(9) 夕暮れの瞳
***
僕は彼女と初めて会った堤防にずっと座っていた。
二回太陽が昇って三回衰える夜明けの月を眺めた。
もう彼女と会うことはできない、そう思っていた。
こんな僕を憎くて憎くて堪らないだろう。
もしかしたら後ろから刺されるかもしれない。僕はそれだけのことをしたのだ。でも、彼女はそんなことをする人ではない。なのに。僕はそんな外道なことを考えてしまう。それがまたさらに僕を嘲笑と自傷の波に突き落としていく。
たゆたうように。僕は虚ろな目で直射日光を浴びていた。そんな白々しい中、彼女の泣いている姿が浮かんだ。
僕は目が痛いからか胸が締め付けられ辛いからか、目をきつく瞑った。
ずっと彼女への懺悔を頭の中で繰り返していた。
ゲシュタルト崩壊を起こしたのか狂ったのかは分からないがいつの間にか意識が飛び眠ってしまっていた。理性では寝てはいけないと釘打っていたのに。
辺りは近くの街灯が点き始め次第に暗くなり始めていた。
遠くで烏が鳴く。
「れい」
そう聞こえた……気がした。
どこでしたのか分からなかった。いや……。
多分頭の中だろう。
自分の願望が脳に作用したのか。所謂空耳だ。本当におめでたい奴だ。僕は。
そうか、本当は雫さんに来て欲しいのか。あんなに酷いことをしておいて心の中で懺悔を繰り返したくせに、本心は来てほしくて堪らない。許してほしくて。
――僕はどこまでも救いようのない屑な化け物だ。
傷つけておいて来て欲しいなんてどの頭がどの口が言うんだ。
「れい」
また、聞こえた。
今度は後ろから。
とうとう幻聴まで――
「れいってばっ」
肩を優しく叩かれた。
この感覚は紛れもない現実だった。
慌てて振り返るとそこには雫さんがいた。
眉を吊り上げてキッと斜陽に照らされ淡く滲んでどこまでも澄みきった瞳で睨んでいた。
僕はたじろぐ。幻覚ではない。そう分かっていた。だからこそ怖かった。これから何を言われるのか。――いや、違うか。彼女を見た刹那、どこか安心してほっと安堵した自分がいたことに対してか。
僕は何を言われるのだろうか。
なんでそこにいんの? 私の場所を汚さないで。消えて。もう二度と顔を見せないで。……と言われるに違いない。
「もう。一回呼んだら気づいてよね。何回も呼ぶの恥ずかしいんだから」
そう言って頬を目許を細めわざとらしく頬を膨らませる。
――え?
「そんなに悲しい顔しないの」
――えっ。
「ふふ。私、怒ってないよ」
そう言って表情を緩め上品そうに微笑む。
その笑顔が夕日に照らされて眩しく煌めいていた。
「ぇ? え?」
「ふふ。声、掠れてるじゃん」
なんでだろう。どうしてか前が見づらい。
あれ?
「え、え、ちょ、ちょっとなんで泣いてるの?」
え? 泣く? 僕が? おかしいな、泣くなんて。
何か暖かいものが頬を落ちていく。
「私が来てそんなに嬉しかった? なーんてね。わ、わ、待って、なんでそんなに泣くの?」
「……ぅん」
嬉しかった。
嬉しくて嬉しくて堪らない。
嫌われて罵られるとばかり思っていた。それなのに……彼女は。傷つけておいて視界に入った瞬間喜ぶ、こんな最低な僕を……。
彼女は慌てていた。おろおろと僕の前をうろつき僕の顔を心配そうに覗き込んだ。
止めようと必死に頑張った。
でも、でも止まらなかった。溢れて溢れて……。とめどなく溢れてしまう。
「あ~ハンカチ、はい。って掴めないのか」
そう言って彼女はかがんで僕の顔にハンカチを当てて拭いてくれた。
それが暖かくてさらに泣いてしまった。
彼女はトントンと優しく背中をさすってくれた。
しばらく経って落ち着いてやっと喋れるようになって、
「ありがとう」
そう言うと彼女はこくりと頷く。
彼女が怒っていないことを再度確認できて、安堵しつつ言わなければいけないことを口にする。
「――ごめんなさい」
「……うん。でも、もう大丈夫だから、ほら、顔上げて」
ひどく優しい声で。ゆっくりと顔を上げる。
彼女はどこか困ったような顔をしていた。
僕はどうしていいか分からず黙ってしまった。少しの沈黙が流れる。彼女はずっと僕の目を見つめていた。やがて、彼女は重たい口を開ける。
「――れい、ごめんなさい」
「……え? 雫さん、顔上げて! 雫さんは何も悪いことしてないのに。謝るのは僕の方なのに」
わけが分からず動転しながらも、
「本当にごめんな――」
「いや、謝らないで。私が悪いから」
と遮られてしまった。
「いや、本当に雫さんは何も……」
「ううん。私がれいを傷つけた。……ばかだよね。れいの気持ちも考えずにさ。しかも勝手に怒ってさ。……れいに言われて気づいたんだ。……確かに逃げられたんだって。私は現実から目を逸らそうとしていた。現実を見て見ぬふりをしてないことにしようとしてたんだ。でもれいはそれに気づかせてくれた。本当にありがとう」
「え、えっ」
まさかお礼を言われるなんて思ってもみなくて。つい言葉が漏れてしまった。
「僕の方こそ……」
「ううん、大丈夫だよ」
優しく僕の言葉を遮る雫さんは本当に怒る気配が感じられなかった。それどころか、僕が罪悪感から「僕の方こそごめん」と謝るのが分かっていたとでも言うかのようにからかいの笑みも含まれていた。
「ふふ。怒られるかと思った?」
さっきまでの重々しい雰囲気を壊して、からかうように訊いてくる。
「うん。僕はてっきり……」
「てっきり? 何?」
「いや、そのっ」
「会わないでとかさようならって言われるかと思った?」
「……うん」
「ふふ。そんなの言うわけないじゃん。……そのことなんだけどね。私もあの時、かっとなって「出てって」って言っちゃって、ごめんね。私、そんなの思ってないよ」
僕は目を丸くする。
「私さ、れいが彼氏だったらって言ったじゃん。本当に失礼で傲慢だったって思ってる。これは許されないって。でも、私はれいがれいで良かったって思ってる。実は彼と会った時、少しほっとしたんだよね。れいが彼じゃないって。れいはちゃんとれいだって。上手く言葉にできないけど……。って私酷いよね、今更こんなこと言うの」
「ううん、そんなことないよ」
「ありがとう。れいは優しいね」
「そ、そう?」
褒められると照れる。
「あ、あのさ。れいが良ければ、こ、これからも家に来てくれないかな」
顔を赤らめながらはにかむ彼女。
「ぅん。うん。こちちらこそ、よろしく……お願い……しますぅ」
「ふふ。もう、また泣いてるじゃん」
「大丈夫。ほら、笑って、笑って」
――なんでだろう。凄く懐かしい。懐かしくて……。
「わ、また、泣いてる。どんだけ泣くの? こんなに泣き虫だったんだ、れいって」
呆れながらティッシュを差し出してくる。
「しょうが……ないじゃん」
彼女が余りにも笑うものだから、僕もつい笑ってしまい、二人でクスクス笑いあった。
周りは夜になり月明りが優しく僕らを照らしていた。
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