、嘘だね。ま、いいよ」

「う、嘘じゃないし」

「はいはい。それで私の話だったね」

 と、軽く受け流され少し拗ねつつ頷く。

「私はね、れいと想と三人で住もうって――」

「なんだ、そんなこと……よかっ――えっっ⁉」

 思わず遮って大声をあげてしまった。

「三人⁉」

「うん」

 雫はいつも通り、僕が驚く様を見て微笑んでいた。

「いいでしょ」

 彼女らしい柔らかな笑みを浮かべる。

 気づけば自然と肩の力が抜けていた。

 全てが杞憂だったのだ。

 そう、全てが――

「どうかした?」

 いたい…………?

「ッッ」

 なんだ、これは。

 全身に蹴られ殴られたような鈍痛が走った。

「だ、大丈夫!?」

 雫の言葉が遠くなる。


【※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※】


「――ねえ!」

「れい!」

「っっえっっ……?」

「よかった! いきなり顔色が死人みたいに白くなって息が浅くなるからびっくりしたんだよ? 大丈夫?」

「え、あ、ああ、うん。大丈夫」

 心配そうに顔を覗き込む雫。

 全然整理できない。

 何が起こって、なんで起きたのか、なんで今なのか。全く分からない。

 けど。

 けど、これだけは分かった。

 僕はここにいてはいけない、と。

 なんでなのかは分からないが、本能というものなのだろうか。強くそう警告されている気がする。

「ねえ、大丈夫……じゃないよね。ちょっと横になる? 何か持って――」

「い、いや!」

 思わず大声を出してしまって雫が目を見開く。

「……大丈夫……」

 乱れた息を整えながら静かに呟く。

「大丈夫じゃないじゃん。どうしたの? 今日はなんかおかしいよ」

「い、いや、別に……」

 ――なんでまた逃げようとしてるんだ?

 心の中で理性が語りかけてくるみたいだった。

 そんなはずはないのになぜか僕は素直にその言葉を受け入れてしまっていた。きっとさっきの激痛のせいだ。

 ふっと息を吸う。

 思えば僕は逃げようとしていた。

 だから雫の雰囲気に優しさに呑まれて逃げた。

 雫の将来から。自分の心から。

「雫」

 深く息を吸い呼びかける。鼓動が速まる。

 もう、逃げない。逃げてはいけない。

「……な、なに? そ、そんな改まって。や、やだなぁー」

 駄目なんだ、雫。僕がいては。

 そう、駄目なんだ。絶対に。楽な方にいこうとするな。れい、腹を決めろ!

「雫、僕、ここを出る」

 その瞬間慌てていた雫の顔が一瞬にして凍りついた。

「……どうして?」

 震えて掠れていた。

「僕はもう雫にとっていらない存在だからだよ」

 自分に言い聞かせるためにもゆっくりと言葉を選ぶ。

 もう僕が僕じゃないみたいだ。

「……なんで……」

「……雫には想がいるから」

「だ、だから! 三人で……!」

「僕のことで二人の関係に傷がついてほしくないんだ」

 雫を見ていると胸の奥がギュッと絞められて潰されそうになるから目を逸らした。

「傷って……。……想は大丈夫だよ」

「僕もそう思ってるよ。でも……」

「でも……?」

 今にも消え入りそうな細い糸のような声。

「もし想が気味悪がって雫の印象を少しでも悪くしたら――」

「そ、そんなことない!」

 急に雫は立ち上がって大声を出した。

「……その時は私がなんとかするから、大丈夫……。だから……だからこのまま私の傍にいてよ」

 透明な雫に覆われて潤んだ瞳から重さに耐え切れなくなってポチャポチャと何かが落ちていく。

 その水晶を助長するかのように空気中を漂う悲痛な雫の言葉と漏れ出る嗚咽。

 視線を少し下にずらすと噛み締めた唇がふるふると力なく震えていた。

 少しずつ頭の中に霧が立ち込めていって何も見えなくなるほど濃くなっていった。

 ただただ情景だけが映し出されていた。

 しかし、やがて、脳内で、一文字ずつ浮かび上がり変換されていった。


 ぼ、く、だ、っ、て、は、な、れ、た、く、な、い


 hanaretakunai


 はなれたくない


 離れたくない


「……そんなに……嫌だった? 私、何かした?」

 震える声音が僕の鼓膜をそっと振動させる。

「……がう」

「……ちがう」

「ちがう。嫌じゃない。むしろ好きだよ。でも……駄目なんだ……」

「……あれでしょ。私が想と話してたから――」

「違う。そんなんじゃない。むしろ二人には幸せになってほしいよ……」

「じゃあ……なん……で……」

「……それ……は……」

 胸が苦しかった。上手く吸えてない。さっきから上手く雫を見れない。

 想いとは裏腹に言葉は雫を突き放すことばかり。

「ねぇ……」

「……」

 そう、理性では、分かっている。じゃあ、もういいじゃないか。自分の想いなんてどうでもいいだろ。あっさり突き放せよ。口籠るなよ。泣くなよ。なくな。

 言え。言え!

「……僕がいたら……雫は幸せに……なれない」

「ッッ!」

「っ……なんで…………?」

 もう雫を少しも見れなかった。

 だって……。

 ドサッって酷く鈍い音が部屋中にこだましていたから――

「だって……」

 必死に言葉を紡ぐ。

「だって……僕は……幽霊で……雫の傍にいたら絶対いつか良くないことが起きる……想にばれたり……周りに気づかれたり……霊がよってきたり……」

「そぉ、そ、そんなの、そんなの……どうってこと……ないよぉ……」

「なんで……分かってくれないの? 僕がいたら駄目なんだ。これから先、雫は想と幸せな人生を築いていくんだ。……そこに僕はいらない。……邪魔にしかならないんだよ」

 なぜか言葉だけはスラスラと出てきた。雫がこんなに息も浅く弱ってすがっているのに。なのに僕は呼吸ももう少ししか乱れていない。

 なぜ?

 離れたくないのに、なぜ?

 なんでこんなにも平常でいられるんだよ?

 雫が大事じゃないのか?

 幸せじゃなかったのか?

 僕にとって雫って――

 くちゃくちゃに歪んだ雫と目が合う。

【違う!】

 違うだろ!

 雫との思い出を貶すな! 馬鹿野郎!

「――かる…わ……け…ぇ……」

 全身を貫く激痛で視線が目の前に映る。

 それから無限にも思えるような時間が続いた。空気がなくなっているかのようだった。

「分かるわけ……ないじゃん。そんなの……私にはれいが必要なんだよ。三人でいいじゃん。ねぇ……」

 干からびた薄紅い唇がその重さに耐えきれないように辛くゆっくりと開いて閉じて。また開いて閉じて。また閉じて……。開いて……開いて……。

 鼓膜をつんざくような沈黙の中で僕はぽつりと爆弾を投下した。

「ごめんね」

 その一言で全てを察したかのように雫は虚ろな瞳で僕を見つめて――

         ***

「れい」

 耳よりもずっとずっと近いところできこえた。

 今までにきいたことのない形容のしようがない、ひどく柔らかな声だった――

 形容のしようがない、んじゃない。できないんだ。言葉にしたらその声が消えてしまうから。

 そんな声がぽつりと僕に触れ、染みこんだ、その刹那、僕を原子レベルまで破壊させた。



「わたしもしねばよかった」




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